プロフェッショナル 仕事の流儀「オグリキャップ」を観た人に読んでほしい1冊

Umahadarenotameni

オグリキャップが勝った有馬記念は、私は馬券も買わず、ひとりぼんやりと後楽園ウインズで観ていた。当時はまだ右も左も分からない競馬初心者で、有馬記念のウインズがあれほど混むとは思いもよらず、長蛇の列に並んでみたものの馬券を買うことが出来なかったのだ。しかし、あの時、生まれて初めて、競馬のレースを観て鳥肌が立った。最後の直線でオグリキャップが先頭に立った時の、後楽園ウインズを包んだあの異様な空気は、今でも忘れられない。

この本の著者、木村幸治氏はその空気を映画「蒲田行進曲」のラストシーンに重ねる。

(オグリ、来い、来るんだ、オグリ。) 心の中で、わたしも叫んでいた。胸の奥で熱いものが湧いてきた。何かのシーンに似ている。そうだ。映画「蒲田行進曲」のラストシーンだ。<池田屋階段落ち>で、新撰組に扮した風間杜夫の銀ちゃんが、自分のため死を覚悟で階段を転げ落ち、瀕死の重傷を負った安次に、涙で顔をグシャグシャにして言うセリフにそっくりだ。 (ヤス、来い、来るんだ、ヤス、上がってこい、立つんだ、ヤス) 不思議な感覚が、小さな震えが、わたしの全身を襲ってきた。 オグリは下がらなかった。トップを譲らなかった。 ゴール。オグリキャップが勝った。勝ってくれた。メジロライアンを四分の三馬身差に押さえ込んで。信じられないことが、目の前で起きた。奇跡といっていいだろうか。

やはり、競馬のノンフィクションを書かせたら、木村幸治氏の右に出る者はいないと思う。このくだりは何度読んでも、読むだけであの時の興奮が蘇ってきて、鳥肌が立つ。そして、あのレースを生で観ることが出来たことを、一競馬ファンとして幸せに思う。

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「サラブレッドと暮しています」

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競馬の漫画といえば「パッパカパー」が真っ先に思い浮かび、それから「優駿の門」、「みどりのマキバオー」、「風のシルフィード」あたりで止まっているように、ここ最近はこれといった競馬マンガに出会えていない。そんな私が久しぶりに心を動かされたのが、園田競馬場の厩務員が描いた「サラブレッドと暮しています」である。1巻完結ということもあり、ストーリー性においては前述の漫画たちと比べようもないが、競走馬に対する愛情や理解という点においては、さすがに群を抜いている。厩務員から見た競馬の世界が実に見事に表現されていて、(マンガをそうすることはほとんどない)私が2度も読んでしまった。そして2度泣かされた。

著者である田村正一氏がこれまでに担当した、個性的な馬たちが続々と登場する。ひきこもりの馬、牡馬にモテモテの栗毛牝馬、走る気をまったく失くしてしまった馬など、サラブレッドといえどもこれほどまでに性格や気性が違うものかと驚かされる。その中でも最も多くの回に登場するのは、著者が園田競馬場にやってきて、初めて担当することになった9歳馬サイレントウイナーである。2歳から100戦以上を走り続け、複勝率が40%を超える、衰え知らずの堅実派。しかし実は気性が荒く、油断するとすぐに悪さをする、扱いの難しい馬でもある。噛まれたり、振り落されたり、怪我をさせられながらも献身的に尽くす厩務員は、人間の母親のそれに似ている。

衝撃のラストシーンには胸が詰まる。サイレントウイナーが競走中に故障を発生し、安楽死処分になってしまったのだ。突然の別れに戸惑いながらも、こんなことがあっても涙を見せないと決めていた著者だが、サイレントウイナーのいない馬房に戻ってきた瞬間に崩れ落ちる。そこには共に過ごした家族との日々があった。ネタバレになるから書かないでおこうかと思ったが、このマンガの大事なところはそこではない。担当馬の死に遭遇した著者は、それ以降、果たしてサイレントウイナーは「幸せだったのか?」と自問自答することになる。人間の都合で管理され、休むことなく走り続け、たった1度のアクシデントで命を落とした彼が幸せであったはずがないと。

競走馬と人間との別れは、あらゆる形で突然にやってくる。たとえばジェンティルドンナのように有終の美を飾り、名牝として華々しく私たちのもとを去ってゆく馬もいれば、プチコのようにゲート試験でこれ以上苦しめるのは可哀想と、繁殖牝馬としての期待を背に牧場に帰る馬もいる。そうではなく、シングウィズジョイのようにレース中に不慮の死を遂げる馬もいる。どのような別れであっても、私たちは「幸せだったのか?」と問うだろう。そこに答えはないかもしれない。しかし私は、このマンガのラストで調教師が著者に対してかけた言葉こそが答えになるのではないかと考える。その答えをひとりでも多くの競馬ファンに知ってもらいたい。

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「後藤の語!」

Gotounogo

5月10日(ゴトーの日)に発売された後藤浩輝騎手のエッセイ集である。彼は原稿用紙に手書きで執筆していたそうで、表紙には彼の書いた字も読める。達筆と称するに相応しく、実に大人びていて、一文字一文字が枠の中にきっかりと収まっている。文は人なりというが、字も人なりである。この本には後藤浩輝らしさと、らしくなさが見え隠れしていて、彼という人間の奥深さが読後感として伝わってくる。太陽のような男がなぜ命を絶つことになってしまったのか、単純な人間である私には到底想像が及ばない。それでも、福永祐一騎手があとがきにも書いていたように、彼は思っていたよりもいつも近くにいるという感覚はある。私たちが競馬を続けている限り、彼はそばにいてくれるのだろう。

あまり深読みしなくても、内容自体が面白く、興味深い。特に競馬にまつわる“いい話”や騎手としての視線や意見が真っすぐに書かれている箇所は、思わずブックマークをしてしまうほど。私が大好きなのは、脚に怪我を負った演技をして調教から厩舎に帰ろうとする利口な馬の話。関係者たちにとっては困ったものだが、外から見ると微笑ましい。

そして馬も嘘をつくのだ。信じられないだろうが本当に嘘をつくのだ。それは昔、俺が経験したことなのだが、その馬は以前に脚を少し痛めて休んでいたことがあった。それも完治して調教師も太鼓判を押すほどの好調だった。そしていざレース。返し馬をするとあり得ないくらい脚を痛がる仕草をするのだ。そんな状況で走らせるわけにはいかないので、もちろん競走除外にしてもらった。が、しかし!!帰り際、彼を見るとシャンシャンと歩いているではないか!なんとなく彼の顔がうすら笑いを浮かべているようにも思えた。

後日、調教師に聞くと、どこを触っても何も気になるところも痛がるところもなく、いたって元気にしているよ、と言われた。「コイツ、絶対に痛がるフリをしてレースに出たくなかったんだな」と確信した。その後の彼は、そうやってレースになると痛がる素振りを見せていたが、もう信じてもらえず走らされていた(笑)。

また、ブエナビスタの降着事件をめぐる外国人騎手たちのラフプレーについて、正直な意見を包み隠すことなく書き、日本人騎手たちの気持ちを代弁してくれている。ラフプレーとアグレッシブさの線引きは難しいが、日本人騎手の中に自分の意見を主張できるジョッキーがいることの意味は大きかったはず。その他、反抗心むき出しのエリンコートとの出会いからオークス制覇に至るまでの道のりは、騎手にしか知りえない、味わい深いストーリーである。雨が降るとウキウキする珍しい馬、ショウワモダンに対する並々ならぬ愛情も伝わってきた。

本を読むことで、著者の頭の中にわずかでも入り込むことができる。私はそうやって、若いころから、野平祐二騎手を筆頭にして、岡部幸雄騎手や藤澤和雄調教師、伊藤雄二騎手、田原成貴騎手らの頭に入って学んできた。そのようにして得た知識やエピソードが血となり肉となり、私の競馬観を形づくっている。そこに後藤浩輝騎手も加わることができたはず。彼が生きていれば、もっとたくさん彼の頭に入ることができたのにと思うと、残念で仕方ない。

関連エントリ
ガラスの競馬場:「拝啓 後藤浩輝様」
ガラスの競馬場:「僕たちは生きてゆく」

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名馬の理

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今年の2月に引退した橋口弘次郎調教師が育て上げた名馬たちの物語である。1000勝を積み上げた橋口調教師は偉大だが、この物語の中心に彼がいるのではなく、登場するのは名馬たちであって、彼はその傍らにいつもいるのである。調教師像というのは様々であり、国によってはかなりの権威を持っていたりするし、一国の競馬の存亡を担ってきたのも調教師であったりする。橋口調教師はそういうタイプではなかった。地方の競馬場で育ったことや、騎手としては大成しなかったことに礎があるのかもしれないが、競馬人として生きた46年間、彼は人と馬に沿ってきたのである。熱い想いを心に秘めながら。

橋口調教師が調教した馬たちが表舞台に立ち始めた時期と、私が競馬を見始めたそれはちょうど重なっている。最初の頃は、目につくのは馬と騎手の名前ぐらいで、その馬を育てている調教師と馬が紐つくことはほとんどなく、もちろん調教師の名前と顔は一致しなかった。だから今さらになって、そういえばあの馬はこの調教師が管理していたんだと知らされることになる。まさにレッツゴーターキンがそれであり、天皇賞秋でトウカイテイオーを大外から飲み込んだ末脚の衝撃は今でも忘れられないのに、橋口調教師の管理馬だということはこの本を読んで知った。あの当時、先駆的に坂路を使い始めた橋口調教師のレッツゴーターキンが大舞台で初めて結果を出したのである。

ダンスインザダークの日本ダービーにおける無念は痛いほど伝わってくる。勝たれたフサイチコンコルドの調教師が、引退を控えた小林稔氏であったこともまたひとつのドラマなのだが、おそらく橋口調教師の心には、勝利した数多くのレースよりも勝てると思っていた日本ダービーを落としたことの方が強烈に残っているのではないか。人はそうやって深い傷を一生負いながら、それを糧にして生きていくのである。のちに橋口調教師はワンアンドオンリーで日本ダービーを制することになるのだが、ダンスインザダークが日本ダービーに臨むにあたっての当時の自身のインタビュー映像を見返してみての感想が印象的である。

橋口がダンスインザダークに寄せる自信には一点の曇りもなかった。ダービーの週、テレビ局のインタビューに答えて彼はこんなコメントを残している。
「出走さえすれば、自ずと結果はついてくるでしょう」
熱発により、無念の回避を余儀なくされた皐月賞の経験を踏まえての発言だったが、現実にダービーを勝った後、20年近く前のこの映像を見て、橋口は苦々しい思いになったという。何を浅はかなことを言っているのか。ダービーほどのレースを、そんな心持ちで勝てるはずがないじゃないか。
「あれじゃあ、勝てない。人間がまだできていない。あの映像を見てそう思いました」

しばらくしてから、橋口調教師の前にハーツクライという馬が現れた。ディープインパクトを有馬記念で負かしたり、キングジョージでのあわやの3着、そしてドバイシーマクラシックでの逃げ切りなどが記憶に新しい。実は、ハーツクライが日本ダービーに出走する際に、鞍上をどうするかという問題があった。京都新聞杯を安藤勝已騎手で勝ったのだから、当然、日本ダービーもとなる。ところが、安藤勝已騎手はNHKマイルCを勝ったキングカメハメハという馬の手綱も握っていたのである。

安藤の本心なら確かめなくても分かりきっていた。そしてひとつしかない名手の身を、キングカメハメハの陣営と引っ張り合うようなことを橋口はしなかった。
「だってNHKマイルCの勝ち馬は誰が見てもずば抜けていたでしょう?確かに京都新聞杯の勝ちっぷりも悪くはなかったけれど、当時のハーツクライはまだ、あのレベルには達していなかった。それなのにあれほどの馬を断って『ウチの馬に乗れ』なんていったら、自分の見識が疑われてしまう」
橋口の意向を伝え聞いた松田国英からはすぐに電話がかかってきた。
「本当にウチの馬に乗ってもらっていいんですか?」
彼は笑いながら答えた。
「あれだけ強い勝ち方を見せられたら、オレが安藤勝己を引っ張っておく理由はひとつもないわ」

このときに橋口調教師が取った選択こそが、「男が惚れる男」と称されるゆえんであろう。それは喉から手が出るほどにほしい日本ダービーの栄光を、もしかすると自らの手で譲ってしまうことに他ならないかもしれないからであった。結果が出てみれば、橋口調教師の見識が正しかったことは証明されるが、まだ未来が分かっていない時点において、相手に手綱を委ねることができたのは橋口調教師だから。こうしたひとつ1つの点がやがて線となり、1000勝や日本ダービーへとつながり、人や馬の縁となって大きく花開いた競馬人生であった。彼の育てた人や名馬の名前と共に、橋口弘次郎調教師の名も深く胸に刻んでおこうと私は思う。


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「ミルコ・デムーロ×クリストフ・ルメール 勝利の条件」

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昨年より外国人として初のJRA所属騎手となったミルコ・デムーロ騎手とクリストフ・ルメール騎手のインタビューが、並行する形で掲載されている。同じ年に生まれた、性格も生い立ちもジョッキーとしてのスタイルも異なる2人が、イタリアとフランスの競馬場から日本にやってきて、今こうして同じ舞台に立っていることの奇跡。こういうことを邂逅と言うのだろうか。とにかく私たちは、彼らの騎乗が日本で観られることを幸せに思わなければならない。2人の対談は他の雑誌等でも幾度も目にしたことがあり、さすがに既読感はあるが、話を引き出すのが上手な平松さとし氏によって彼らの本音が見え隠れしている。

「日本にはないヨーロッパ競馬の良いところは?」という質問に対し、「う~ん、難しいな。ないかもね(笑)」とデムーロ騎手は答える。もちろんたくさんあるのだろうが、それ以上に日本の競馬は素晴らしいということ。あえて言うならばということで、「ヨーロッパの場合、必ず毎日いたるところで競馬が行われている。これはジョッキーにとっては良いことだと思う。単に乗る機会が増えるということではなくて、いろいろな競馬場で乗ることは勉強になるからね」とデムーロ騎手。同じくルメール騎手も、「ヨーロッパにはひとつとして同じ形態のコースがない」と言う。毎日、異なった形態や状況の競馬場で競馬をする。これこそが、ヨーロッパのジョッキーと日本の騎手の間にある大きな違いを生み出している。

私はかつてビリヤードをやっていて、アメリカに行ってプレイしたこともあるほど入れ込んでいた時期もあるのだが、海外のプレイヤーの強さのひとつに、場や状況に対する適応力の高さがあると感じた。ビリヤード台にはラシャという布が敷いてあり(競馬場でいう芝のようなもの)、この状態によって(湿気や保存状態によって変わってくる)球の転がり方や転がる距離が変わってくる。またクッションの柔らかさやポケットの大きさなど、様々な要素がプレイに大きな影響を与えるのだ。アメリカで活躍しているプレイヤーの中でも、特にフィリピンの人たちは台のコンディションにアジャストするのが早かった。なぜだろうと考えてみると、彼らは自国のビリヤード場において、かなりコンディションの悪い台であちこちでプレイしているからという結論に思い至った。日本はすべてを均一化し平均化することに長けているが、世界レベルで考えると、異なる状況に適応しようとすることで経験が得られ、技術が磨かれるという皮肉があるのだ。

その他、デムーロ騎手もルメール騎手も短距離のレースが好きと言っていることに驚かされ、デムーロ騎手にいたっては「直線競馬のミルコ」と呼ばれていたことは初めて知った。2015年のアイビスサマーダッシュをベルカントで勝ったとき、外埒いっぱいに走っていたところで、「ミルコ!」と観客席から声を掛けられ、あの一体感はたまらなかったと新潟直線1000mの魅力を語る。また、彼らの会話の中にはよくオリビエ・ペリエ騎手の話が出てくるように、実は彼らがここにいるのも、ペリエ騎手がいたからこそなのである(イチローがいるのも野茂英雄がいたからであるように)。彼らはいきなり日本競馬に登場したわけではなく、長い歴史を経て、ようやく私たちの前に現れた日本の競馬に最も適応できる外国人ジョッキーなのであることを忘れてはならない。

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覚えておきたい日本の牝系100

Nihonnohinkei100

日本の牝系と聞くと、フローリスカップやビューチフルドリーマー、アストニシメント、ヘレンサーフらに代表される、小岩井牝系などの大昔のそれを想起する方が多いだろうが、この本ではもっと時代をこちら側に引き寄せ、最近の20年ぐらいの間に活躍馬を多く出している牝系を扱っている。そのため、オグリキャップの時代に競馬を始めたようなベテラン競馬ファンにとっては馴染み深く、ウオッカやディープインパクトの世代にとっては競馬の近代史に想いを馳せる馬たちや牝系が登場する。自分が好きなこの馬には、名前を聞いたことがありYouTubeで観たことがあるあの馬と同じ牝系の血が流れているのかと気づくことで、競馬の世界は広がってゆく。

ページをめくりつつ、ハッとさせられたのは、私が最初に好きになった牝馬シンコウラブリイとピースオブワールドがアズリン系という同じ牝系だったことだ。アズリン系はアイルランドから広がった牝系であり、1990年代を中心に、タイキシャトル、タイキマーシャル、キングストレイル、ハッピーパスなどといったマイル戦で活躍する馬を輩出した。マイラーとしてのスピードの血の優秀さとはもちろん、私が驚いたのはその美しさも共通していることであった。シンコウラブリイはその芯の強さと美しさに惚れた馬であったが、実はピースオブザワールドが阪神ジュベナイルFを勝ったとき、「強く、そして美しい」と観戦記に書いた。えもいわれぬ美しさも牝系から遺伝するのだろう。

ハープスターは名牝ベガから広がる、アンティックヴァリュー系である。ベガは一本の線の上を走るようなフットワークの綺麗な馬だったが、アドマイヤベガ、アドマイヤドン、アドマイヤボスらを生んだだけではなく、ヒストリックスターを通してハープスターを誕生させたのだから驚きだ。個人的にはハープスターの末脚はアドマイヤベガのそれに近いと思う。瞬発力という括りの中でも、1ハロンの速さという面では、これ以上の瞬発力を発揮できる馬はそうはいない。アドマイヤベガの日本ダービーの切れ味と、ハープスターの桜花賞の末脚には目が覚めるような鋭さがある。

