宝塚記念で悩めるあなたのために再掲:「自己克服という」

私はビリヤードが好きでかなりの時間とお金を費やしてきたが、どうにもこうにもなかなか上手くならない。なぜ上手くならないかというと、目線と一致するようにキューが振れないからだ。
私たちは両方の目を均等に使って物を見ているように感じているが、実は人間には利き目というものがあって、どちらか一方の目を中心として物を見ているのである。利き目でない方の目は補助的な役割をしていて、利き目とは微妙にずれた目線を持っている。
ビリヤードでは、顔の中心(両目の間)かもしくは利き目の下でキューを振るのが基本であり、そうでないと自分がショットしたいと考えるラインと実際にショットするラインがズレていることになる。野球のバッティングでいうと、ピッチャーの投げた球に対してバットを当てようとする軌道と、実際にバットを振る軌道がズレているということだ。どちらの場合においても、ほんのわずかなズレが成功と失敗を分けることになる。
なぜ目線と一致するようにキューが振れないかというと、それは私の肉体的な構造に原因がある。腕の長さ、関節の柔らかさ、肩の筋肉のつき方など幾多の要素が重なりあって、私にとって自然なフォームは出来上がり、その結果として、たまたまビリヤードという競技においては、私の目線とキューの振りが一致しないのである。野球のバッティングで、向かってくるボールに対して正確な軌道でバットを振れないとすれば、それはまさにヘタクソということなのであって、私もそういった意味においてはビリヤードがヘタクソなのである。生まれ持ったものがビリヤードとはあまり馴染まないというやさしい言い方もできる。
しかし、それは私だけに限ったことではないだろう。私たちは大かれ少なかれ<世界>で求められている形とは違っているのではないだろうか。それを「ズレ」とか「違い」とか「境遇」とか言ってみたりする。生得的なものであろうが、後天的なものであろうが、私たちが<世界>で求められている形と、初めから一致することは少ない。私たちはまずそこから始めなければならないのだ。
<世界>が人間のためにあるのではなく、<世界>があってこそ人間は存在する。<世界>は何者によっても動かされることはない。私たちは常に<世界>未満なのである。私たちに課されていることは、<世界>を変えることではなく、<世界>と私たちのあいだにある大きな溝をひたすら埋めていくことなのである。<世界>は私たちに自己克服を求めるのだ。
スポーツが私たちにとって自己克服であることが多いのは、その<世界>で求められている形に、いかにして自らに固有の肉体を変形もしくは適応させていくかという課題を突き付けてくるからである。そういった意味において、ビリヤードは私にとって自己克服なのである。

海外のビリヤード場で、車椅子に乗りながらプレーする人、杖をつきながらプレーする人を何人も見たことがある。彼らの肉体的特徴は、ビリヤードをプレーする上でマイナスにしかなりえない。テーブルにもたれ掛かるようにしてショットするのだが、下半身が安定しない分、どうしても手打ちになってしまう。土台がない大砲のようなもので、ミリ単位の狙いを要する状況では命取りになりかねない。上半身だけで届く範囲は限定されていて、どうしても手の届かない場所がテーブル上に多く出てきてしまう。そういう時はブリッジという棒を使うのだが、この棒が不安定なのはいうまでもない。さらに、的球がポケットされると、次のショットの位置まで移動しなければならないが、長時間プレーを続けていると、彼らにとってはこの移動が少しずつ疲労として蓄積されていく。
それでも彼らは的球を狙い、手玉を突く。的球がポケットされると、次のショットに向かう。9個のボールを番号順にポケットしていくという法則に、彼らは全身全霊を捧げる。たとえ彼らが<世界>と自らのあいだにある大きな溝にはまってしまい、悔しそうな表情を浮かべていても、私にはそれでも彼らが嬉々としてプレーしているようにしか見えなかった。
ビリヤードは、どれだけ正確に的球をポケットし、手球をコントロールできるかの連続性を競うスポーツである。たとえ<世界>の求めている形と彼らがいくら異なっていても、的球をポケットして手球をコントロールすることができれば、<世界>と彼らのあいだにある溝は埋まることになる。<世界>に忠実に生きることの難しさには、自己の実現や表現といった甘えが入り込む余地は一切ない。ビリヤードは彼らにとっても自己克服なのである。
そして、私たちは肉体的だけではなく、精神的にも自己克服を迫られることがあるだろう。私にとって、競馬は精神的な自己克服なのかもしれない。競馬を予想すると、私の心の弱いところをまざまざと目の前に突きつけられ、それを覆い隠そうとしてますます弱さを露呈することになる。自惚ればかりで、意気地がなくて、優柔不断で、保身的で、思想に一貫性のないみじめな自分を私は確認することになる。それでも私は、<世界>と自分自身のあいだにある溝を埋めようとして、高いのか安いのか分からない授業料を払い続けるのだ。

