変わってゆくことだ
今年の6月8日、ディープインパクトの顕彰馬選出記念セレモニーを見るため、私は府中競馬場にいた。ディープインパクトが飛ぶように私の人生を駆け抜けてから、気が付けば1年以上の歳月が経っていた。久しぶりに当時の日記を読み返してみると、そこには恥ずかしいくらいに感情的になっている私がいた。凱旋門賞前後のあの熱い思いが蘇ってくるようだった。

2006年10月1日
ディープインパクトが凱旋門賞を勝つことは難しいだろう。競馬を知っている者であればあるほど、その難しさは分かる。なぜ難しいかというと、それがヨーロッパナンバーワンを決める凱旋門賞だからである。ディープインパクトの背負う斤量や、間隔が開きすぎたローテーションなどの問題ではない。それらは凱旋門賞という戦いの意味を考えれば、ごく僅かなことでしかない。凱旋門賞はヨーロッパの舞台で争われる、ヨーロッパ最強馬を決する戦いなのである。
日本の競馬とヨーロッパの競馬では、最強馬に求められる資質が違ってくる。具体的に言うと、日本の競馬はスピードや手脚の軽さ、瞬時にスピードを爆発させる激しいながらも鋭敏な気性が求められるのに対し、ヨーロッパの競馬ではスタミナやパワー、我慢強さ、最後まであきらめない集中力を必要とされる。
つまり、ヨーロッパの最強馬は日本の最強馬ではなく、日本の最強馬はヨーロッパの最強馬ではないということである。極端に言うと、日本で活躍できたディープインパクトの資質が、ヨーロッパではマイナスの資質に転化してしまうこともあり得るのだ。
さらに言うと、ヨーロッパの最強馬は、ヨーロッパの最強馬たちの「血」を脈々と受け継いで誕生している。ヨーロッパ競馬の歴史が培ってきた「血」の凝縮が、凱旋門賞という舞台で爆発して、その「血」がさらに受け継がれていく。これだけ世界が小さくなった現代においても、競馬とはその「地」に適した種牡馬が最強馬を生み出していくという、「血」の局地戦であることは否めないだろう。強い馬はどこに行っても強いという考え方は、「血」と「地」を軽視した、あまりにも傲慢な発想なのである。
それでも、たとえ傲慢と言われようが、ディープインパクトには勝ってほしいと思う。
理由なんてどうでもいいのだ。

2006年10月2日
ディープインパクトの敗因について、今さら述べる必要もないだろう。今回の凱旋門賞に限っては、戦いが終わってから敗因を挙げることには全く意味がない。なぜなら、そんなことは戦前から誰もが分かっていたことだからだ。あれだけから騒ぎをしたマスコミが、負けたとなるや敗因を口にするのは、当事者でない私でも腹が立つ。「よくやった」と褒め称えるだけでよいのではないか、と個人的には思う。まあ、そんなことはごく些細なことではあるが。
それよりも、私が最も恐れるのは、今回の敗戦によって、「ディープインパクトをもってしても世界の壁を破ることが出来なかった」という結論に達してしまうことだ。
そもそも、世界の壁とは何なのか。かくいう私も錯覚していたのだが、凱旋門賞を世界一決定戦と位置づけてしまうこと自体に大きな問題がある。凱旋門賞はヨーロッパ一を決定するレースかもしれないが、決して世界一を争うレースではない。
ヨーロッパと日本の競馬は全くもって別物である。それぞれの土俵で求められている資質が違う以上、どちらが最強ということはない。戦う場所が異なれば、勝者も違ってくるのだ。ここを取り違えてしまうと、日本近代競馬の結晶であるディープインパクトの敗北という悲観論に達してしまう。日本競馬のレベルが既に世界に追いついたことが明らかな今、凱旋門賞を最終目標に据えてしまうこと自体がナンセンスである。日本の最強馬が凱旋門賞を制することによって世界の最強馬となる、というマッチョな思想からは、悲劇の結末しか生まないだろう。
私たちは堂々と胸を張って、ディープインパクトの健闘を称えるべきなのだ。
競馬はまだまだ社会的には傍流にすぎないが、今回は大きな注目もあった。そんな中、私たちはディープインパクトが無事に出走できるよう祈り、その走りに一喜一憂することができたのだ。もしかすると自分たちもが認められるかもしれないその日を待ち望み、心をひとつにディープインパクトを応援できた夢のような日々を、決して私は忘れない。