キズナは日本に輸入されたパシフィカスを通して広がったパシフィックプリンセス系に属する。パシフィカスはビワハヤヒデとナリタブライアンという2頭の年度代表馬を誕生させ、その半妹であるキャットクイルからはファレノプシスやサンデーブレイクといった活躍馬が出た。そして、勢いが落ちてきたと思われた矢先、ディープインパクトの血の勢いを借りる形でキズナという日本ダービー馬が出たことで再び息を吹き返した。追い出されてから、首が決して上がらず、沈んでゆくように走るキズナの姿はまさにナリタブライアンのそれである。こういった姿勢でラストを走ることができる馬は地の果てまでも伸びる。

このように日本の牝系を知るだけで世界が広がっていくし、横糸だけではなく縦糸も通し編み直したという点において、歴史的資料として貴重である。しかし、ひとつだけこの本にも課題がある。せっかく横糸と縦糸を見事に通したのだから、斜めの糸もほしかった。そうすることで、日本の牝系は面となり、深みを増し、最後には物語になるだろう。そんな物語を読んでみたいと思ったのは私だけではないはずだ。

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「世界一の馬をつくる」

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キズナとワンアンドオンリーで日本ダービーを連覇し、オーナーブリーダーとしての高みに登り詰めた前田幸治氏による著書。武豊騎手が推薦文に寄せているように、「馬づくりの奥深さと、ノースヒルズの強さの理由がよくわかる本」であり、ノースヒルズや大山ヒルズにおける牧場・チーム運営のノウハウと未来への夢が込められている。前田氏は全くの素人として牧場経営を始めたこともあって、プロの意見や情報をしたたかに集め、そこに独創的な発想を試してみることをためらわなかった。もちろん、オーナーブリーダーだからできたのかもしれないが、世界一の馬をつくるために、やれることを全てやるという挑戦の姿勢は、あらゆるホースマンにとっての見本になるはずである。

最後まで読み通してみて、ここまで書いてしまって良いのだろうかというのが正直な感想である。本の途中で、社台ファームの吉田照哉氏がノースヒルズを見学に訪れ、そのことをグループ誌に「企業秘密の部分もあるやもしれず…」と冒頭に書いたように、競馬関係者にとっても目からウロコのアイデアやノウハウが惜しげもなく提供されている。簡単に真似できることは隠していても真似されてしまう、というオープンな気持ちでいるからであろう。たしかに、「手づくりの高級時計」をつくるように、「馬育ては人育てから」取り組んでいる。簡単には真似されそうにもない。

個人的にオーナーブリーダーには憧れがあり、最近は馬の生産や育成にも非常に興味が湧いてきたこともあって、前田氏の競馬に対する思想には共感するところや学ぶべき点が多い。その中でも、「育つのを待つ―馬も人も10年がワンスパン」という章には感銘を受けた。少し長くなるが、とても重要な部分なので引用してみたい。

私は、イギリス、アメリカなどから毎年3、4頭の名血の牝馬を購入している。「これはいい」と思って買ってきたそれらの名血牝馬がレースで好成績を収めたとしても、繁殖牝馬として重賞勝ち馬を出すのは1割程度だ。G1馬を出す確率はもっと下がる。宝くじよりは率は高いが、全部が成功するわけではない。

だが、ひとつ気づいたことがある。それは、先に記したような、世界で成功しているオーナーブリーダーは、1歳で牝馬を買い、競馬を使ったあと繁殖にしている、ということだ。最初から繁殖牝馬として買って成功している例というのはめったにない。

馬は10年をワンスパンとして考えなくてはならない。

アメリカで1歳の牝馬を買ってきたとする。2歳で競走馬としてデビューし、5歳まで走って引退。6歳のときに種付けし、7歳のときに初出産。その仔馬がデビューするのは早くても2年後だから、ほぼ10年。

馬だけでなく、人も10年をワンスパンとして育てていくべきなのだろう。

以前、確かフェデリコ・テシオ(リボー、ネアルコなどを生産し一時代を築いたイタリアの馬産家)の著作だったと思うのだが、それを読んでいても、ここに記したようなやり方をした生産者が成功している。

海外から優秀な繁殖牝馬を輸入してきても、日本の地に慣れるまでに時間がかかるからかもしれないし、実際に競馬で走らせてみた上で、その牝馬の長所を伸ばし、欠点を補うような配合を試すことができるからかもしれない。定かな理由は分からないが、成功するオーナーブリーダーは、そういった一貫性のあるやり方を好むということである。馬づくりも人づくりも、つまり待たねばならないということだ。

その他、通年の夜間放牧に踏み切ったエピソードや外国人騎手偏重に対する想い、ミスを責めないことなど、前田氏の勇敢で寛容な人となりが伝わってくるようだ。そして、彼のチームがつくった名馬たち、ファレノプシス、スティルインラブ、ビリーヴ、ヘヴンリーロマンス、トランセンドなど、不思議なことに、その背に乗ったジョッキーたちと共にあの名シーンが蘇ってくる。このあたりにも、人も大事にする前田氏らしさが表れていると言ったら言い過ぎだろうか。ノースヒルズの生産馬を応援したくなるような気持ちになった。

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「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」

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凱旋門賞が行われる前に読んでおきたい本ではあるが、凱旋門賞が終わってからでも楽しめるだろう。いや、やはり凱旋門賞のスタートが切られる前に読んでもらいたい。1969年スピードシンボリに始まった日本馬による凱旋門賞挑戦の黎明期から、エルコンドルパサー、ディープインパクト、ナカヤマフェスタ、ヴィクトワールピサ、そしてオルフェ―ヴルまで、日本馬が出走しなかった凱旋門賞も現地に足を運んできた平松さとし氏だからこそ知る舞台裏が描かれている。最後まで本書を読み進めてみると、私たち競馬ファンの中にも、凱旋門賞制覇に向けた情熱が熱く脈打っていることが分かるはず。

実はスピードシンボリとメジロムサシから、日本馬として3頭目の挑戦となったシリウスシンボリとの間には13年の間隔が開き、そしてそこからエルコンドルパサーに至るまで、さらに14年の歳月が流れている。こんなにも毎年のように日本馬が凱旋門賞に出走するようになったのは、つい最近のことなのだ。それはスピードシンボリやメジロムサシの挑戦がいかに革新的であり前衛的であったかを物語っているとも言え、エルコンドルパサーの2着が凱旋門の重い扉をこじ開けたとも言えるだろう。あとはどの馬が日本馬として初めて凱旋門賞馬に輝くのか、といった段階にすでに来ている。たとえ勝てなかったとしても、それぞれの激闘はこうして私たちの記憶にはっきりと残っているのだから、凱旋門賞に挑戦する価値は極めて高い。

こうして凱旋門賞挑戦の歴史を一望してみると、やはりあのディープインパクトが勝てなかったことが今もって悔やまれる。あの時、ディープインパクトは完璧に仕上がっていなかったし(その後の2戦の走りを観てもそれは分かる)、内に包まれるのを嫌って外に出そうとした武豊騎手の手綱さばきは最善ではなかったと個人的には思う。武豊騎手もそう語っていたように、ディープインパクトを知る誰もがあの時勝てると思っていて、それを慢心と言うべきかどうかは分からないが、だからこその安全策がことごとく裏目に出てしまったのだ。競馬とはそういうものだし、凱旋門賞はそんなに甘くはないということだ。それでも、と思う。武豊騎手があの凱旋門賞のレースが今でも夢に出てくるという気持ちは痛いほど分かる。もしできることならば、タイムマシーンであのときに戻ってやり直したい。

著者は心外に思われるかもしれないが、巻末にある武豊騎手のインタビューに凱旋門賞のすべてが凝縮されているような気がしてならない。日本人にとっての凱旋門賞とは、ミスター競馬と呼ばれた野平祐二氏によって始まり、武豊騎手に受け継がれているDNAのようなものだ。

「日本とフランスの競馬のズレというのはあると思うんです。それはどちらの国の馬が強いというのではないんです。日本で勝つ馬はフランスのレースにマッチするのが難しく、フランスで強い馬は日本では勝ちづらいというか。なかなか両方のレースをこなせる馬は少ない気がするんです」

という武豊騎手の発言は本質を突いている。そして、「最低限の能力は必要だけど、最強クラスでないとダメということではないでしょう」と提案する。今年はゴールドシップ、ジャスタウェイ、ハープスターという3頭の最強クラスの馬たちが挑戦するが、もしそれでも勝てなかったとすれば、今後は凱旋門賞に合う馬を見つけて連れていくという発想に本気で切り替えることが必要になるのではないだろうか。

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「黄金の旅路」人知を超えた馬・ステイゴールドの物語

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ずっとこういう本を待っていた気がする。今から20年前、書店で手を伸ばせばこうした競馬本を掴むことができ、つまらない大学の講義中に貪るようにして読んだ記憶が蘇り、久しぶりに最後まで一気に読んでしまった。馬事文化賞を獲るために書かれたのではなく、競馬界の裏側を暴くようなゴシップでもなく、人気騎手に便乗して売らんとするでもなく、ただひたすら誠実に、関係者へのインタビューと綿密な取材を通し、競馬の魅力を紡いだ本である

前半部分は、私自身の記憶を辿りながら読んだ。ステイゴールドが現役で走っていたのは、1996年から2001年にかけて。競馬の最盛期と言ってもよい。興行的にも頂点に達し、日本競馬のレベルが急激に上がった時期と重なる。メジロブライト、サイレンススズカ、エアグルーヴ、エルコンドルパサー、グラスワンダー、セイウンスカイ、スペシャルウィーク、テイエムオペラオー、メイショウドトウ、アグネスデジタル、ジャングルポケットなどなど、ステイゴールドが鎬を削った面々を見ると、この時代の凄まじさが分かるj。

ブロンズコレクターと呼ばれていたように、ステイゴールドは50戦して勝ったのは7回だったのに対し、2着が12回、3着が8回という典型的な勝ち切れない馬であった。相手がどれだけ強くても、または弱くても、少しだけ負けてしまう。それには様々な理由があるのだが、そのひとつとして、左、左へとヨレてしまい、前へ進まなくなってしまう癖があった。ラチを頼らせて走らせてみたり、制御力の強いハミを使ってみたりしたが、結局大きな変化はなかった。そこで、当時ステイゴールドの調教助手を務めていた池江泰寿(現調教師)は、英国のM・スタウト厩舎で研修した時代に学んだことを思い出したという。

「同じレベルの能力を持つ馬がレースで戦ったら、従順な馬のほうが先着する。要は能力が互角なら、乗りやすい馬のほうが強いというわけです。だから普段の調教では、トレーニングによって肉体を鍛える、心肺機能を強化するという目的もさることながら、人間との主従関係をしっかりと築いて、従順でコントロールのしやすい馬に育てていくことも大事なんだよと教わりました」

そこで池江調教助手は、調教のやり方、馬との接し方を変えてみた。それまでは人間と馬の主従関係が崩れて、「こうしたい」というステイゴールドの意志に人間が屈してしまっていたところを、あえてステイゴールドに「こうなってもらいたい」という人間の意志を伝えたのだという。これがステイゴールドにとっての引退レースであり、初めてのG1タイトルを獲得したレースでもある香港ヴァーズにおける勝利につながっていったのだ。改めてステイゴールドという馬の道程を振り返ってみると、サラブレッドをレースで勝たせることの難しさが手に取るように伝わってくる。

後半部分におけるステイゴールドの種牡馬としての活躍や母父メジロマックイーンとの黄金配合のエピソードも面白い。まさか小柄な馬体で見栄えはせず、レースでもなかなか勝てなかったステイゴールドから、オルフェ―ヴルやナカヤマフェスタ、フェノーメノ、ゴールドシップといった超一流馬が誕生するとは誰が想像しただろうか。さらに言うと、ステイゴールドがディープインパクトやハーツクライと違うのは、種牡馬として、自身を超える産駒を誕生させていること。まさに人知を超えた馬なのである。そういったステイゴールドの魅力であり、競馬の魅力を、社台グループの吉田照哉氏はこう語っている。

「だけどそういうことが起きるのが競馬の世界なんだよ。最初は大して期待されていなかった馬がトップサイヤーになった例なんて、世界にはいくらでもある。子供が走ればいずれは分かるんだよね。まったく見向きもされない馬では無理だけど、ある程度の頭数を種付けされるレベルの馬なら、『この種馬、走るな』ということが段々とみんな分かってくる。そうやって這い上がってくる馬は本物なんだ。

反対に、みんなが最初から力んで、期待していた馬がいい種牡馬になるとも限らない。ディープインパクトみたいな馬はむしろ例外的で、競走成績がよくて産駒の成績も素晴らしい馬なんて、そうはいない。鳴り物入りで種牡馬になったのに(産駒が)まったく走らなかった馬なんて、いくらでもいるんだから。だけどそれは仕方ないよね。そんなこと、最初から分かっていたら競馬にならない。分からないからこそ、競馬が成り立つともいえるんだ」

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「誰も書かなかった 武豊 決断」

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久しぶりに出た、島田明宏氏による武豊本。デビューから、全盛期を経て現在に至るまで、武豊騎手の生き様をまとめた集大成のような作品に仕上がっている。取材者として、友人として、武豊騎手と苦楽を共にしてきた著者だからこそ書ける、ほんとうの武豊が詰まっている。同じく競馬について語る身としては、武豊騎手とこれだけ密度の濃い時間を共有してきた島田氏には、嫉妬心を通り越して、羨ましさしか感じない。こうして武豊騎手の足跡を振り返ってみると、彼の騎手人生は栄光に満ちているように見えて、実は挫折や屈辱の連続であることが分かる。そして、それはこれからも同じなのだろう。

今のタイミングで武豊騎手についての本を上梓するということは、なぜ武豊騎手はかつてほど勝てなくなったのかについて書かれている、という読者からの期待は計算づくのはずで、武豊騎手と社台グループの関係について避けて書くわけにはいかない以上、ある程度の言及はなされている。なされているが、核心に迫ったものではない。というよりも、核心などないのだ。三浦皇成騎手の結婚式にて、吉田照哉氏が「豊くん!」と笑顔で武豊騎手を手招きし、若い女性と3人で写真に収まり、武豊騎手と談笑しているシーンを紹介しつつ、両者の不仲説は不自然だと言う。島田氏は誠実に真実を語っていると私は思う。

そんなことよりも、人間・武豊が描かれている箇所が私にとっては心地よい。物心つく頃から、サラブレッドが周りにいる環境で育った武豊騎手は、「ニンジンは馬が食べるもの」と刷り込まれてしまったのか、ニンジンが何よりも苦手な食べ物になってしまったという。小さい頃にカメを飼って同じような経験をちくわでした私は大いに共感する話である。最も印象に深く残ったエピソードは、東日本大震災のあと、何か自分にできることないかと被災地に赴いたとき、サインや握手をしながら、体育館で寝泊まりをしていた被災者の方々から「頑張ってください」と声をかけられ、逆に勇気づけられもした。武豊騎手は、「これまでは顔を知られていることで面倒な思いばかりしていたんですけど、今日初めて『有名でよかった』と思いました」と語った。

武豊騎手ほど日本の競馬のことを考えてきた騎手はいないし、その発展に貢献したジョッキーはいないだろう。その意味においても、武豊騎手が日本一のジョッキーであることを私は疑ったことはない。おそらくこれからも、武豊騎手以上のジョッキーが誕生することはないだろう。これから先も、武豊騎手は武豊を生きていかなければならない。栄光や輝きだけではなく、成功から失敗、苦悩や逆境や挫折まで、良くも悪くも、すべては見られていて、もはや彼だけのものではない。その姿を通して、私たちファンは一喜一憂する。その背中を見せることで、彼に続くジョッキーたちは成長する。武豊騎手と同時代に競馬を生きていることに感謝しつつ、これからもその生き方を温かく見守っていきたい。

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「開成調教師の仕事」 矢作芳人著

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前作「開成調教師-安馬を激走に導く厩舎マネジメント」から5年の時を経て、全国リーディング上位の常連となった矢作芳人調教師が語る仕事論である。この本を一読して、素直に感じたことは、良くも悪くも、調教師の仕事はひと昔前とは大きく変わってしまったということだ。そのことを矢作芳人調教師は決して悲観しているわけではなく、大井競馬場で厩舎を運営していた父・矢作和人元調教師を「スーパー調教師」と評しつつ、現代の調教師像を浮き彫りにする。調教師はもう馬を調教することが仕事ではなく、矢作調教師の言うように、「馬の仕入れ」「馬の出し入れ」「番組選び」を司るゼネラルマネージャーとなった。

こうした流れを後押ししたのが、セレクトセールの誕生であり、グリーンウッドトレーニングや宇治田原優駿ステーブルに端を発するトレセンの外の育成牧場の活用である。それに伴って、在籍頭数の制限が緩やかになり、厩舎メリット制も導入された。新しいルールにキャッチアップしながら、常に前(未来)を見て、独自のやり方を貫いてきたのが矢作調教師ということなのだろう。社台グループの生産馬だけに頼らず、個人馬主との絆を深めつつ、リスクを分散させていることや、今でも外国のセールに足を運んでいる姿勢、厩舎の中でのチームの作り方など、実によく考えられていて見事な経営者としか言えない。

ただひとつだけ寂しさを感じるのは、そこにあまり馬の存在が感じられないことか。文章は人を表すと言われるように、著作に書かれていることはその人となりである。この本に書かれているのは、人とカネについて。「良く稼ぎ、良く遊べ」という矢作厩舎のスローガンは、近代経済絶対主義の象徴のようでもある。調教師は中小企業の社長と矢作調教師は言うが、まさに矢作調教師ならば、競馬の調教師でなくとも、別の企業や会社のトップとしても成功したに違いない。裏を返せば、別に競馬でなくてもよかったのではないかと思ってしまう。もちろん競馬の世界で生まれ育っただけに、馬に対する思い入れはあるに違いないが、そのあたりを(意図的にしても)排除しているところに彼らしさがあり、いち競馬ファンとしては物足りなさも感じる。

そんな洗練された矢作調教師と良くマネジメントされたチーム矢作厩舎に、異物を持ち込んだ男がいた。まだ記憶に新しいが、2012年日本ダービー直前に、岩田康誠騎手がディープブリランテの調教を付きっきりで行いたいと直訴した話の顛末が面白い。世の中の常識や効率やマネジメントとは縁遠いところにいる、地方競馬からやって来た叩き上げの岩田康誠騎手と、近代化された厩舎運営が混合して、化学反応を起こした結果が、矢作芳人厩舎にとって初の日本ダービー勝利となった。あのハナ差の勝利の背景には、現代競馬ならではの葛藤やドラマがあったのだ。