考えてみれば、世の中は自己克服に満ちている。少なくとも私にとっては、自己克服を迫られることばかりだ。幸せそうな人を見ると嫉妬してしまうし、上司に嫌味を言われると顔がひきつってしまう。目覚まし時計通りに朝起きることもできない。<世界>が求めている形と私との間にある溝はまだまだ深く険しい。
自己実現なんて大それたことはできないし、自己表現なんてこっ恥ずかしい。<世界>と自分とのあいだにある溝を埋めていく、<世界>に離されないよう追いついていく、それだけでも私にとっては苦しく楽しい道程なのである。自己克服の持つそんな響きが、今の私にはしっくりとくるのだ。
今年の宝塚記念で、私、そしてあなたは、果たして自己克服できるのだろうか。
special photo by Ichiro Usuda
菊花賞2
有馬記念
阪神大賞典
天皇賞春1
天皇賞春2
宝塚記念1
宝塚記念2
宝塚記念3
凱旋門賞1
凱旋門賞2
ジャパンカップ
ファイナルフライト1
引退式
ハーツクライ
伝説のウオッカ
メイショウサムソン
スイープトウショウ引退記念
アドマイヤムーン
ダイワスカーレット桜花賞
ディープスカイ
ウオッカ安田記念
伝説の天皇賞秋
ダイワスカーレット有馬記念
ロジユニヴァース
Strongest Vodka
カンパニー
Keiba is beautiful
Comments
目線が合わない上に右手と左手のバランスが悪いので
剣道で「面!」と叫びながら肩を叩いてしまったり・・(笑)
今回の話は実感を伴って理解できる気がします(^^;
ブログをやっているということで自己表現を
自分に強いているわけですが、その内実は
自己克服の道です。
週の初めに考えていた事と週末の馬券がどれほど
食い違っていることか(爆)
迷いに迷う自分を抑え切れていないことを毎週
突きつけられているようです・・・。
宝塚記念もまたひとつの試練。
自分がどう考えて「週末の自分」を作っていくのか
楽しみです(^^)
Posted by: けん♂ | June 25, 2008 at 03:35 AM
けん♂さん
こんばんは。
けん♂さんは剣道をやってらっしゃったのですね。
私はとことんビリヤードをやったのですが、やったからこそ、自分の身体性には合わないと知ることが出来ました。
その過程で、全ての物事は自己克服に満ちているなあと思った次第です。
競馬においても<世界>はまだまだ遠くにありますが、少しずつでも近づいていけているかなという実感もあります。
>ブログをやっているということで自己表現を
>自分に強いているわけですが、その内実は
>自己克服の道です。
→おっしゃる通りだと思います。
自己表現するつもりが、いつの間にか自己克服に代わってしまうのですよね(笑)
お互いに宝塚記念でも楽しみながら自己克服しましょう!
Posted by: 治郎丸敬之 | June 26, 2008 at 12:54 AM