2006年11月25日
ディープインパクトの動きが、ここに来て一変している。先週今週とDWコースで見せた動きは、まるでかつて走ることを楽しんでいたディープインパクトのそれであった。ひと言で言うと、ディープインパクトに走る気が戻ってきているのだ。おそらく、フランス遠征により環境が変わったことが、良い刺激になったのだろう。馬にとってはストレスの少ないフランスでの生活が、ディープインパクトに再び英気を養わせたに違いない。
一連の問題については、私たちの過度な期待と注目が引き起こしてしまった部分も少なからずあるのではないかと個人的には思う。いずれにせよ、これから二度と同じ誤りを繰り返さぬよう、事実は事実として受け入れるべきである。
だからといって、ディープインパクトにとって、今回のジャパンカップが汚名を払拭するための戦いになるとは決して思わない。
ディープインパクトは、もはやそういう低い次元で走る馬ではない。

2006年12月24日
最後の有馬記念は、ウインズ広島から駅に向かう地下道にあるオーロラビジョンで観た。普段は競馬など観ないであろう人々も皆、足を止め、ディープインパクトの最後の走りを見守っていた。こんなにも多くの人たちが競馬に関心を示してくれていることが、まるで自分が認められたかのように嬉しかった。スタートが切られ、各馬が1周目にスタンド前を通り過ぎる時点で、不覚にも涙が出てきた。それは幸福の涙であり、また癒しの涙であった。言葉にならない感情たちが、涙となって溢れ出てきたのだ。
ディープインパクトについて語ろうと思えば思うほど、なぜか言葉にできない。ただの馬ではないかと思われるかもしれないが、私にとってはただの馬ではなかった。日本の競馬だけではなく、私自身の人生も、この2年間で大きく変化した。転勤先で無我夢中に働き、楽しくも孤独な夜を過ごした。結婚し、新しい生命の誕生もあった。ディープインパクトを通じて、いろいろな人たちと出会うこともできた。そういえば、今の妻と初めて競馬場に行ったのも、ディープインパクトのダービーだった。ディープインパクトの走りは、まるで挿絵のように私の人生を彩っている。

2008年6月8日 ディープインパクト顕彰馬選出記念セレモニー
もしディープインパクトが凱旋門賞に勝つようなことがあれば、競馬が変わっていたかもしれないと今でも私は思っている。青臭いと言われてしまえばそれまでだが、競馬のスポーツとしての素晴らしさを、まるで野球やサッカーをそうするように、自然と語ることのできる日常がすぐそこまで来ていると思い、私は夢のような日々を過ごしていたことを思い出す。
残念ながら私たちの夢は叶わなかったが、それでもディープインパクトやその関係者たちが果たした、日本の競馬に対する功績は計り知れないほど大きいはずである。ディープインパクトに対する感謝の気持ちは、あまりにも大きすぎて言葉にならない。どうすれば、私はこの気持ちを伝えることが出来るのだろうか。ディープインパクトのいない府中競馬場で、そんなことを考えた。
アラスカの地を冒険した写真家である星野道夫さんによる、こんな詩がある。
「いつか、ある人にこんなことを聞かされたことがあるんだ。
たとえば、アラスカのこんな星空や泣けてくるような夕陽を一人で見ていたとするだろ。もし愛する人がいたら、その美しさやその時の気持ちをどんなふうに伝えるかって?」「写真に撮るか、もし絵がうまかったらキャンバスに描いて見せるか、いや、やっぱり言葉で伝えたらいいのかな。」「その人はこう言ったんだ。自分が変わってゆくことだって。・・・・その夕陽を見て、感動して、自分が変わってゆくことだと思うって。」(「オーロラの彼方へ」)
ディープインパクトが教えてくれた競馬の素晴らしさを、同時代に生きた私たちは、伝えていかなければならない。ディープインパクトという偉大なる挑戦者と共に生きた、あの夢のような日々を伝えていかなければならない。そのためには、自分が変わってゆくことだ。ディープインパクトの走りを見て、感動した私たちが、変わってゆくことだ。

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Comments
ただいま治郎丸さん、和人です、やっぱり”英雄”のいないターフは寂しいですね。
あれだけ素晴らしかった天皇賞秋でしたが、ディープがいたら簡単にウオッカとスカーレットを交わしていたんじゃないかと思ってしまいます。
凱旋門はそれでも勝ってほしかったですが、その夢は産駒に託したいと思っています、やっぱりあの馬は特別で素晴らしい馬だったと思います。
ラストの有馬の『遠心力に逆らう』ような走りと、豊を落とすような走りは一生忘れないです。
Posted by: 和人 | December 05, 2008 at 04:25 PM
和人さん
こんばんは。
ディープは規格外の馬でしたからね。
ただ強かったというだけではなく、競馬ファン以外の人々にもその存在を知らしめたというところにディープのディープたるゆえんがあったと思います。
和人さんとこうしてやりとりが出来るのも、ディープのおかげですからね(笑)
それにしても、有馬記念の4コーナーのあの速さは今でも忘れられません。
Posted by: 治郎丸敬之 | December 06, 2008 at 09:09 PM