読み応えがあるのは、第3章の勝ち続けられる理由だろう。中1週のローテーションが馬の走りに影響を及ぼさないこと(馬が健康であれば、連闘から中3週までは勝率は変わらない)や、藤田伸二騎手のエージェント制批判に対する反論、距離や条件を変える(時には逃げを選択する)ことで勝ちに行くスキルなど、競馬ファンならば知りたかったことが誠実に書かれている。日本の騎手はある程度のところまで行くと満足してしまって、その上に行けないという直言は、そのまま自分にも返ってくることを知っていて、調教師にも競争原理をもっと働かせろ、だからこそ自分たちも頑張れるというスピリットには感心するし、もし自分が馬主ならこういう調教師に1頭は預けてみたいと思わせられる。古き良き調教師の時代は終焉を迎えているということなのだろう。

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「馬主の一分」

Banusinoitibun

ご存知、ハナズゴールの外国人馬主であるマイケル・ダバート氏による回想録である。タイトルもそうだし、帯の「外国人馬主が見た日本競馬の現実」というフレーズからも、藤田伸二騎手著の「騎手の一分」のパロディかと思わせておいて、それほど日本競馬界に踏み込んだ言及はない。期待はずれということではなく、競馬ファンでもある著者から見た競馬の世界を誠実に綴ってあり、特に目新しい視点はないものの、共感できる内容になっている。ひと言で言うと、ハナズゴールの馬主も馬券ファンもそれほど変わらないということだ。

彼が馬主として求めることは、騎手には最後まで一生懸命に乗ってくれること、調教師にはコミュニケーション能力という点で、自分が馬主になったことを想像すると、まさにその通りだと思う。チームとして馬を走らせていく中、当たり前といえば当たり前のことを著者が指摘するということは、案外そうではない騎手や調教師が多いということの裏返しでもあろう。彼と同じオーストラリア人の騎手であるC・ウイリアムズ騎手がいかに研究熱心であるかを紹介するエピソードが本書にも出てくるように、これだけの超一流騎手が日々勉強を怠らないのだから、外国人騎手に乗ってもらいたくなる理由があるとする著者の気持ちがよく分かる。

ウイリアムズ騎手の指摘の中で面白いなと思ったのは、香港競馬の日本競馬の違いについて。研究熱心なウイリアムズ騎手も香港競馬で騎乗する際には、それほど馬のデータを研究しないという。なぜなら、レイティングを基にレースが組まれるので、馬の能力差があまりないレースが多いから。だからこそ、全レースでジョッキーの腕が問われて、ジョッキーとして一番早く成長できる競馬だという。レースの展開を読み、ロスなく回って来て、最後の直線で馬を追うスペースを見出す技術は香港で身に付けたとのこと。

それに対し、日本競馬は定量のレースが多く、馬の能力の差が出やすいというのがウイリアムズ騎手の印象。そういう競馬では、能力のある馬に乗ることが第一で、力のある馬に乗ったら無難にゴールまで誘導することが何よりも大切になってくる。実力に劣る馬に乗るときは、ロスなく回り、有利な展開に持ち込むことが重要だとウイリアムズ騎手は説く。なるほど、ウイリアムズ騎手の展開読みの鋭さは香港競馬で身に付けたものであり、日本の競馬で時として極端に前々を攻める騎乗をするのは、騎乗馬が実力に劣ると踏んでいるからなのだと納得する。

途中からウイリアムズ騎手の話になってしまったが、高校生の頃から馬主になりたいと思い続けている私にとっては、この本は随所に楽しく読ませてもらった。新馬戦を勝ったときの喜びやどのレースを使うべきかという苦悩。実は、所有馬が活躍すればするほど悩みは深くなる。また、個人馬主として登録するための高いハードルや馬名審査で冠名を手に入れるまでの手間など、小さいけどもリアルな話は体験した者ならでは。この本を読んで、共同馬主になってみたい、個人馬主を目指したいという想いは少し強まったが、なったらなったで著者のような気苦労も増えるのだろうと想像すると、いつものように二の足を踏んでしまう。

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「京大式 推定3ハロンEX」

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ハイブリッド競馬新聞の久保和功さんの著作が出たので、久しぶりに馬券の本を読んだ。思い返してみると、半笑いさんと夏目耕四郎さんによる共著「ラップ思考だけで馬券が当たるメカニズム」以来の馬券本だから、およそ2年ぶりになる。馬券本以外ほとんど出版されていないことを考えると、競馬関連の書籍を読むことが昔に比べて極端に少なくなってしまったと感じる。砂が水を吸収するように競馬の本を読み漁っていた20年前とは、悲しいことではあるが、時代も私も変わってしまったということか。

さて、「京大式 推定3ハロンEX」は、前作「京大式 推定3ハロン」の進化バージョンである。推定3ハロンの考え方をご存じない方もいらっしゃると思うので、少しだけ分かりやすく紹介させていただくと、「4角先頭馬」および「上がり最速馬」を買えば馬券でプラスになるのだから、事前にそういった馬たちを見出して馬券を買いましょうという理論である。とはいっても、平たく買うと、「推定前半3ハロン」1位の単勝回収率は94%、「推定後半3ハロン」1位の単勝回収率は88%となるので儲からない。そこでコースや距離などの条件を絞って狙おうというのが本書の狙いである。

たとえば、距離別に「推定前半3ハロン」1位の単勝回収率を見てみると以下のとおり。

1200m 126%
1400m  69%
1600m 105%
1800m  76%
2000m 108%
2200m  52%
2400m  76%

いわゆる根幹距離と呼ばれている距離のレースの回収率は100%を超えていて、非根幹距離のレースは100%を大きく下回っている。かと思えば、2400mのチャンピオンディスタンスは76%と奮わない(他の距離と比べてサンプル数が少ないことを考えると、2400mはもしかすると回収率を上げてくるかもしれない)。いずれにせよ、200m刻みで、前に行った馬が有利になった不利になったりするところが分かりやすいし、興味深い。

ここに競馬場(コース)を加えていくと、さらに詳細な有利・不利が見えてくる。「推定前半3ハロン」や「推定後半3ハロン」が生きる、コース設定ごとのデータは中身を読んでいただくとして、ここでは「推定前半3ハロン」や「推定後半3ハロン」がそれぞれ苦手とする条件のレースを挙げていきたい。

「推定前半3ハロン」ワースト5
1、 中京芝1200m
2、 中京ダ1200m
3、 東京芝2400m
4、 京都芝2200m(外回り)
5、 阪神芝1800m(外回り)

「推定後半3ハロン」ワースト5
1、 中京芝1200m
2、 小倉芝2600m
3、 函館芝2000m
4、 中京ダ1400m
5、 東京芝2400m

なるほどと思わせられるコース設定が多く、そして誰もが驚かされるのは、中京芝1200mはどちらのカテゴリーにおいてもワースト1ということだろう。それだけ逃げ切りも追い込みも難しいコースということである。極端な前残りや極端な上がりの競馬にならない、展開や脚質に大きく左右されないコースであると言うこともできる。同じことは東京2400mにも当てはまり、これらのフェアなコースで勝つ馬は基本的に強いと考えてよいだろう。また、京都芝2200mや阪神芝1800mで逃げ切った馬、または函館芝2000mや中京ダート1400mを差し切った馬は力があると考えることもできる。

その他、個人的には「1m外を回れば何mの距離ロスか?」というコラムが面白かった。3~4コーナーを半径160mの半円だと仮定して計算してみると、1m外を回ると1馬身の距離ロスがあるとのこと。遠心力による馬に対する負荷を考えると、1頭分外を回ることによって失うものは少なくない。ゴール前のハナ差や首差で勝敗が分かれるレースを繰り返しているジョッキーたちが、1頭分でも内を回りたい気持ちが良く分かる。このように自分の感覚と抽出されたデータ(数字)を照らし合わせながら確認し、軌道修正していく役割も本書は果たすことができる。競馬ファンそれぞれの視点から、様々な角度で読める馬券本であった。

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「競馬場の風来坊」を読み解く(その2)

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日本の競馬におけるスローペース症候群について言及され始めて久しい。私が競馬を始めてから20年以上が経ち、サンデーサイレンスの血の影響や調教技術の進歩、外国人ジョッキーの参戦など、あらゆる要素が複雑に絡み合い、スローペース化は少しずつ進行してきた。そうなると必然的に最後の数ハロンにおける瞬発力勝負が多くなり、速い上がりに対応することが勝利へとつながる。できるだけ前に位置できる馬にとっては有利となり、スタートが上手く、馬を巧みに御してポジションを確保できる騎手は安定した成績を残すことができるようになった。

そんな中、仕掛けのタイミングに対する騎手の考え方も、少しずつ変わってきている。かつてはゴール前で馬が止まってしまい、何とか持たせようとして騎手バタバタするのは恥とされた。ゴールした瞬間に馬のスタミナがゼロになるような仕掛けが理想であり、馬が歩いてしまうのは、手応えから残っている脚を測ることができず、勝負を焦って仕掛けてしまったジョッキーが悪いということである。だから、脚を余して負けるよりも、早仕掛けで負けることで師匠に怒られるケースの方が圧倒的に多かったはずである。

そして、そのことは転じて、一流と呼ばれる騎手たちの美学にもなっていった。どこまで仕掛けを我慢できるかという我慢比べ。能力が同じ馬であれば、少しでも早く仕掛けた方が差される、という騎手の感触といおうか、直感といおうか、哲学のようなものがその根底に流れていた。勝ちたいという気持ちが馬に伝わり、動いてしまった者から負けてゆく。この仕掛けのタイミングの葛藤の中にドラマがあり、私たち競馬ファンもそれを楽しんだ。武豊、岡部幸雄、田原成貴らによって、我慢に我慢を重ねて仕掛けられた馬が、ゴール前で他馬をハナ差で差し切るシーンに私たちは痺れたものだ。

騎手というものは仕掛けて出るときの勇気より我慢するときの勇気の方が数段重い。その想い胸が締め付けられるがごとし!!それに耐え切れぬ者はゴール前の僅か10メートルに泣く、その苦しさに耐え切れる勇者だけがゴール前の10メートルに笑うことができる。我慢の時間長くて5秒、短くて、手綱を握りし拳に神経を持っていく、時間に表すことのできない僅かな時間、しかしそれが騎手にとっての一生の重さの時間でもある。私とて、その勇気を出せなくて泣いたこと数知れず、騎手人生泣いた多さと重たさの分だけ、仕掛けの我慢時間は長くなる…。
(「競馬場の風来坊」より)

私はサクラチトセオーという馬に、ジョッキーの仕掛けのタイミングの機微を教えてもらった。走る能力は極めて高いけれど、使える脚が短く、人間が急かしてしまうと一気にリズムを崩して脚を失ってしまうような繊細な牡馬であった。馬券を買って、早仕掛けで伸び切れないレースを何度見せられたことか。主戦の小島太騎手も試行錯誤を重ね、最後のチャンスであった天皇賞秋でようやく渾身の仕掛けで全馬を差し切ってみせたのである。小島太騎手は基本的には強気の仕掛けで負けることが多かったが、このレースは文句の付けようのない美しさであった。田原成貴はこの仕掛けを満点の仕掛けと絶賛し、私もそうだと思った。

時代は移り変わり、今は少し早く仕掛けて、ゴール前で馬の脚が上がって不格好になっても、最後まで粘らせる乗り方が主流になってきている。早仕掛けで負けてしまう方が、仕掛けを我慢して脚を余して負けてしまうよりも納得してもらえる。その変化には、冒頭に挙げたスローペース化が大きく影響していることは間違いない。我慢しているだけでは負けてしまう、脚を余してしまうレースが増えてきたということであり、自ら動いて勝ちにいかなければならなくなった。どちらが正しいとか、どちらが美しいという問題ではなく、その時代に合った乗り方であり、哲学の変化でもあるのだ。


第4コーナーを直線的に回った小島太騎手の騎乗に脱帽

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「競馬場の風来坊」を読み解く(その1)

Keibajyonohuuraibou

田原成貴のことをどう呼んでいいのか、折に触れて迷うことがある。田原成貴元騎手、それとも田原成貴氏、もしくは田原成貴。田原成貴元騎手だと、おそらくJRA的にはタブーであり、騎手であり調教師でもあった事さえ認めたくない心境の人もいるのではないか。田原成貴氏だと、彼のキャラクターからして、やや堅苦しい気もする。田原成貴だと、神格化してしまったようで、少しくすぐったい感じだ。つまり、田原成貴(今回はこれで)という人間が、それだけ多面的な要素を持っていたということであり、掴みどころのない、まさに個性的なジョッキーであった。

そして、ジョッキーが書いた本の中では、この「競馬場の風来坊」が最高傑作だと私は思う。これまでたくさんの著名な騎手たちが書いた(語った)本を読んできたが、ここまでレースの攻防や馬乗りの技術や奥深さを言葉で表現したものはなかった。田原成貴ほど騎乗の言語化に長けているジョッキーはいなかったということだ。あの武豊騎手でさえ、この点においては田原成貴の足元にも及ばない。騎手が自分の言葉で綴った稀有な1冊であり、後にも先にもこのような騎手本が出版されることはもうないだろう。

もう今から17年も前に書かれた内容ではあるが、決して色褪せず、むしろ今こうした文章が読めないだけにより鮮やかにも見える。私も数え切れないほどの付箋を貼っている1冊であり、せっかくなので何回かに分けて、彼の切れ味鋭い言葉を切り取りながら、少しずつ読み解いていければと思う。

勝った的場騎手。彼のよいところは数えればキリがないので、今回はこのレースで目立ったところだけを書いてみたいと思う。道中、馬との折り合いをつけた時、そして最後に馬の最大の瞬発力を発揮させたときの足首の柔軟性、バネの素晴らしさ!騎手として技術ある者は多い。しかし、その技術に己の持つ瞬発力を加えて、馬に伝えられる者ひとにぎりであろう。的場均は、むろんその一人であり、足首の数センチの動きで馬を御せる人である。

そして、もっと大事なことは、このレベルの足首をどこまで維持できるかであろう。誰とは言わぬが、足を思いっきり突っ張り、コブシを馬の亀甲より20数センチも上げて乗るようになったら、いくら勝ち星をあげようとも騎手という職業は終わりである。(15ページ)

田原成貴の素晴らしいところは、たとえライバルであってもよいところを見る視点である。騎乗に関しては、己にも他者にも厳しい視点を持っているのであるが、その上で自分以外のジョッキーにも最大限の敬意を払っている。今回は紹介しないが、私は田原成貴が岡部幸雄元騎手について書いた尊敬と愛情溢れる文章が好きである。起点として、競馬や馬乗りを愛しているという真っ直ぐな気持ちがあるからこそ書けるのである。「技術に己の持つ瞬発力を加えて、馬に伝えられる者ひとにぎりであろう」という的場均評など、読むだけでグラスワンダーの上で肩ムチを叩いている姿が目に浮ぶようで、田原成貴にしか書けない。


スペシャルウィークがあっさりと抜き去られたあの瞬間は絶対に忘れられない。

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「競馬よ!」 野元賢一著

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なぜだか無性に読みたくなり、本棚の奥から引っ張り出してきた。出版された2005年当時の私には、まだこの本の内容の半分も分かっていなかったと思う。いや、私だけではなく、ほとんどの競馬関係者やファンにとっても、著者・野元賢一氏の憂う競馬の未来(今となっては現在)の姿は見えていなかったのではないか。藤田伸二騎手の本は読んでも、「競馬よ!」は読んだことがない。そんな人々に支えられて、競馬は今日の姿になった。

「競馬にアイドルはいらない」というプロローグから始まり、外厩制度を扱った「コスモバルク―地方の星という仮面」、地方と中央競馬の垣根を論じた「アンカツの衝撃」、外国人騎手の短期免許について語った「親日派・ペリエに3ヶ月の壁」、社台グループのひとり勝ちの舞台裏を描いた「社台の馬なら勝つ理由」、売上が低迷するJRAと縮小する日本競馬への提言となる「3兆円企業の苦悩―JRAのいま」など、綿密な取材に基づき、実にフェアな視点で書いてある。8年の歳月を経た今、改めて振り返ってみると、著者が提起していた問題の本質が見えてくる。

そして、それぞれの問題を貫く一本の線を著者はこう表現する。

競馬を育ててきた人々は、人一倍、欲が深かったかも知れないが、決して人の懐など当てにしない、誇り高いギャンブラーだったと思う。だが、残念なことに、日本の競馬には、真のリスクテイカーが決して多くない。理由は簡単。馬券が売れすぎたのである。ピーク時にはJRAが4兆円。苦境の地方競馬でさえ、1兆円に迫った年もあった。無尽蔵に見えた馬券マネーは、競馬を一種の分配ゲームに変質させた。自らカネを投じて、新たな付加価値を生み出すよりは、限られた人数で目の前のカネを分捕り合う。リスクテイクよりはリスクヘッジが優先する世界だ。

「不況に強い」と言われた競馬の馬券が売れなくなったのも、アベノミクスなど小手先の策を弄しても日本の経済が決して良くならないのも、その根本は日本の人口動態の変化に原因があると私は考えている。だから馬券が売れなくなったのはJRAの企業努力が足りなかったとは考えない。そうでなくて、馬券が売れなくなった今、そしてこれから、日本の競馬はどうしてゆくべきか、どうせざるを得ないのかということが問題だろう。たとえ売り上げという面では縮小してゆくとも、どのようにして日本の競馬が魅力的であり続けられるかを考えなければならないのだ。

いつまでも分配ゲームを続けることはできないとすれば、日本の競馬を開いてゆく方向に舵を切るしかない。そうしなければ、トップトレーナーである角居勝彦調教師が、2012年生まれ世代の馬を預かれないというおかしな事態が次々と起こってくるはず。ただし、それは最終的に外国人調教師にも門戸を開くということにもつながってゆく。そうしてゆく中で、外国人調教師(ジョッキー)に負けじと日本人調教師(騎手)は腕を磨き、日高の生産者は社台グループに負けないだけの企業努力をしなければならない。今さらなんて言わないでほしい。野元氏が問題を提起してから早8年が経った今、それぞれがリスクテイクをするための準備は整っているはずだから。

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「騎手の一分」 藤田伸二著

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藤田伸二騎手は素晴らしい騎手である。特別模範騎手賞を2度も受賞していることが、それを証明しており、腕が立つだけではなく、安全かつフェアなジョッキーであることに異論はない。それは言葉で言うほど簡単なことではなく、たとえば格闘技において、相手を傷つけずに勝つという離れ業に近いかもしれない。また、藤田伸二騎手は外見や言動の派手さとは裏腹に、実にソツのない騎乗をするという印象を私は持っている。道中のミスが極めて少ないため、馬券を買っているときは安心して見ていられる、数少ないジョッキーの一人である。

そんな藤田伸二騎手によって書かれた本書であるが、あまりにも独りよがりな内容であった。騎手の一分というタイトルや、講談社現代新書から出版されているのだから、アスリートとしての騎手の魅力を、藤田伸二騎手なりの視点で、余すところなく語っているのだろうと読む前は想像していた。先輩格であった田原成貴元騎手の著作は、彼なりの繊細な言葉で騎乗の真髄について語られており、何度も読み返したものだ。そういう伏線もあって期待していたのだが、いわゆるゴシップの延長にすぎなかった。

もちろん、ウソではない真実も中には含まれているだろう。ただし、それはある一側面から見た真実であり、もう片方から見ればそうではないかもしれない。あくまでも藤田伸二騎手にはそう見えているにすぎない。そもそも序章の小見出しからしておかしい。

「競馬界」の終わりの始まり
腕の立つ騎手が少なくなった
調教師にも馬主にもならない
失われつつある「騎手の魅力」
あさましい争いには加わらない

終始この調子で、昔は良かった、岡部幸雄元騎手や武豊騎手は上手いけど、岩田康誠騎手は認めない、福永祐一騎手は懐が開きすぎているなど、とにかく今の競馬を否定しまくる。特にこれといった建設的な案を挙げるでもなく、まるで陰謀論のように、最後は今のシステムを放置しているJRAが悪いと結論づける。騎手の一分というよりも、藤田伸二騎手の言い分を聞かされているようで眩暈がするのだ。

エージェント制度や大手クラブと調教師の力関係などは、たしかに弊害もあるだろう。だからといって、昔が良かったと誰もが思うのだろうか。岡部ラインの存在があり、武豊騎手に有力馬が一極集中し、その周りの取り巻き騎手らがおこぼれに与っていた時代の方が良かったと思うのは、それによって恩恵を受けていた騎手のみである。また札束をはたいてコンパニオンに厩務員さんたちを接待させる時代に戻れというのか。武豊騎手に乗ってもらいたくても、にべもなく断られてしまい、涙を飲んだ調教師がどれだけいただろう。そういったあらゆることの反動として、良くも悪くも競馬界の現状がある。

はっきり言うと、ルールが変わったのである。騎乗馬の交渉から実際のレースの勝ち方まで。かつての強者は弱者になり、弱者が強者になる。残酷ではあるが、1998年をピークとした一部の日本人騎手たちのバブルは崩壊してしまったのである。それほど影響を受けなかった者もいれば、戸惑い続ける者、いち早く気づいてキャッチアップしようとする者もいる。武豊騎手を引き合いにして、藤田伸二騎手が自身を正当化しようとしても、賢明な競馬ファンには透けて見えるのだ。たとえ時代が変わっても、必死に抵抗しようともがく武豊騎手を巻き添えにしてはならない。その葛藤の中にこそ、騎手の一分が見え隠れするのではないだろうか。

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「日本最強馬 秘められた血統」

Nihonsaikyouba

東京から新大阪までの新幹線の中で貪るように読み、下車してから近くの珈琲店で一気に読み終えた。「競馬の血統学」、「競馬の血統学2 母のちから」、「血のジレンマ-サンデーサイレンスの憂鬱」に次ぐ、吉沢譲治氏による第4作目。やはりこの人の著作は期待を裏切らない。オルフェーヴルに秘められた血統を、一編の物語とし綴っているのだが、読んでいる途中、前述のいずれの3作品とも1本の線でつながっているような感覚にとらわれてしまうことがあった。それは競馬の血統の奥深さゆえであり、吉沢譲治氏の読者を引き込むストーリーテラーとしての力量ゆえである。

ハクチカラから始まり、日本ホースメンクラブ、ジャパンカップの創設、シンボリルドルフの栄光と挫折、そしてサンデーサイレンスの台頭による社台グループの隆盛まで、オルフェーヴルの凱旋門賞挑戦は日本競馬の歴史の延長線上にある。人とサラブレッドの勝利への渇望がオルフェーヴルを誕生させたといってもいい。血統表はそれを饒舌に語っている。特に、メジロアサマからメジロティターン、そしてメジロマックイーンと受け継がれた波乱万丈の血の物語は、何度読んでも、たとえ結末が分かっていたとしても、いつも感動してしまう。また、オルフェーヴルとは直接は関係ないが、凱旋門賞を制し、史上最強馬と称されながらも、種牡馬入りしてすぐにマリー病に侵され、それでも最後まで立ち続けたダンシングブレーヴの生き様にも共感する。

父ステイゴールド、母オリエンタルアート、そして母の父であるメジロマックイーンは日本の生産馬である。そこがエルコンドルパサーやディープインパクトの時とは違うところだ。世界的な基準で見たときに、多くを日本の生産馬で固められた血統で凱旋門賞を勝つことの意義は極めて大きい。オルフェーヴルの勝利は日本競馬の勝利であり、敗北は日本競馬の敗北である。それは決して日の丸を背負うというということではない。日本競馬の歴史の結晶のようなオルフェーヴルが、凱旋門賞を制するとしたら、どれだけ喜ばしいかということだ。その時、誰が乗って勝ったかなんて問題は、大した意味を持たないのかもしれない。

この書の冒頭にある、「なぜ日本人は凱旋門賞が好きなのだろう」という問いは深い。吉沢氏は「凱旋門賞はつねにあこがれであり、その優勝馬は遠い遠い雲の上の存在であった」とする。私もそう思う。もちろん、単なるあこがれではない。言葉には尽くせない、ホースマンたちの凱旋門賞に対する強烈なあこがれこそが、日本の競馬をここまで発展させてきた。約束の頂まであと少しのところまで来ている。そう思えるのは幻想なのだろうか。まるで地平線のように、近づいたと思えば遠ざかる頂なのかもしれない。もしそうだとしても、私たちはこれからも凱旋門賞という山を登り続けるはずである。

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「大穴の騎手心理」

Ooana

この本に登場するのは、大穴ジョッキーと呼ばれる騎手たちばかり。人気馬を実力どおりに勝たせるのではなく、全く人気のない馬たちを馬券圏内に持ってくることで大穴を演出する。勝ち切るまでは難しくとも、2着、3着を拾うことで、競馬ファンをあっと言わせるジョッキーたちである。3連単が馬券の主流となっている昨今、注目しないわけにはいかないだろう。とはいえ、単勝派の私にはあまり縁がないかもしれないと考えながら一読したが、そうではなかった。大穴ジョッキーたちの試行錯誤の中に、騎手としての本質があったのだ。走る馬を頼まれることも騎手にとっては重要な要素であるが、それ以上に、普通に回ってきたら勝てない馬をいかにして少しでも前の着順に持ってくるかを考えることや、それを実現させるための技術を磨くことが、騎手に問われている最も本質の部分であろう。

大穴ジョッキーたちにも、それぞれに得意パターンやこだわりがあって面白い。大野拓弥騎手や大庭和弥騎手はとにかく内ラチ沿いにピッタリと回って、距離ロスを避けることを身上とし、武士沢友治騎手は人気のある差し馬についていくハメ方をし、田辺裕信騎手は道中ではひたすら消耗を抑えるエコな走りを心掛ける。松岡正海騎手は最後の直線でひたすら内を突く(松岡騎手の「挑戦者は最短距離を走る」という言葉が私は好きだ)。北村宏司騎手は肉体的にタフなのでダート戦や新潟の1000m戦を得意とする。

ところで、この本の中では直接触れられていないが、ハンデ戦における大穴ジョッキーたちのデータを見て、気づいたことがあるので記しておきたい。四位洋文騎手がハンデ戦における大穴ジョッキーとしてランクインしている。彼の騎乗スタイルと斤量と瞬発力の関係を考えてみると、その理由がはっきりと分かったのである。

四位洋文騎手は、馬のリズムに合わせて乗り、鞍上に人なしを貫く騎手のひとりである。無理をして馬を出していったり、馬群の狭いところに馬を突っこませたりしない。だからこそ、ポジションを下げてしまったり、外を回されたりしがちなのだが、馬の瞬発力を引き出すことにかけては非常に長けている。その四位洋文騎手が、軽ハンデの牝馬に跨ったときには要注意である。なぜなら、牝馬の瞬発力は馬体重が軽いからこそ生まれてくるものであり、なおかつ斤量が軽いとなれば、なおさら瞬発力が生きる。瞬発力を生かす四位洋文騎手、牝馬、軽ハンデの3つがセットになったら、大穴にならないわけがないということだ。

最後の特別インタビューでは、著者である谷中公一氏が蛯名正義騎手の話を見事に引き出している。たくさんの良い馬を頼まれるリーディング上位の騎手ならではの悩みやヨーロッパやアメリカと日本の競馬の違いなど、高みに登ったベテラン騎手ならではの話が満載である。海外からやってくるジョッキーたちと中央競馬の騎手たちの大きな違いとして、毎日競馬に乗っているか週末だけかという量の差を語っているが、まさにその通りだと思う。それはシステムの違いということでもあり、この先、日本(の中央競馬)から世界レベルの騎手を誕生させるとすれば、中央と地方の競馬における騎手の垣根をほぼ完全に取り除く必要が出てくる。もし今のまま何も変わらないとすれば、騎手の卵たちは最終的にはシステムという壁にぶつかり、壊れてしまうのではないだろうか。

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「セクレタリアト/奇跡のサラブレッド」

Secretariat

およそ1年前に、観てみたい映画として紹介させていただいた「セクレタリアト/奇跡のサラブレッド」が、6月20日にDVDとブルーレイで発売された。結局、日本の映画館では公開されることはなかったが、ようやくこうして観られるようになったことは喜ばしい。競馬を知らない方が観ても純粋に楽しめる映画ではあるが、競馬ファンとしては、セクレタリアトという名馬とその伝説に携わった人たちの物語を知っておくべきための映画でもある。

セクレタリアトは1973年のアメリカの3冠馬であり、生まれた時から馬体が大きくて、しかも燃え立つような栗毛であったため、“ビッグ・レッド“という異名をとった。3歳時で525kgという馬格を誇っていたというから驚きである。また、死亡時に解剖が行なわれたところ、心臓の大きさがなんと22ポンドもあった(普通のサラブレッドは9ポンドぐらい)と言われている。サラブレッドは最後の最後は心臓で走るのだから、セクレタリアトがいかにアスリートとして優れた肉体を有していたかが分かる。

セクレタリアトは恵まれた馬体から繰り出される大きなストライドで、抜群のスピードを誇り、ありとあらゆるコースやレースのレコードを更新していった。特に有名なのが、3冠最後のベルモントSでの圧勝である。戦前は距離延長を心配されていたにもかかわらず、2分24秒0の時計で走り、後続に31馬身差をつけた。このレコードタイムは今なお破られていない。セクレタリアトの現役時代を知っているアメリカの競馬ファンが、「もう、こんな馬を見ることはないだろう」と口を揃えるは無理もないだろう。日本で言うとシンボリルドルフとオグリキャップを足して2で割ったような、伝説のアイドルホースであった。

この映画を観て感じたのは、競馬は1頭の馬を中心にした、たくさんの人々が関わる物語であるということだ。オーナー、調教師、ジョッキー、厩務員、そしてファンといった人間たちが、それぞれの想いを馬に託して、その走りに一喜一憂する。人間の期待に応えようと死力を尽くして走る馬の姿を見て、勇気をもらったり励まされたりして人間が変わってゆく。セクレタリアトのような名馬にはもちろんのこと、たとえば重賞をどうしても勝てなかった馬たちや、デビューするのがやっとであった馬たちにも、それぞれの物語があるはずなのである。もし今の日本の競馬が無機質なものに見えてしまうとすれば、そういった物語性の欠如に理由があるのかもしれない。そう思わせてくれるドラマチックな映画であった。

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「ニッポン競馬の50の風味」

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日本の競馬をちょっと別の角度から語らせたら、いまやこの方の右に出る者はいない。そんな思いを強くした、「ニッポン競馬のカラクリ」に次ぐ増田知之氏による第2作である。著者はJRA職員として海外の競馬を見て歩き、仕事をしてきた。その経験が余すところなく文書の中に生きていて、しかも競馬以外の分野における幅広い知識がそれを支えている。多くの文化人が取り組んできた、競馬を学問的に語るという潮流が、こうして継承されていることが素直に嬉しい。とはいえ、本書は決して難解であったり、とっつきにくい内容ではなく、どちらかというと読みやすい部類に属するだろう。私たちの知っている競馬の少し向こうに、もっと素晴らしい世界が広がっている。そんな風味を漂わせる知の書である。

まず、いきなり、世界の競馬場の形で驚かされる。日本、そして米国やフランス、ドイツの競馬場の形は基本的には楕円形であるが、イギリスやアイルランドの競馬場の形は違う。一本のロープを投げた模様のようなコース形状であり、どれひとつとして同じ形のコースの競馬場がないのだ。中には、3角形のものや、8の字の形をしたコースも存在する。マッチ棒を折ったような、直線2本で構成されるコースデザインもある。あらゆる形をした競馬場を見るだけで、本来の競馬というものが、いかに人工的ではなく自然に根ざしていて、もっと自由であったかを思い知るだろう。そして、日本の競馬ばかりで、世界を知らない井の中の蛙である自分に気づくことになる。

個人的には女性騎手のハンデの問題には考えさせられた。著者が外国の競馬主催者の幹部と話した折、「私は女性ジョッキーにハンデをつけるべきだと考えている。あなたはどう思うか?」と尋ねられたという。その方の論理としては、馬は牡馬と牝馬で斤量負担にハンデをつけているのであれば、腕力や体力で男性に劣る女性騎手にも配慮すべきということであった。著者は「女性騎手と男性騎手が一緒に“走る”なら、あなたの意見に同意できる。しかし、走るのは人ではなく、馬である」と返答した。結局、二人の見解が交わることはなかったというが、もし私だったらどう答えただろうか。あなただったら、どう答えただろうか。

第2章「競馬サロンへようこそ」の中で、野平祐二について語られている。43歳のひとりの日本人騎手として、フランスに移住して戦った野平祐二の言葉、「私は日本の競馬を心底愛している。だからこそ、将来は日本の若い騎手を海外で走らせたい。あちらの騎手を日本で走らせたい。国際交流を計画の目標にしているのです」が胸に響く。ひとり坂の上の雲を見ていたのである。野平祐二の目標である国際交流は、氏の懸命の努力や勇気ある挑戦によって道が開けた面もある。海外の騎手が日本にやってきて、最も大きなレースを制するのが日常となった。しかし、日本の若い騎手が海外で走ることは少ない。そういう意味では、まだ野平祐二の目標は果たされていない。ここからがニッポン競馬の正念場である。

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「ファンが知るべき競馬の仕組み」

Keibafan

関係者によって書かれた競馬本は星の数ほどあれど、これほどまでに深く踏み込んだものは少ない。嘘や誇張でない範囲の中で、競馬の舞台裏をありのまま見せてくれる内容である。もちろん、関係者の言うことが全て正しいわけではなく、―それはどの世界でもそうであるのと同じように―、内部にいるがゆえに見えないこともあるのだから、あとは読んだ人の解釈に任せたいと思う。個人的には、ハッと気づかされることもあったし、競馬ファンなら誰もが知っているようなことだとしても、具体的な人の言動を例に挙げているので非常に伝わりやすい。

まず、「最後の直線では馬を真っ直ぐに走らせなくても良い」と述べられていることが新鮮であった。競走馬は、最後の直線をどちらかの手前で走るが、たとえば右手前で走ると右に、左手前で走ると左に、自然とヨレていく。つまり、馬はどちらかの手前で走っている以上、真っ直ぐ走ること自体が不自然だということである。ほとんどの騎手は修正して真っ直ぐに走らせようとするから、馬が伸びない。武豊騎手などベテラン騎手の乗っている馬をよく見てみると、斜めにヨレながら伸びているという。その方が馬にとって負荷が少なく、思いっきり走られることを利用しているのである。実際にレースに乗って、馬を追ったことのある著者だからこその視点だろう。

また、日本人騎手のコーナーリングの拙さについて述べられている、「オリビエ・ペリエの“暴言”」というコラムも面白い。タイトルがタイトルだけに、ペリエ騎手の“暴言”に至るまでの経緯を紹介しないわけにはいかないだろう。以下、少し長くなるが引用したい。

オリビエ・ペリエが日本にやって来たのは、いまから13年前の1994年のことになる。ご存知の通り、彼はその後、日本で荒稼ぎをした。ペリエの活躍を知った外国のトップジョッキーたちが、「よし、俺も」とばかりに、続々と日本にやって来た。

あとから来日した外国人ジョッキーたちに、ペリエはこんなアドバイスをしたという。

「とにかく内ラチ沿いを走れ。こちらから仕掛ける必要はない。コーナーに入ると、自然に前が開く」

つまりは、こういうことだ。

日本の乗り役は、下手クソばかりだ。コーナーを回るとき、必ず外へふくらむ。3コーナー、4コーナーで、自然にインコースが開く。そこをつけば、楽に勝てる。

悔しいが、これは事実だ。彼ら外国人ジョッキーは、海外では極めて厳しいレースを戦い抜いている。コーナーのたびに「前が開く」日本のレースなど、ぬるくて仕方がなかっただろう。

外国人ジョッキーのような技術を身につけたいのなら、彼らと同じ環境に身を置くのがいちばんだ。彼らが出場するレースに、できるだけ多く乗ることでも、いろいろな発見があるだろう。そのどちらも叶わないのなら、ともかくトレセンで、イメージトレーニングを重ねるしかない。

ここで書かれているのは、競馬のレースにおけるコーナーリングの難しさでもある。時速60kmで走る動物を操って、コーナーをピッタリ回ることが、どれだけ難しいか。乗った者にしか分からないのだろうが、私たち競馬ファンも想像することだけならできるだろう。その上で、日本人騎手のコーナーリングの物足りなさを論じるべきである。もちろん著者は自らの実戦での経験を踏まえ、自戒の念も含めて、厳しく、そして前向きに語っている。

外国人ジョッキーのコーナーリングが語られるとき、私はいつも2007年の有馬記念におけるミルコ・デムーロ騎手の騎乗を思いだす。6番人気のダイワメジャーに乗ったミルコ・デムーロ騎手は、終始とにかく内ラチに沿って、2500mピッタリを回ってきた。ダイワメジャーの本質はマイラーであり、距離が長いことは誰も目にも明らかだっただけに、少しでも距離ロスを防ごうと意識しての騎乗だったにせよ、特に3コーナーから4コーナーにかけてのコーナーリングは秀逸であった。3着という結果だけではなく、最高速で走っている馬をここまで見事に制御できるのだと驚かされた。真似したくても真似できる芸当ではない。

ペリエ騎手が来日してから長い年月が流れ、この当時に比べると、日本人騎手の技術も圧倒的にレベルアップした(と思いたい)。外国人ジョッキーが続々と入ってくることにより、日本人騎手にとって機会が失われることがあったとしても、反面、外国人ジョッキーたちと一緒にレースに乗ることによる多くの学びや発見もあったに違いない。外国人ジョッキーが大レースを勝ちまくる現状が理想的だとは決して思わないが、日本人騎手のレベルアップという点においては、短期免許制度は大きな役割を果たしているといえる。

最後の章では、競走馬の死について、ありのままが書かれていて、胸を打たれた。自分が乗った馬が薬殺される現場に、著者は1度だけ立ち会ったことがあるという。自分が関わった馬がブルーシートの向こうで息絶えてゆくのを感じるとき、ホースマンはどのような感情を抱けばよいのだろう。サラブレッドは経済動物であるとともに、心が通じ合った仲間であり、身内と同じように接してきた家族でもある。彼らの心境は察するに余りある。これが競馬の舞台裏であり、全てを赤裸々に伝える必要はないだろうが、オブラートに包みながらでも競馬ファンに知ってもらうべき情報なのだとも思う。それこそが著者が伝えたい競馬の仕組みなのだから。

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「G1の勝ち方 サラブレッド金言108」

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藤沢和雄調教師に関連した書籍や雑誌は全て読み、「ガラスの競馬場」でも紹介してきたつもりだが、この本だけはなぜかタイミングを逸してしまった。もったいぶっていたわけではなく、G1シリーズが始まってからと思っていたら、それ以外にも書くことが山ほどあって、机の上に積んだままになってしまっていた。お客様が来たら出そうと思って、大事にしまい込んでいたが、いつのまにか忘れてしまった高級なお酒に似ている(私はお酒を飲まないのでこの比喩が正しいかどうか自信はないが)。春まで待っているとまた同じことの繰り返しになるので、今度こそは思い切って紹介してみたい。

「G1の勝ち方 サラブレッド金言108」は、年間で22ある中央競馬のG1レースそれぞれについて、平均して5つぐらいの重要なポイントを抽出し、藤沢和雄調教師が自ら語るという内容になっている。無理矢理こじつけたようなデータでは決してなく、競馬ファンがG1レースの馬券を買う上で必要だろうと思われる知識をきっちりと説明してくれている。馬券で勝ちたいという下心で読み始めてもいい。いつの間にか、競馬やサラブレッドの奥深さに気づき、それらの本質に手が届くはずである。

全てというわけにはいかないが、せっかくなので、私の心に残っている金言を少しだけ紹介したい。

「牝馬は古馬になると下降線をたどる」

牝馬、牡馬を問わず3歳・古馬の混合戦は、古馬が圧倒的に有利だ。3歳馬は斤量が2キロ、3キロ軽いから…というレベルではない。古馬はタフだし、1年間、競走馬としてやってきたことはすごい強みだ。

しかし、牝馬の中には古馬になって駄目になってしまっている馬も多い。牡馬とぶつかって、もみくちゃになってしまっているからだ。牝馬にとって牡馬の古馬と戦うことは、とてもつらいことだ。牝馬と牡馬では威圧感がまるで違う。

最近は、ウオッカやダイワスカーレット、そしてブエナビスタといった強い牝馬が続々と出現しているため忘れられがちだが、牝馬にとって、牡馬の古馬と戦うことは大変厳しいことなのだ。身体の大きさや骨格も違うし、なんと言っても、精神的な威圧感がまるで違う。牝馬同士のレースだと好走するが、牡馬との混合戦では良いところがない牝馬は、牡馬と一緒のレースで走るときの厳しさに耐えられないことが多い。走る能力うんぬん以前の問題であり、常に威嚇されることで、レースに集中できなくなってしまうのだ。

そう考えると、長きにわたって牡馬の古馬と闘いを繰り広げた、ウオッカやブエナビスタの強さがより強調されるはずである。普通ならば、肉体的にも精神的にも揉まれて、燃え尽きてしまったり、萎縮してしまったりするところを、あれだけぶつかり合って、逆に相手をねじ伏せるようにして天皇賞秋などを勝ってしまったのだから凄い。同じように牡馬の古馬を相手に一歩も引かなかったエアグルーヴは、母としてその強さを余すところなく伝えている。おそらく、ウオッカとブエナビスタの芯からの強さも、時代を超えて伝わってゆくに違いない。

「札幌はタフでなければ勝てない」

北海道で使うというのは、もちろん涼しい気候が馬のためによいということだ。北海道へ移動してきたとたんに元気になる馬がたくさんいる。

気候だけでなく、競馬場もいい。札幌は芝で1500m、1800m、2000mとバリエーションがあるのもいいし、ヨーロッパの馬場に近いタフな馬場だから、本当に能力がないと勝てない。

古馬の強豪がそろう札幌記念で好走するようだと、秋はどこへ行っても通用する。

(中略)

ついでにいえば、札幌はごまかしが利かないので、騎手の技量も要求される。ここでのリーディングジョッキーは、「うまい騎手」といっていいだろう。

これに関しては、説明する必要もないだろう。昨年の札幌記念を勝利したトーセンジョーダンは典型的な例である。それまではG1レースのタイトルはなかったが、札幌記念を勝つや、天皇賞秋をレコードで制し、ジャパンカップでもブエナビスタの2着に食い下がった。ヨーロッパの馬場に近いタフな馬場で勝ち切れるような馬は、本物の能力があるということだ。だからこそ、人気の盲点にはなっていたものの、天皇賞秋のスピードレースにも対応できた。

また、2011年の札幌リーディングは池添謙一騎手であった。オルフェーヴルとの出会いはあったにせよ、昨年、特に夏から秋にかけての目を見張るような活躍は、池添騎手の技術が円熟の極みに達してきたゆえである。ごまかしの利かない札幌競馬場でのリーディングは、上手い騎手であることの証明であるのだ。

こう考えると、昨年の秋のG1シリーズにおける、トーセンジョーダンの激走や池添謙一騎手の跨ったカレンチャン、エイシンアポロンの好走までも予見できた気がするのは私だけだろうか。少なくとも、たった1つのヒントにこれだけの意味が込められていることは分かっていただけるはずである。

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「ラップ思考だけで馬券が当たるメカニズム」

Rapsikou

テンが速く、中盤も上がりも速い、そんな競馬理論書である。最初の章(LAPTIME1)では、半笑い氏と夏目耕四郎氏のラップ理論の概要が各自で展開される。第2、3の章(LAPTIME2、3)では、Keiba@nifty上で行なわれた2人のレースに対する対話のまとめがあり、59この質問が彼らを待ち構えている。そして、最後の章(LAPTIME4)では、ラップタイムタイムの思考から日本の競馬に対する想いまでが対談形式で語られている。全328ページという長丁場にもかかわらず、読み手を飽きさせないのは、密度の濃いラップが刻まれているからである。

以下、私が読んで線を引いた部分を引用してみたい。

・中盤が速いレースを差し切った馬は、距離延長で更に前進しやすい(P11)
・多くの競馬場において1200m、1600m、2000m、という根幹距離では、スタート後の2ハロンが直線部分にあたるように設計されているのに対し、非根幹距離は2ハロン目が最初のコーナー途中にあることが多い(P51)
・(新潟直線競馬について)ラップバランスでいうと遅→速→やや遅→速→失速(遅)という5ハロンで、これはダート短距離(1000m~1200m)のラップバランスにそっくりなんです(P103)
・コースの起伏に対する理解とラップ分析は切り離せない(P113)

あくまでも個人的になるほどと思わされた部分なので、他の方が読んだら別の部分に線が引かれるかもしれないし、上の引用だけでは意味が分からないという方は、ぜひ手に取って詳しく読んでみてほしい。ラップの入門書ではないが、ラップに関して少しは知っているよという競馬ファンにとって、多くの学びがあるだろう。共著にありがちな、相手の手の内を探り合うばかりで、自分の手の内はさらさないといった不甲斐なさは微塵も感じられない。両氏、全力投球の1冊である。

最後に、「半笑い・夏目耕四郎を考える59の質問」の中のひとつ。

Q東京芝2000m。このドリームレースを制するのは?また、芝2400mなら?中山芝2500mでは?なお、ラップ的見地でも思い入れでも可とし、枠順、馬場状態は考慮しないものとする。

1、ヴィクトワールピサ
2、ウオッカ
3、エアグルーヴ
4、エルコンドルパサー
5、オグリキャップ
6、オルフェーヴル
7、キングカメハメハ
8、サイレンススズカ
9、ジャングルポケット
10、シンボリクリスエス
11、ダイワスカーレット
12、ディープインパクト
13、テイエムオペラオー
14、トウカイテイオー
15、ナリタブライアン
16、ブエナビスタ
17、ミホノブルボン

この質問に答えるにあたって正解はないという大前提と、1頭を選んだからといってその他の馬たちが弱いということではないという名馬たちへのリスペクトを持ちながら、競馬終了後のオケラ街道のおやじたちの会話のような気軽さで答えさせてもらいたい。

まずこの名馬たちの中には脚の速い馬が3頭いて、それらはディープインパクトとブエナビスタ、オルフェーヴルである。脚が速いとは、走るのが速いということ。つまり、トップスピード(最高速度)が並み居るサラブレッドの中でも抜きん出ているということである。こういう馬はどんな条件でも苦にしない(何といっても脚が速いのだから)ため、東京の2000mだろうが、2400mだろうが、中山の2500mだろうが、ほとんど関係がない。なので、あくまでも敢えて選ぶとすると、次のようになる。

東京2000m ブエナビスタ
東京2400m オルフェーヴル
中山2500m ディープインパクト

中山の2500mがディープインパクトであることは真っ先に決まった。ラストランとなった有馬記念を観れば、誰も文句はないだろう。最後の走りにして、最高の走りだったと思う。あの4コーナーで他馬を捲くっていくときのスピードは、サラブレッドとしては極限のものであった。あの時、外から観ていた私でさえ鳥肌が立ったのだから、ディープインパクトの背にいた武豊騎手は何を感じたのだろうか。おそらく誰にも説明できない未知の領域、新しい世界に足を踏み入れたに違いない。

東京2000mと2400mは迷ったが、牡馬と牝馬という性差を考慮に入れて、スタミナ面では一日の長があると思われるオルフェーヴルが2400m、最強牝馬として最強牡馬たちに太刀打ちできる距離としてブエナビスタが2000mとした。ただ、東京の2000mのことを考えると、1頭だけ、どうしても心に引っ掛かる馬がいる。サイレンススズカである。脚が速い3頭が最も苦手とする、肉を切らせて骨を断つタイプの馬であるからだ。サイレンススズカが最後まで走り遂げることができたとしたら、この馬を捕まえられる馬はいないのかもしれない。それは競馬ファンにとって永遠の謎だが、いつまでも謎のままにしておきたいと思うのだ。

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京大式 推定3ハロン

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発売日にアマゾンで買い求め、「ROUNDERS」の取材で別海に行った途中の飛行機やホテルで読んだ思い出が新しい競馬本である。すぐに紹介したかったが、「ROUNDERS」の追い込みの時期と重なり、ここまで延びてしまったことを先にお詫びしておく。なぜかというと、この秋のG1レースも推定3ハロンの考え方で勝てたレースもあったのではないかと思うからだ。

「4角先頭馬」と「上がり最速馬」が見抜ければ競馬は勝てる、というサブタイトルどおりの内容である。「4角先頭馬」とは4コーナーを先頭で回った馬(ほとんどの場合逃げ馬)、「上がり最速馬」とはレースで上がり3ハロン最速をマークした馬(最も良く伸びた馬)のことを指す。2010年度のデータによると、「4角先頭馬」の単勝回収率が214%、「上がり最速馬」のそれが305%になる。つまり、4コーナーを先頭で回る馬、もしくは上がり最速の馬が分かれば、競馬は勝てるということになる。ここまでは当然と思われる方もいて当然である。

ではどうしたら「4角先頭馬」と「上がり最速馬」が見抜けるか、というところまで著者である久保和功氏は踏み込む。香港と違って日本の競馬は各馬のラップタイムが計時されない以上、前半の3ハロンについては独自で測定するしかないことに加え、レースが行なわれたコースや馬場状態など様々な要素の影響を考えると、各馬の前後半3ハロンの単純な比較は難しい。それでも、敢えて、独自の算出方法(古馬500万条件を基準とする)を用いて各馬の優劣をつけて予想につなげるのだから素晴らしい。この予想を個人レベルで行なうのは難しいはずで、餅は餅屋というか、「ハイブリッド新聞」内の推定3ハロンシートを使ってみるのが確かだろう。

個人的にはサイドストーリーも面白かった。特に競馬BARのくだりは、久保さんとご一緒したことのある「TURF BAR PADDOK」も紹介されていて、妙な懐かしさが蘇ってきた。そういえば、今秋の菊花賞の前の晩、競馬友だちを連れてTURF BAR PADDOKに脚を運んだところ、今日は一杯ですと丁寧に断られたのだった。それほど大きなBARではないので、あまり多くの競馬ファンに知られてしまうと、フラっと立ち寄れなくなるなあなんて思ったりして。でも、ぜひお近くにお住まいの方は訪ねてみてほしい。もしかしたら、この本の著者である気さくな久保氏に会えるかも。

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「開成調教師」

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かつて調教師によるこの手の本を読んだことがあったと思いきや、森秀行調教師の「最強の競馬論」であった。どちらの本にも、番組選びの大切さから、いかに従業員のモチベーションを高めつつ効率良く厩舎経営をしているか(するべきか)という、競馬論というよりは経営論が書いてある。バリバリのビジネスマンである著者も認めるだろうが、競馬ファンと同時に競馬関係者に向けて、自身と自厩舎の宣伝目的に書かれた本でもあるということだ。

それでも、せっかく読み始めたのだから、何かひとつでも競馬のヒントをもらいたい、と思うのが競馬ファンの常である。そう思って精読していくと、確かに矢作調教師ならではの競馬に対する突っ込んだ言及もあった。

そのひとつとして、手前を替えるかどうかは調教の重要なポイントだと述べている。手前がいつ替わったかを分かりやすくするために、矢作厩舎の馬は左右のバンテージの色を赤と白に分けているのだという。手前をいつ替えたかどうかを見極めるのは、競馬ファンにとって難しいことだが、まずは矢作厩舎の馬の調教を見てみることから始めてもよいかもしれない。

また、矢作厩舎の仕上げ方は、レースで叩きつつというスタイルを取っている。だからこそ、リーディング上位にもかかわらず連対率は低い。その辺りを考慮に入れつつ、私たちは馬券を買わなければならない。出走してくるレースで必ずしもキッチリ仕上げているわけではないので、どのレースを狙ってきているのかを見極めておく必要があるということだ。

競馬の存続に関する考え方には共感した。ひとりでも多くの競馬関係者が矢作調教師のように考え、行動してくれることを願う。少し長くなるが、矢作調教師のフェアな世界観が垣間見える部分なので引用させてもらいたい。

中央競馬の売り上げは毎年下がり続けている。大レースのたびに、「前年比何%減」という数字が報道されるのが、すっかり当たり前になっている。そんな状況に対して、どれだけの厩舎関係者が危機感を抱いているだろうか。 (中略) この世界で生きている以上、売り上げを意識するのは当然だと思う。なぜなら日本の競馬は、ファンの馬券の売り上げによって成り立っているからである。調教師になる以前の厩務員時代から、この考え方は一貫している。 (中略) すべての面での一本化。日本競馬が生き残る道は、これしかない。調教師や騎手の免許に関してもそうだし、馬主の許認可も競走馬の登録も一本化する。最終的に組織として一本化するところまで行けたら、これほど強いものはないだろう。 (中略) 自分の厩舎の経営のことだけを考えれば、地方競馬の優秀な調教師が入ってくるよりも、現状のままの方が楽に決まっている。しかし、競馬界全体のことを考えれば、そんなことは言っていられない。地方と中央の統合が正しい道だと思うし、そうなるべきだと思う。

もはや付け足す言葉は要らないだろう。競馬の売り上げ減は、短期的にも長期的にも、深刻な問題である。このままだと誰もが幸せにならないシステムの中で私たちは競馬を続けていかなければならない。なんとか逃げ切れる世代はよしとしよう。百歩譲って、今の幸せな日本の競馬を楽しめている世代もよしとしよう。それでも、もし私たちの次の世代に希望がないとすれば、誰が競馬を受け継いでいくのだろうか。私は自分の子供の世代にも、孫の世代までにも、競馬を語り継いでゆきたいのだ。

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競馬が100倍面白くなる!

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著者の大瀬良海図氏とは10年来の付き合いになる。といっても、面識があるわけではなく、10年にわたってずっと競馬について書き続けてきた仲間ということだ。私が「ガラスの競馬場」をブログに移行したのは、今から7、8年前のこと。まるで昨日のことのような気がするが、その時、すでに大瀬良海図ことガトーさんは「競馬ブログ オケラセラ」を始めておられた。その圧倒的な情報収集能力に感心し、競馬界を鋭く切り取る筆致に嫉妬したこともある。偉大な先輩に追いつかんと書き続けてきた結果、今の「ガラスの競馬場」がある。そして、ガトーさんは1冊の単行本を上梓された。

「競馬が100倍面白くなる!」は、本当に競馬が100倍面白くなる本だと思う。何倍かは個人差があるので、少なくとも数倍はとしておくが、この本を読んで競馬が面白くならないはずがない。競馬をひとつの小説やドラマととらえるならば、そこに登場する騎手や馬主や調教師は登場人物であり、個性溢れる彼ら彼女らは時に主役となり脇役となり、縦横無尽にストーリーを盛り上げる。たとえ馬が主役だとしても、私たちが競馬を楽しむためには、登場人物の背景を知らなければならない。脇役を知らずして、小説やドラマが面白いはずもない。

舌鋒鋭く、読んでいるこちらがヒヤヒヤしてしまう部分もあるが、読み終えた後には、彼らが愛おしくなってしまうから不思議だ。もし不快に思う登場人物がいるとすれば、よほど懐が狭いか、日本語が分からない人だろう。それぞれに愛情を込めて描いているからこそ嫌味がない。どんな人間にもマイナスとプラスがあって、それらが絶妙なバランスを保ちながら、ひとりのかけがえのない人物として存在する。そんな当たり前のことが、ガトーさん、いや大瀬良海図さんの筆にかかると浮き彫りになる。

個人的には、オレハマッテルゼの名づけ親である小田切有一氏の所有馬「オダギラー」の話に笑わせてもらい、G1出走を巡ってネットが炎上した小島茂之調教師のドラマにこころ躍り、裁決制度の崩壊については考えさせられた。全編にわたって、軽く読めてしまうのに、内容は深い。久しぶりに最後まで読み通せた競馬の良書であった。

■「競馬ブログ オケラセラ」はこちら
Okerasera

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「優駿の門アスミ」

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赤見千尋さんのことを知ったのは、つい最近のこと。昔から存在は知っていたのだが、本当の意味で彼女の書いた文章を読んだり、出演されている番組を観たり、過去に騎乗したレースを観たりしたのが最近ということだ。そう、赤見千尋さんは高崎競馬の元ジョッキーであり、現在はグリーンチャンネルのレポーター、そして漫画「優駿の門アスミ」の原作者でもある。

彼女の書く競馬についての文章は素晴らしい。初めて読んだのは、騎手養成学校時代の話。甘いものが食べたくて仕方がなかったことを、女性ならではの視点で書かれていて面白かった。次に読んだのは、武豊騎手が1番人気のオグリローマンに乗って負けたことが衝撃で騎手を目指そうと思ったこと。そして、いつか小島貞博騎手のような涙をいつか流したいと願い続け、現役最後のレースでそれが叶えられたこと。また、福永洋一記念についての心温まる話。どれも自身の騎手時代の経験を生かして、かといって気取らない筆致で語られていて、惹き込まれてしまうのだ。

おっと、「優駿の門アスミ」に話を移そう。その赤見千尋さんが原作を担当されている漫画が面白くないはずがない。主人公は騎手になって5年目となる黒崎アスミ。今年はまだ0勝だが、男社会の中で奮闘中である。タテガミに触られることを極端に嫌がるヒメや、左目が見えないためレースで謎の暴走をしていたハクギン、母親に愛されるために体を汚していた芦毛のネイルクイーンら、なんらかの原因で勝てなかった馬たちを、女性騎手としてのアスミが支えることで勝利に導く物語である。漫画ゆえに読みやすく、競馬ファンはもちろんのこと、競馬を知らない方でも楽しめるはず。これから先の展開が楽しみでならない。


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おすすめの競馬映画

今となっては滅多に映画館に足を運ばなくなってしまったが、学生時代には劇場公開されている映画はほとんど全て観ていたほど映画が好きだった(それだけ暇だったということでもある)。「アンタッチャブル」、「フィールドオブドリームス」、「ショーシャンクの空に」、「レナードの朝」、「ファイトクラブ」など、大好きな映画を挙げると、かなり昔のものばかりになってしまう。

もちろん、大好きな競馬の映画「のるかそるか」もかなり古い映画である(1989年製作)。タクシー運転手である主人公が50ドルを元手として単勝を転がして、遂には6万9000ドルに膨れ上がり、最終レースで大勝負に挑むという競馬ファンの夢の1日を描いたコメディである。最後のレースで、競馬ファンが自分の行いを神に懺悔しながら、祈るように応援するシーンが印象的。競馬ファンなら絶対に大満足するおすすめの1本である。

ところで、つい先週、「雪に願うこと」という競馬映画の最高傑作に出会ってしまった。原作である「輓馬(ばんば)」(鳴海章・著)を映画化したもので、競馬とはいってもばんえい競馬が舞台である。映画は原作には勝てないと考えている私の予想を見事に裏切ってくれた。さすがに東京国際映画祭で4冠を獲得しただけのことはある。佐藤浩市、小泉今日子、吹石一恵、香川照之、津川雅彦、伊勢谷友介など、力量ある役者陣による抑えた演技がグッとくるだけではなく、何といっても、北海道を舞台とした映像と伊藤ゴローがギターで奏でる旋律が美しい。月並みな言い方だが、競馬ファンなら必見の映画であろう。週末に時間のある方は、ぜひTSUTAYAでDVDを借りて観てみてほしい。

もうひとつ、これから観てみたい映画について。先日、ハイランド真理子さんから聞いて、「Secretariat-trailer」というディズニー映画がどうしても観たくなってしまった。アメリカの名馬でありヒーローであったセクレタリアトと、その周りの人間たちを描いた映画である。確か日本の劇場で予告編として観たことがあるのだが、その後、公開されるという情報は入ってこない。テレビ局が作成したような映画が主流になっている日本映画界にとって、たとえディズニーであっても、ターゲットを限定してしまいそうな競馬映画の配給は難しいのだろうか。アメリカでの公開直後の興行収入は、現在日本で公開中の「ソーシャルネットワーク」が1位だったのに対し、この「Secretariat-trailer」は3位だったというから悪くない。良質な競馬の映画を観たいと切に願う。


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「ガラスの競馬場」:輓馬(ばんば)

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「競馬の血統学2」―母のちから―

Keibakettougakuhaha 3star

我が家の4歳になる息子が、幼稚園の門から教室まで、ようやくひとりで歩いて行けるようになったそうだ。門のところで別れを告げると、そこからは1度も振り返ることなく歩いてゆく。たくましくなったと思いきや、その理由を尋ねると、「振り返ると悲しくなっちゃうから」。まるで今生の別れのようだが、1日の大半を母親と過ごしているのだから、当然といえば当然か。この神話的な時間―母と子の関係において最も幸せな時間―を通して、人の未来が形成されてゆくのだろう。

何が言いたいかというと、子を育てるのは母のちからが大きいということ。圧倒的な時間を母親と過ごすことによって、絶対的な愛情や献身を知る。将来、あとひと踏ん張りが必要なとき、そのことはある風景として蘇ってきて、後押しをしてくれるに違いない。悲観しているわけでも楽観しているわけでもないが、そこに父の影響は少ないのだろう。サラブレッドも同じなのではないか。アドマイヤグルーヴ、フォゲッタブル、ポルトフィーノ、ルーラーシップ、グルヴェイグ、父は違えどもよく走るエアグルーヴの仔たちの活躍を見ると、血統における母系の重要性はますます確信に変わる。

前置きが長くなったが、吉沢譲治氏による「競馬の血統学2」―母のちから―は、父系を中心に論じられた前作と違い、母系だけに焦点を絞って書かれている。血統の大家であるルドルフおやじさんは、「父系はスポーツ、母系は文化」と語っていたが、そういう観点からいうと、この「競馬の血統学2」―母のちから―は、競馬の文化について書かれた血統書であるということになる。この本全体について語ることは、競馬の文化すべてについて語ることに等しく難しいので、9章ある中の1章「母の記号 ファミリーナンバー」について、今回は紹介してみたい。

ファミリーナンバーは、ブルース・ロウというオーストラリア人によって提唱された。それまではサラブレッドの父系ばかりが着目されていたが、ブルース・ロウは「ジェネラル・スタッド・ブック」を過去にたどってめくりながら、根幹牝馬ごとに分類整理し、そこから広がった母系をファミリーと名づけた。そして、3大クラシックを勝った馬の数が多い順に、1~43番までの番号をつけていった。大海に漂う母系を43種類の数字で表してしまったのだから、その当時の人々が受けた衝撃は大きかった。

さらに研究を進めたブルース・ロウは、1号族から5号族までに3大クラシックの優勝馬が目立ったことに気づいた。そこでこれらのファミリーを「競走族」(ランニングファミリー)とした。また、有終な種牡馬を出している3号族、8号族、11号族、12号族、14号族を「種牡馬族」(サイヤーファミリー)とし、それ以外を「局外族」(アウトサイドファミリー)とした。これがブルース・ロウの「フィガーシステム」である。

ちなみに、エアグルーヴを起点として、母、祖母、曾祖母、4代母と辿ると、ダイナカール→シャダイフェザー→パロクサイド→Feather Ball→Sweet Cygnet→Sweet Swan→Swieteniaとなり、最後はBustler Mareという根幹牝馬に行き着く。ファミリーナンバー8番であり、日本では8号族と呼ばれる「種牡馬族」である。同じ種牡馬族には、あのサンデーサイレンス(3号族)、スペシャルウィーク(3号族)、サクラユタカオー(11号族)、グラスワンダー(12号族)、ノーザンテースト(14号族)らがいる。種牡馬族であるエアグルーヴが、まるで種牡馬のように大物を量産しているのを見ると、ブルース・ロウのフィガーシステムの深遠さを感じざるを得ない。そんな風にして、母の存在を楽しめると、競馬はさらに楽しく、奥深く、文化の香りが漂ってくるのである。

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「競馬学の冒険」

Keibagakunobouken

前作「競馬学への招待」は、かつて付き合っていた彼女にフラれ、終電に間に合わず、東武東上線のとある駅のバス停のベンチに座って、ひと晩かけて読みつくした思い出がある。ずいぶんと雨が降っていたので、本の端が濡れてしまい、波を打ったような形で私の手元に残っている。10年以上前の出来事なので、あの日の涙が本を弛ませてしまったのでは、と今では錯覚してしまう。

それに比べて、この「競馬学の冒険」は、どこでどんな心境で読んだのか、全く覚えていない。綺麗なままで書棚に並んでいるのだが、エッセイごとのタイトルだけは、しっかりと私の胸に記憶されている。「エッチンゲンのめまい」、「をみなごたちの春」、「競馬場のカストラート」など。ある一定のリズムを持って私に迫ってくる。華やかな競馬のほんの少し後ろに、馬と人の哀しき物語があることを、それぞれのタイトルが語りかけてくるのである。哀愁という言葉を使うのが適切かどうか分からないが、山本一生氏の競馬学には哀愁が溢れていて、読了後には、いつも深く心が動かされている。

そんな競馬エッセイの中のひとつ、「ワンダーランドの昨日、今日、明日」の中に、競馬にまつわる犯罪について書いてある。最近では、日本の国技である相撲でも、あらゆる犯罪や不正が発覚して問題になっているが、競馬の世界でも全くそういうことがなかったわけではない。むしろ、世界の競馬を見渡してみると、あの手この手を使った犯罪や不正が行われてきたと言ってもよい。

4コーナーの引き込み線からスタートして、走ることなくそのまま待機して、後続の馬たちの足音が聞こえてから走り出した「霧の騎手事件」。馬の鼻にスポンジを詰めて競走能力を低下させ、レースで負けさせようとした「スポンジ事件」。英ダービーを10馬身差で勝ったシャーガーが誘拐されて、身代金が要求された「シャーガー事件」。馬房の中で右の後ろ肢を骨折しているところを発見され、安楽死の処分がとられてしまった「アリダー事件」などなど、枚挙に暇がない。

しかし、と山本一生氏は論を展開する。これら大きな犯罪は、全て海の向こうで行われてきたものであり、これほど競馬の盛んになった日本において、競馬にまつわる犯罪がほとんど目に付かないのは驚くべきことであると。

競馬犯罪がまったく存在しないのか、犯罪は行われているが発覚しないだけなのか、あるいは発覚しているが報道されることなく闇に葬られているのか、私たちにはそれさえもわからない。ただ、報道されないなら競馬ジャーナリズムが犯罪的だし、発覚しないなら取締機関が犯罪的だし、存在しないなら社会そのものが犯罪的となる。もちろん、社会そのものが犯罪的とは考えたくはないので、やがてそのうち、どきどきするようなワンダーランドが、わが国の競馬の世界でも見られるのではないだろうか。

山本一生氏がそう指摘してから、シンコウシングラー事件や田原成貴元調教師の小型発信機装着事件などが起こったが、いずれにしてもスケールの小ささは否めない。どちらかというと、問われたのはJRAの対応の甘さであった。それは競馬ムラを作り、徹底的な管理競馬を強いて不祥事を起こさせなかったことと表裏一体の関係にある。犯罪や不正は防げても、本来であれば淘汰されるべき者が依然として残り、時として、可能性や才能のあるホースマンたちの芽を摘んでしまう。そこに民主主義はない。

そもそも競馬で八百長をして金を儲けることが現実的ではないのは、馬を走らせなくする(引っ張る)ことは簡単だが、走らせることは難しいからということに尽きる。自分が負ければ相手が勝つことになる相撲とは違うのだ。相撲協会を他山の石として、もうそろそろ、JRAも成熟する時期に来ているのではないだろうか。


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サラブNET:「競走馬の耳に発信機、田原調教師の処分・管理競馬のゆがみ映す」

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「元競走馬のオレっち」

Oretti

オレっちは元競走馬であり、今は乗用馬である。だから、正確に言うと、競馬マンガではなく、乗馬マンガなのだが、この設定が面白い。競走馬としては未勝利に終わったオレっちが、競馬場から乗馬クラブに移ってくるところから物語は始まる。

父と母のいずれもがG1ホースという超がつく良血であるオレっちも、乗用馬としてはただの新米にすぎない。最初は競走馬のプライドを捨てきれずに、担当のもやし先生にも抵抗する。しかし、心優しきもやし先生にいつの間にか信頼を寄せるようになったオレっちは、乗用馬としての立ち振る舞いを少しずつ身に付けていく。かつては前にいる馬な何が何でも抜かせと教えられていたが、今はどんな状況でも落ち着いてゆっくり歩くことを求められる。戸惑いながらも、栗毛くんやデカ女などの仲間たちに勇気づけられて、1歩1歩成長していく姿が愛おしい。

そんなある日、オレっちは競技会に出場することになる。競馬好きが高じて乗馬を始めることになったウズマキさんを背に、オレっちは緊張しながらも、次々と障害を飛んでゆく。最終障害を飛び終えた後、ウズマキさんやもやし先生に喜ばれ、褒められ、競走馬時代には味わったことのない充実感を味わったのだった(このシーンが結構好き)。

しかし、喜びもつかの間、乗馬クラブに戻った翌日、オレっちの脚元に異変が起こる。競技会で無理をしたのが良くなかったのか、脚と腰を痛めて、全治1年と診断されてしまったのだ。何もしない馬を1年も置いておく余裕は乗馬クラブにはもちろんなく、オレっちは出ていかなければならなくなる。その行き先は…。暗雲漂うラストの結末は、マンガを手にとってのお楽しみに。

マンガとマンガの間にある馬コラムも、思わず笑ってしまうものから、深い感動に包まれるものまで多彩である。個人的には、著者が牧場で働いていた経験から描いた、馬房掃除のときの馬のタイプが面白かった。「怒るタイプ」、「超気遣うタイプ」、「我関せずタイプ」、「かまってタイプ」、「セクハラタイプ」があるという。また、友人の馬の最後に立ち会った話や放牧を主張しない親子の話など、人間も馬も同じ生きものなのだと改めて思わせられる。

読み終わった後、馬の体温が感じられて、もっと馬が好きになった。


■ブログ「おがわじゅりの馬房」はこちら
Ogawajyuri
著者のおがわじゅりさんはブログを持たれていて、これがまた面白い。
こんなイラストが描けたらいいなあと羨ましく思えるほど、じゅりさんの描くサラブレッドは表情豊かで可愛いのだ。

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「血と知と地」

Titotitoti

この本を読んだ頃のことを、今でもまざまざと思い出すことができる。社会に出たばかりの私は、自宅からずいぶん遠い職場に通うことになり、文句ひとつ言えずにいた。渋谷から地下鉄に乗り、1時間近くウトウトと眠り、さらにバスに乗って職場に赴くという、往復4時間の通勤であった。行きも帰りも、バスの座席に腰を下ろすや、「血と知と地」を鞄から取り出し、しばし読み耽った。平凡で退屈な毎日の中で、この束の間だけは、競馬に対する情熱を感じられる幸せな時間であった。

あれから11年振りにこの本を読み返してみて、吉田善哉氏の競馬に対する情熱を改めて思い知らされた。最後の1ページをめくり終わると、社台ファームの繁栄がここにあり、彼の存在なくして今の日本の競馬は語れないことが分かる。本人の言葉を通して見事に物語られているため、偉大なホースマンではあるが、それ以上に人間臭い、吉田善哉がまるで隣にいるように感じられてしまう。彼の競馬に対する情熱や仕事熱心さ、欲、ハッタリ、そして駄ジャレが、いつの間にか私を取り囲んでしまうのだ。

吉田善哉と著者の吉川良のこんなやりとりがある。

「人は夢という言葉を使うのが好きだがね、夢という言葉ぐらい、いいかげんな言葉はないね」
「どうしてです?」
「わたしは夢を持たないね。夢というと、たいていは、いい夢と考えるがね、実際は悪くころがって身動きがとれなくなるものだ」
「夢がダメとなると、何を持ったらいいんでしょうかね」
「欲だよ」
「欲だって悪くころがる」
「夢と欲じゃ大違いだ。わたしははっきり区別しているね。この2つをごちゃごちゃにしちゃダメだ」
「ぼくには夢もないし、欲もない。そういう人間はどうしたらいいですかね」
「酒を飲むしかないだろう」

「人間は夢を持たなくてはダメだよ」などという言い回しを吉田善哉は嫌った。「私を吉田ゼニヤと揶揄するやつがいるが、吉田ヨクヤと呼んで欲しい」と冗談も言った。夢という理想ではなく、欲という現実的な野心を持ちがなら、何ごとも自分でやっていく人だったという。日本在来のビューチフルドリーマー、アストニシメント、フローリスカップなど出来上がった立派な血を使うこともなく、テスコボーイやネヴァービートという流行に乗ることもなかった。

ただひたすら血統の勉強をしながら、世界のあちこちを歩いた。農地解放から土地を守り、土地を買い集め、耕した。とにかく強い馬を出すことに心血を注いだのだ。もちろん、全てが順風満帆だったわけではない。キーランドのセリにて60万ドルで競り落としたワジマが走らなければアウトだった、と次男の勝己は言う。しかし、ワジマは走ったし、ノーザンテーストはリーディングサイヤーとなり、サンデーサイレンスも手に入れた。

単行本で485ページというこの本の厚さは、吉田善哉の競馬に対する情熱の熱さだと私は思う。読みやすい量にまとめようと思えば出来たはず。それでも、敢えてそうしなかったのは、馬、社台、吉田善哉、そして競馬が、そうやすやすと理解されるわけにはいかないという著者・吉川良の良心が働いたからではないだろうか。薄っぺらい馬券本ばかりを読んでいる私たちに、この本は競馬に対する情熱を問うているのである。暑い夏に負けないよう、あなたの競馬に対する熱さをぶつけながら、ぜひ読んでみて欲しい。

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「安藤勝己の頭脳 名牝騎乗論」

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競馬を知り尽くした百戦錬磨のジョッキーに馬券を極めようとする天才がインタビューすると、馬券本ながらもこれだけ奥の深い内容になる、というお手本のような書である。シリーズ前著、前々著についても述べたが、安藤勝己騎手から競馬の本質を引き出し、核心を突こうとする、亀谷敬正氏の手腕にはいつも敬服する。

個人的に気づきがあった部分や馬券のヒントになりそうな頁に付箋を貼る習慣が私にはあり、この本にはなんと9個の付箋が付いた。せっかくなので、そのひとつをここに紹介したい。

ひとつはダイワスカーレットが勝った2007年の桜花賞について。1番人気のウオッカの追撃を振り切って、ダイワスカーレットがチューリップ賞の借りを返したレースである。レース後に勝因としてよく挙げられた、「チューリップ賞はウオッカが来るまで待ってから追い出して、瞬発力勝負になってしまったので、桜花賞は持続力勝負に持ち込もうとして早めに動いた」という意見に、当時の私は戸惑いがあった。レースを観る限り、チューリップ賞と桜花賞ではそれほど大きな動きの違いはなかったように思えたからである。

亀谷
「結果的に桜花賞と同じ時計でしたが、パフォーマンスを上げたのでしょうか?」

安藤
「それはあると思います。チューリップ賞よりも少し時計の掛かる馬場だったことを考慮すると、それより走っている印象はあります。チューリップ賞では同じような流れでウオッカに勝負所で並ばれたわけだから、そのあたりも全然違いましたよ。ただ、その時も追い出してからはまだ差し返すようなところがありました。だから、持久力勝負の追い合いになれば5分以上かなというのがあって、そのあたりを意識して動いてはいます。実際には大きく乗り方を変えたつもりはありませんが」

亀谷
「チューリップ賞よりも、相手を待たずに追い出したということですか?」

安藤
「それはよく言われるんですが、本当に気持ち程度です。それよりも、チューリップ賞は逃げる形で馬が力んでいたけど、3番手で走った今回はリラックスしていましたからね。それでも1馬身半ほどの上積みがあったわけではないと思うんですよ」

このやりとりを読んで、私は少し安心した。「チューリップ賞では瞬発力勝負になって負けたから、桜花賞では持続力勝負に持ち込んで勝った」という単純化された方程式を、安藤勝己騎手がやんわりと否定してくれたからであろう。曖昧なことを言っているように見えて、実はダイワスカーレットがチューリップ賞よりも仕上げられていたこと、同じようなラップでもチューリップ賞は逃げる形で力んでいたこと、ウオッカが前走ほどのパフォーマンスをしなかったことなど、様々な要因が重なり合っての勝利だったと教えてくれているのだ。競馬はそんな簡単なものではないよ、と言っているようでもある。

競馬は難しいけど、だからこそ楽しい。

あなたはこの本にいくつの付箋を貼るだろうか。

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<京大式>パドック入門

Kyoudaisiki 4star

「パドックでは馬の脚元を見よ」と著者の久保和功氏は言う。私はパドックでは気配を見るべきだと考えているが、もちろん脚元も見るに越したことはない。ここでいう気配とは、馬の仕上がり具合や踏み込みの深さから精神状態まで、あらゆる要素をひと言でまとめたものである。そこには多かれ少なかれ個人の主観や直観が入ってくる。だからこそ、時には正しく、時には大きく過つ。しかし、馬の脚元を見ることは、知識や経験を必要とするが、極めて客観性が高い。だからこそ、本気でパドックに立ち続ける気があるならば、馬の脚元も見るべきなのだ。

第2章では、「ソエ」、「骨瘤(こつりゅう)」、「蹄鉄」、「裂蹄」、「エクイロックス」など、馬の脚元を見るにあたってのポイントが、具体的な事例と併せて紹介されている。たとえば、「ソエ」はパドックで横から脚元を注意深く見ると、ポコッと管骨(膝と球節を結ぶ骨)の前面が膨れているのが分かるという。初戦は腫れが確認できない場合でも、一度実戦を経験することにより、「ソエ」が大きく腫れあがることもある。これから夏競馬に入り、特に若駒の新馬戦や2戦目は要注意ということである。私はソエが出ている馬は、調教とセットで確認することにしている。「ソエ」が出ている=走らない、ということではなく、「ソエ」が出ているので調教が満足に行えていない馬は、やはりレースでも凡走することが多いからだ。パドックで「ソエ」が出ていて、なおかつ調教の軽い馬は消しである。

個人的には、メイショウサムソンがパドックで大外を周回している時は買い、という見方は面白いと感じた。気合乗りが良く、前進意欲に満ち、踏み込みがしっかりとしている馬であれば、自然とパドックで歩くスピードも速くなる。パドックでは順番に歩かなければならないため、歩くスピードの速い馬はなるべくパドックの外側を歩き、遅い馬はパドックの内側を歩くことで調整する。この見方を著者は他馬とのヨコの比較ではなく、メイショウサムソンの他のレースとのタテの比較をしたのである。メイショウサムソンの調子が良い時ほど、パドックで外を回しているということである。このように、パドックに立ち続けることで、見えてくることは数知れないだろう。

また、「腰が甘い」馬をパドックで見つけるポイントも大変勉強になった。そのポイントとは、トモが流れるということで、「腰が甘い」馬は後肢の蹴る力が弱く、それがパドックでの歩様にも表れるということだ。具体的には、前肢の動きに後肢がついてゆかず、後肢に重心が残ったままになるような歩き方のことだ。さらに腰を落とすように突然つまずく馬も、「腰が甘い」馬であることが多いという。「腰が甘い」馬は、阪神や中山競馬場など急坂のあるコースで伸び切れないことが多く、消しのひとつの材料になる。たとえば、スイープトウショウは「腰の甘い」馬で、だからこそ直線が平坦な京都競馬場に良績が集中したのだ。

最後にひとつ。パドックで馬を見て、予想することにチャレンジしたことのない競馬ファンは皆無であろう。パドックには何か答えのようなものがあるという本能が、私たちをパドックに導く。そして、ある者は答えを見出せないままそこを去り、ある者はいつしか答えを見出さんとそこに立ち続ける。本書はパドックに立ち続けた著者が、これからパドックに立たんとするチャレンジャーたちに、そのエッセンスを伝えようとする入門書であり、応援の書でもある。

追伸
ご存知の方も多いでしょうが、著者の久保和功氏は「ハイブリッド競馬新聞」という新しいタイプの競馬新聞を発行されています。数年前、この「ハイブリッド新聞」が出てきた時には、これ以上の馬柱はあり得ないなと思わせられました。それほど完成度が高かったのです。それ以来、大きなレースの馬柱が頭の中に入っている私ですが、馬柱が必要なレースにおいては私もこの「ハイブリッド新聞」を活用させてもらっています。無料公開レースもあるので、まだの方はぜひ使ってみてください。

ハイブリッド競馬新聞はこちら↓
Kubovsakagi

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「ラップギア種牡馬系」 

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ご存知「ラップギア」の進化編である。続編とすべきか進化編とすべきか迷ったのだが、前作における課題が見事にクリアされているのだから、勝手ながらも進化編と銘打たせて頂いた。その課題とは、ラップギアだけでは勝ち馬が絞り切れないレースがあるということだった。たとえば、瞬発戦になりやすいレース(コース)には瞬発馬が集まりやすいということである。シンプルさゆえの弊害に過ぎないと私は思っていたのだが、なんと今回の「ラップギア種牡馬系」では、種牡馬というファクターを用いて、さらなる絞込みが行われているのだ。これを進化と言わずして何と言おう。

イメージとしては、ラップギアという白いキャンバスに、これまでは血統論者だけの領域にあった種牡馬というカラフルな絵の具をぶちまけた感じだ。その結果、ラップギアと種牡馬(血統)の世界との和合性が見事にあぶり出されている。私たちが従来持っている種牡馬の血統イメージを、種牡馬のラップ適性が裏切っていないのだ。たとえば、アグネスタキオンは瞬発戦型【瞬6平3消1】で、フレンチデピュティは平坦戦型【瞬5平4消2】、そしてサクラバクシンオーは消耗戦型【瞬2平4消4】というように、実にシンプルな表記にもかかわらず、これまで膨大な経験やデータから導き出された血統論とほとんど見事に一致するのだ。ラップギアが従来の血統論を裏付けている、と言い換えてもよい。

「優先されるのは個体の個性」という著者・岡村信将氏の考えにも私は同感する。

当たり前のことだが、瞬発戦が得意なサンデーサイレンス系にも消耗馬はいるし、消耗戦に強いミスタープロスペクター系にも瞬発馬はいる。競走馬の適性は父だけで決まるわけではなく、母系の影響を強く受けた馬もいる。アグネスタキオンが産駒に瞬発力を遺伝するからといって、すべての産駒が抜群の瞬発力を備えているわけではない。(中略)予想をする際には、「種牡馬の適性より、競走馬がすでに示している適性を優先」しなくてはならないのだ。

血統を少しかじると、まるで種牡馬や母父や~系といった血の記号が走っているように思えることがある。たとえばミスタープロスペクター系は勝てないというように、目の前を走っているサラブレッドではなく、まずは血統ありきに陥ってしまうのだ。これは大いなる錯覚である。史上最高のジョッキーの一人であるL・デットーリ騎手は、馬に初めて跨る時、血統についての情報は一切耳に入れないという。なぜなら、自分で乗ってみて感じた適性を優先したいと考えているからだ。血統は常に馬の個体の個性の後から来るべきものである。

ちなみに、種牡馬としての傾向とその馬の現役時代の適性には、かなりの関連性があるらしい。そういった観点から、新種牡馬の成否を占っているコラムが興味深かった。ゼンノロブロイの現役時代は【瞬8平4消0】。アグネスタキオンに似ていて、まさに今の時代にマッチしているようだ。【瞬11平2消0】のディープインパクトは、ラップギア的には瞬発力に偏りすぎている印象を受けるがどうだろうか。

逆にタップダンスシチーは【瞬6平12消0】であり、種牡馬としての必勝パターンからは程遠いらしい。母父サンデーサイレンスの助けを借りなければ、生き残りは難しいだろう。面白いのは【瞬3平4消5】というデュランダルである。個人的に、この馬は近年で最も柔軟な末脚を持っていた名馬だと考えているので、その数字には納得するとともに、種牡馬としての大きな可能性を秘めていると感じた。

ところで、ラップギアは突き詰めていくと、ある競馬場のあるコースのある距離において求められる適性に還元されると私は思う。大雑把に言うと、東京競馬場は直線コースが長いため瞬発戦に落ち着きやすく、中山競馬場は同じ距離であっても平坦戦~消耗戦になりやすい。短距離は消耗戦になりやすく、長距離戦になるに従って瞬発戦の色が濃くなってくる。種牡馬の血統イメージだけではなく、ラップギアは従来の私たちの競馬場やコースのイメージとも食い違うことはないのだ。

このことを煎じ詰めていくと、私たちは驚くべき結論に行き着く。わずかラスト4ハロンのラップの増減に焦点を当てた「▼7▼3△5」という簡素な記号が、私たちが知っている競馬の世界を饒舌に語っているではないか!これがラップギアという大発見の本質である。いや、もしかするともっと奥深いところにラップギアの本質はあるのかもしれない。あらゆる要素をラップギアというふるいにかけていけば、一体どのようなものが残るのだろうか。そこには私たちが見過ごしていた、コースなり種牡馬なり何なりの秘密が眠っているような気がしてならない。


関連リンク
「ガラスの競馬場」:ラップギア

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「競馬の血統学」

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ボロボロになるまで読んだ競馬の本は数えるほどしかないが、「競馬の血統学」はその中の1冊である。「血統について勉強したいのですが、どの本を読めばよいですか?」と聞かれた時に、私は迷わずこの本を薦めることにしている。もし無人島に1冊だけしか血統本を持っていけないとしたら(そんな状況ありえないか…)、私はこの本を手に取るだろう。それほどまでに、この本に書かれている内容は奥が深く、何度読み返してみても新しい発見と驚きがある。

著者の吉沢譲治氏は、雑誌「優駿」にて重賞勝ち馬の血統ページを担当するようになり、十数年の間、血統表とファイルを整理する作業を続けた後、あるひとつの結論に達する。それ以来、血統についての全ての謎が解けていき、日本に戦前から伝わる在来の地味なサラブレッド血統と、それら多くを支える零細牧場と地方競馬の重要性を、深く認識するようになったという。

その結論とは、「近親繁殖の行き詰まりで活力、生命力、遺伝力を失いつつあった“同一品種”の名門血統が、“異品種”の雑草血統によってよみがえる」ということだ。

そして、その結論に基づいて、吉沢氏はサラブレッドの血統の流れを4つの波に喩える。「近親繁殖で走る大きな波」と「異系繁殖で走る大きな波」、「特定の血統が猛威をふるう波」、「血統の飽和で異父系が台頭する波」である。サンデーサイレンスやブライアンズタイムが日本で活躍したのも、4つ目の「血統の飽和で異父系が台頭する波」にうまく乗ったからだと吉沢氏は考察する。

爆笑問題の太田光が、大好きな作家カート・ヴォネガットについて、ヴォネガットはタイムスリップをテーマにした小説で「人は過去に行ける、思い出せばいい」と語った。それは我々が元々知っていることだった。しかし、誰もが当たり前と思うことを言葉に出来る天才と凡才の間には途方もない開きがある、と書いていたが、まさにその通りだと私も思う。吉沢氏が手にした結論は、言われてみれば当たり前のことだが、凡人の私にとって、世界観を揺さぶられるほど衝撃的であった。

随分と大仰に書いてしまったが、これから血統について詳しく学びたいという人たちにとっての入門書となるべき本でもある。セントサイモンから発した物語は、ハイペリオン、ネアルコ、ナスルーラ、ノーザンダンサー、ネイティブダンサー、トウルビオン、ロイヤルチャージャーと、時空間を超えながら紡がれていく。この物語を読み終えた後には、あなたはもっと血統について知りたいと思うだろう。もしかすると、それが血統を知るということなのかもしれない。

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「ジョッキー」 松樹剛史

Jockey 1star

第14回小説すばる新人賞を受賞した、痛快な競馬小説である。主人公の中島八弥は、朝の調教手当てだけで糊口を凌ぐフリーのジョッキー。とある理由で目の前から姿を消した兄弟子の、「自分の技術を安売りするな」という言葉を信じ、営業活動を一切しない骨ばった信念のおかげで、乗り鞍を減らしてしまっている。それでも、たまにおこぼれのような騎乗依頼があれば、あらん限りの技術と知恵を振り絞り、たとえ惨敗続きの未勝利馬であっても勝ち負けにまで持ち込んでくる。そんなどこかにいそうでどこにもいない中堅ジョッキーが、ひょんなことから桁違いの能力を持つ新馬オウショウサンデーの騎乗を依頼される。そんなプロローグから物語は始まる。

ネタバレになるのでここでは書かないが、ラストの天皇賞秋でオウショウサンデーを敵に回した主人公が、スターティングゲートで使った作戦は微笑ましい。この小説を象徴しているかのようである。そして、特筆すべきなのは、サラブレッドや厩舎に住む人々の様子、レース中のジョッキーの心理から技術的なことまで、わずかな参考文献をもとにして、微に入り細に入り実に見事に描写していることだろう。私の友人が、「競馬の世界を外から見てあそこまでのものを書いたのは凄い。JRAはもっとこういう若い才能に競馬世界の中に入るチャンスを与えるべきだ」と語っていたことも改めて頷ける。

しかし同時に、ある種、漫画のような安っぽさを感じたのも確かである。というのも、この小説を読みながらにして、私はあるジョッキーのことが頭から離れなくなってしまったからだ。事実は小説よりも奇なりと言うように、私は競馬の世界で実際に起こったドラマにいつの間にか思いを馳せてしまっていた。そのジョッキーの名は中島啓之。そう、この小説の主人公と同じ名字を持つ、昭和49年のダービーをコーネルランサーで制した実在のジョッキーである。このダービー勝利は、父時一との親子2代制覇としても知られる。

「万馬券男」と競馬ファンからは親しまれ、「あんちゃん」という愛称で仲間からは慕われていた中島だが、デビューしてから10年ほどは勝ち星も少なく、リーディング争いをしたのは36歳になった年の1度だけという苦労人でもあった。ちょうど保田隆芳や加賀武見といった当代きっての敏腕ジョッキーたちと時代が重なってしまったことも、不遇といえば不遇であった。それでも、コクサイプリンスで菊花賞、アズマハンターで皐月賞を制して、史上10人目の3冠ジョッキーとなった。

そんな遅咲きのベテランジョッキーを病魔が襲ったのである。42歳になった昭和60年の春、トウショウサミットというお手馬を擁して、中島啓之はクラシック戦線を戦おうとしていた矢先の出来事であった。末期の肝臓ガン。無類の酒好きであったが、本質的には酒豪ではなかった中島の肝臓は知らず知らずのうちに蝕まれていたのである。思うように動かない体にムチを打ちながら、中島とトウショウサミットはNHK杯を逃げ切った。

「ダービーだけは乗せてください」と中島は懇願したという。まさに決死の覚悟を抱いてダービーに臨んだのである。中島は自らの運命に抗うように、トウショウサミットを駆って逃げに逃げた。たとえ他馬が競りかけてこようとも、頑としてハナを譲ることはなかった。中島とトウショウサミットは先頭で4コーナーを回る。しかし、次の瞬間、あっという間に馬群に飲み込まれてしまった。この小説の主人公・中島八弥が天皇賞秋を逃げ切ったように、中島啓之は最後のダービーを逃げ切ることは出来なかった。現実はなかなか小説や漫画のようには行かないものだ。ダービーの9日後に入院した時には、もはや治療の施しようのない状態だったという。中島啓之はダービーからわずか16日後に急逝した。

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「無痛化」する競馬予想界のゆくえ

「無痛化」とは、森岡正博氏(生命学者)によって提唱された概念であるが、今あるつらさや苦しみから、我々がどこまでも逃げ続けていけるような仕組みが、社会の中に張り巡らされていくことである。

たとえば今、私はこの文章を、電気に煌々と照らされた、冷房の利いた部屋で、アイスコーヒーを片手に書いている。そして、この文章を読んでいるあなたも同じ。ほんの1世紀も前であれば考えられない光景である。暑ければ冷房のスイッチを押せばよく、暗ければ電灯を点ければよい。苦しみから我々が次々と逃げ続けるために、テクノロジーは発展し、文明が進歩したのは紛れもない事実である。文明の進歩とは「無痛化」の歴史に他ならない。

「無痛化」は、競馬予想界においても避けては通れない。「どうやって予想していいか分からず、馬券を外してお金を失う」というつらさや苦しみから手っ取り早く救ってくれる仕組みが、我々の周りのあちこちに転がっている(ように見える)。

私の個人的な見解ではあるが、日本の競馬予想界における「無痛化」の先駆けは、1969年の柏木久太郎のコンピューター予想ではないだろうか。コンピューターを駆使した予想で的中率84%を標榜したが、いつの間にか消えていなくなった。その後、アンドリュー・ベイヤーによって「スピード指数」が発見され、西田和彦や石川ワタルもそれに続いた。それ以来、今に至るまで、科学文明の発展に歩みを合わせるように、~の法則、~理論、~システム、~値といった必勝法のゴールドラッシュの勢いは止まるところを知らない。

しかし、本当のところ、馬券で損をするというつらさや苦しみからは決して逃れることはできない。簡単で確実なはずの必勝法は、手にした途端、使い勝手の悪い、たまにしか的中することのないゴミと化す。たとえ的中しても、あまりにも買い目が多すぎて結果的にマイナスになってしまうこともあるだろう。それでも、必勝法は当った勝ったと大騒ぎする。これまでの負けを全て忘れ、水に流したと言わんばかりに。馬券で損をするという病に効く薬はないし、必勝法を生み出す詐欺師、それにすがる愚か者に付ける薬もない。

何よりも悲しいのは、競馬予想界の「無痛化」によって、我々が考えることからも逃げてしまうことだ。もし万が一、苦しみから次々に逃れて行くことの出来る必勝法があるとしても、その後に何が残るかというと、快楽、快適さ、安楽さしか残らない。するとどうなるかというと、当たって気持ちがいいけれどもよろこびのない予想になる。

必死になって考え、答えを導きだそうというつらさや苦しみから逃げてはいけない。よろこびは自分の頭で考えることでしか生まれない。競馬好きが100人いれば100通りの予想があるべきで、自分の予想が当たることも外れることもあるだろう。たとえ当たっても外れても、その予想が自分の頭で考えられたものであれば、そこには何ものにも代え難いよろこびがあるのではないだろうか。

seimeigaku


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「勝利の競馬、仕事の極意」

Syourinokeiba 3star

角居調教師といえば、先日久しぶりに勝利を挙げたウオッカを真っ先に思い出してしまう。それほどまでに、牝馬のダービー制覇は私にとって衝撃的であり、角居調教師でなければ成し遂げられていなかった快挙だと思っている。しかし、ダービー以降のウオッカの使われ方に対しては、多くの競馬ファン同様、多くの疑問を感じざるを得なかったのも確かである。

角居調教師は安田記念後のインタビューで、「人間のエゴによって出走して負けてしまったり、馬に合わせたら今度はアクシデントが起こってしまったりと、なかなか歯車が噛み合わなかった」という旨のコメントをしていたが、まさにその通りだと思う。私の個人的な意見としては、宝塚記念と有馬記念は出走させるべきではなかったし、ヴィクトリアマイルは勝つつもりで出走させてきていなかった以上、ファンに対する背信だとさえ思う。

それでも、最後の最後の部分では角居調教師を私は信じている。角居調教師が人一倍悩み、決めた以上、その判断は正しいはずであり、様々な紆余曲折があろうとも、最後はウオッカという歴史的牝馬を最高の形で牧場に帰してくれるものと信じている。それはこの本に書かれた一節を信じているからだ。

サラブレッドはしゃべれない。
どんな扱いを受けようが、ただ黙って、人間にすべてをゆだねて生きていく。
馬が生を受けるとき、父馬と母馬は、人間が人間の都合で選んだ種牡馬と繁殖牝馬である。生まれた子馬は、人間の都合で厳しい育成を受け、人間の都合で売買される。そして、人間の都合で激しいレースを闘わされ、これに勝ち抜いて生き残れば今度は、人間の都合で父馬や母馬として優れた血を伝えることを求められる。
彼らの生涯は、すべて人間の都合によって支配されているのである。
それでも、サラブレッドはしゃべれない。
何という儚い動物なのだろう。わずかなアクシデントでも命を失う過酷な宿命、熾烈な淘汰のための競争、人に委ねられた生活。そういう研ぎ澄まされた毎日を、まるで綱渡りでもするようにして、サラブレッドというガラス細工の芸術作品は、少しずつ少しずつ作り上げられていく。
この美しく儚い動物を守っていきたい、と私は思った。私が競馬を仕事にしようと決めたのは、そういう思いが原点だった。
サラブレッドの人生を守り、より良い生涯を送れるように、私ができる限りのことをしたい。
牧場での毎日から生まれたそんな思いが出発点になって、私は競馬の世界に足を踏み入れていき、そして、サラブレッドと競馬の魅力の虜になって、離れられなくなった。

確かにサラブレッドは経済動物であり、ギャンブルの牌でもある。しかし、人間とサラブレッドのもっと奥深い結びつきにおいては、決してそうではないだろう。ホースマンはサラブレッドという美しく儚い動物を守っていかなければならない。しゃべれないサラブレッドの人生を守り、より良い生涯を送れるように、出来る限りのことをしていくのがホースマンであるとも言える。そういったホースマンの愛情に応えるために、しゃべれないサラブレッドはレースで限界を超えて走るのだ。

話は少し飛ぶが、ドーピングテストは競馬が始まりだとある人から教えてもらった。古代ローマの戦車競走の馬に、アルコール発酵させた蜂蜜を与えたり、敵の馬に薬物を与えたりしたことが問題となり、ドーピングテストは行われ始めたのだ。サラブレッドは人間が薬物を接種させればそれを一方的に受け入れるしかなく、自分の意志で拒んだり受け入れたりできないからである。つまり、ドーピングテストはギャンブルに対する公平さを期すためではなく、動物愛護の精神からなのであった。

しゃべることのできないサラブレッドを守ることが出来るのは、良くも悪くも人間しかいないという事実を、私たちは胸のどこかに留めておかなければならない。

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「君は野平祐二を見たか?」

Kimihanohirayuujiwo 3star

作曲家の坂本龍一氏は、「自分のやっていることの98%は10代に吸収したことでできている」と娘に宛てた手紙に書いた。98%とまではいかないが、私の競馬に対する考え方や情熱なども、実は十代の頃に身につけたものがほとんどであり、その多くを野平祐二という人物に大きく影響されている。私の競馬観は野平祐二のそれだと言っても過言ではないだろう。

野平祐二は日本の競馬を大きく変えた男の一人である。昭和の後半、世界にはほど遠かった日本競馬を今日のレベルにまで高め、しかも底上げした。騎手としては、騎乗数の少なかった時代に1339勝を挙げ、リーディングジョッキーにも輝き、スピードシンボリと共にヨーロッパ競馬に挑戦した。調教師としては、20世紀最強馬であるシンボリルドルフを管理し、ダービーやジャパンカップを含む数々のG1レースを制した。

野平祐二が生きた日々は、まさに日本の競馬にとって最もエポックメイキングな時代であった。だからこそ、この本には、尾形藤吉、和田共弘、保田隆芳、加賀武見、栗田勝、武田文吾、藤澤和雄、柴田政人、岡部幸雄という、日本の競馬を語る上で外すことの出来ない男たちの名前が登場する。まるで明治維新が日本という国を大きく変えたように、彼らが切り拓いてくれた道があるからこそ、私たちは今こうして競馬を楽しむことができる。

しかし、ダビスタで競馬を覚えた昨今の競馬ファンは、野平祐二らが生きた激動の時代については意外や知らない。著者の木村幸治氏は、そのような状況を、皮肉を込めてこう綴る。

やがて日本一の騎手となり、英仏米豪の競馬で実戦を経験し、二十世紀の日本競馬史で史上最強馬といわれる馬の現役生活に付き添った。この野平祐二が騎手として生き、調教師として馬に添った間に、日本競馬はその相貌を変えたのである。その事実を競馬に深くかかわった人は知っているが、競馬を馬の血統や馬券の世界だけでいとおしみ続けた人の多くは知らない。

かつて私は、競馬の師にこんな質問をしたことがある(不遜にも)。

「本物の予想家とそうでない予想家の違いは?」

師はためらうことなくこう答えた。

「起源(origin)を知っているかどうかだ。」

当時は全く意味が理解できなかったが、今は少しだけ分かるような気がする。私の周りを見渡してみると、競馬だけに限らず、その道に通じている人は必ずその道の起源を詳しく知っている。その道が好きだからこそ、その道がどこから来て、どこへ向かっているのかを知りたいのは当然のことだ。起源を知ることが馬券の当たり外れにどう関わるのかは未だに分からないが、起源を知りたいという知的探究心が本物の予想家とそうでない予想家を隔てるのだろう。この本のタイトルは、「君は日本競馬の起源を知っているか?」という著者の問いかけでもある。昔のことなんか知っても予想には何の役にも立たないと思っているそこのあなたにも、せめてこの本だけは読んで欲しい。この1冊だけでいい。


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「ラップギア」 

Rapgear 4star

自慢でも何でもないが、エッセイ本から理論本に至るまで、競馬に関する書物には大体目を通しているつもりだ。しかし、理論本に関しては、最後まで読むかどうかは、最初の前提を読んで決める。前提というのは、戦略的な部分のことである。前提が間違っていたらその先が正しいことはまずないので、そういう本は最後の理論的な部分までわざわざ読み進めることはないと思っている。

雑誌『競馬最強の法則』で取り上げられて以来、「ラップギア」は大きな反響を呼んできたが、まずはその前提が素晴らしい。1章では競馬(馬券)に対するスタンス、2章ではラップギアの成り立ちについて述べられているが、著者である岡村信将氏のスマートさ(頭の良さ)が伝わってきて、ここまで読むと先が読みたくて仕方なかった。長くなるが、その前提をほんの少しだけ紹介したい。

なぜなら、的中率と回収率は「ある程度反比例するもの」だからだ(もちろん、その予想理論が正しいことが大前提である。理論が間違っていれば、的中率と回収率が下がる方向で反比例することもあるだろう)。的中率を突き詰めれば回収率が上がらないし、回収率のみを追求すると的中率が恐ろしいことになる。追い求めるべきふたつの道が反比例するからこそ、競馬は難しい。
(中略)
決して当たりすぎてはいけない。当たりすぎるということはつまり、長期的に見るとそれだけ平均配当が下がっていることになる。これは本人が意識しようがしまいが、間違いのないところだ。もちろん可能なら、的中率100%、回収率1000%なんて予想を出してみたいが、それは私には一生かかっても、何度生まれ変わってもできそうにない。

ここにサラリと書かれていることは、競馬界においては実は当たり前とされていないことでもあるが、全くもって真実である。そこで、岡村氏は「回収率120%超を前提としての的中率20~30%」のバランスを目指すと語る。その簡単に見えるが困難な道を、「ラップギア」という理論を元に切り拓いていくというのだ。

これは余談だが、岡村氏は救いがたいデータ好きで、小学生の頃から野球選手の推定年俸を割り出していたそうだ。打率や長打率、盗塁数、入団年数などのデータを基に、落合や宇野や郭源治の年俸を小学生が決めていたという逸話には笑ってしまった。私も小さい頃から野球が好きで、甲子園球場に行って、スコアカードをつけながら高校野球を観戦していた小学生だったので気持ちはよく分かる。

ところで、本題のラップギアの理論部分だが、タイム理論の新革命と銘打つだけのことはあって、当然のことながら画期的かつ面白い。簡単に説明すると、ラスト3ハロンのラップの増減に焦点を当てた理論で、すべてのレースラップを「▼7▼3△5」という簡潔な記号で表しながら、馬やコースの適性を「瞬発戦」「平坦戦」「消耗戦」の3つに分類しながら解き明かしていくというものである。

正直に言うと、ラップの増減という未開拓のファクターを、ここまで現実のレースや馬にリンクさせられたということが、私にとっては衝撃であった。これは想像でしかないが、おそらくありとあらゆるラップパターンを組み合わせて試してみて、「ラップギア」の理論に収束していったのだろう。実際に使っていくと、たとえば瞬発戦になりやすいレース(コース)には瞬発馬が集まりやすい等という難点は出てくるが、シンプルであるがゆえに様々な応用も利くだろうし、何よりも、これまでに私たちが気付かなかったラップの盲点をあぶり出してくれるのではないかという期待もある。

さらに、巻末にあるコースとJRA現役馬のデータ、各競馬場の距離別データの量にも圧倒された。著者だけでなく、この本に携わっている取材班の血の滲むような努力とこの本に賭ける想いが伝わってくるようである。久しぶりに考えさせられる熱い理論本に出会えて私は嬉しかった。近くの書店でもアマゾンでもいいので、この黄色い表紙の「ラップギア」をぜひ手に取って、まずは読んでみて欲しい。

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「キャッチボール」

Catchballichiro

イチローの言葉には自分の頭で考えてきた重みがあり、だからこそ私にとっても考えるきっかけになったり、ヒントになったりもする。他にもイチローの言葉を集めた本はたくさんあるが、中でも糸井重里が引き出した生のイチローを感じられるこの本が一番面白いと私は思う。

イチローは他の誰よりも道具にこだわり、大切にすることで知られている。「手入れをしたグラブで練習をしたことは、体にかならず残る。記憶が体に残ってゆく。汚いグラブでプレイしていたら、その練習は記憶に残らない」という言葉の意味は、科学的には何の根拠もないのかもしれないが、野球少年、そして野球青年であった私にはよく分かる。グラブは体の一部であり、グラブを手入れすることは自らの体を手入れすることである。グラブを手入れしない人間が自分の体を手入れすることなど出来ない。また、練習後にグラブを手入れしている時こそ、今日のプレーを顧みて、記憶に残していく貴重な時間なのだ。

イチローには、バットに対するこんなこだわりもある。

糸井「そういえば、イチローさんは、バットもすごく細いままですよね。スイートスポットがものすごく小さくて。ホームランなんか、大当たりみたいなことでしか、打たないようなバットなんですって?」

イチロー「スイートスポットは小さいです。扱いはむずかしいですし、細いバットなんですけど…、人が勘違いしているのは、『太いバットだと、たくさん当たる』と思っていることなんですね。」

糸井「そりゃ、そんなことはないわ。羽子板じゃないんだからねぇ。」

イチロー「たくさん当たるってことは、ミスショットも多くなるんですよ。そりゃ、バントするならでっかいバットでもいいかもしれないけど、ふつうに打つときに、太いものでは、当たってはいけないところにも当たる可能性がある。ぼくはそれがイヤなんですね。確実に当てたいから、細いバット、なんです。確実にとらえようと思ったら、でっかいバットじゃダメですよ。」

糸井「ミスショットだったら、空振りしたほうがマシなんだ。」

イチロー「そういうことです。」

確実にとらえたいから細いバットという思想は、野球でもゴルフでもスイートスポットを少しでも大きくしようという時代の流れから逆行していて、非常に興味深い。ここでイチローの言う、確実にとらえるとは、バットの真芯に当てて強く打つということだろう。強く打つためには、スイートスポットを大きくするのではなく、小さくするということである。スイートスポットが大きければ、もちろん当たる可能性は高くなるが、強く打つことは出来ない。

競馬の賭けにも同じことが言えるだろう。最近はフォーメーションやボックスなど、スイートスポットを大きくするような賭けを助長するシステムが整ってきていて、ファールチップを打つJRAのお客さんのような打者が見事に育ちつつある。たとえ当たったとしても、それは強く打ったことにはならないということだ。ミスショットをするならば、空振りをしたほうがマシなのである。

スイートスポットの小さい細いバットで強く打つこと。

自分自身を省みて、戒めの意を込めて、上の言葉を取り上げてみた。この他にも、胸の奥に響く珠玉の言葉たちがこの本には溢れている。ちなみに私は、「ヒット1本って飛びあがるぐらいに嬉しいんですよ」というイチローの言葉に心を打たれた。イチローファンならずとも、一度は手にとってもらいたい一書である。

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「安藤勝己の頭脳」 亀谷敬正

Andoukatuminozunou02 5star

前作から8年の時を経て、「安藤勝己の頭脳」が私たちの前に再び登場した。「できればこの本だけは紹介したくなかった」と前作時に書いたが、その思いは今回も同じである。安藤勝己騎手の言葉によって競馬の本質が語られ、その本質を見事に引き出す著者・亀谷敬正氏の技量も凄い。ひとりでゆっくりと楽しみながら読んで、こっそりと馬券に生かしたい。そんな内容の本である。前作と並び、必読の競馬本である。

私にとって最も印象的だった部分は、レースの「流れ」に話が及んだ部分である。かなり競馬の核心に触れた部分なので、長くなるが引用してみたい。

亀谷(以下、敬称略)
「ところで、レースの「流れ」というのは展開のことですか?」

安藤
「いや、展開というのではなくて、その馬にとっての理想の時計だね。」

亀谷
「理想のラップタイムのバランスですね。その理想バランスが馬によって違うんですね。」

安藤
「そう。長距離って道中は脚を溜めて最後の切れ味勝負っていう流れが多いけど、どの馬にもその流れが合うわけではない。たとえば瞬発力はないけど同じスピードならどこまでも持続できる馬ならば、道中でペースが落ちてもスピードを落とさない方がいい。こういう馬は3コーナーでもペースを速くして乗るように心がけています。最後に差されて負けると格好悪いけど。」

亀谷
「そういうのは格好悪い負け方という意識はあるもんなんですか?」

安藤
「やっぱり早仕掛けで負けたように見えるとカッコ悪いでしょ。でも、どうせ仕掛けを遅らせても伸びないんだったら、早めに動くしかチャンスはないと思う。」

亀谷
「ということは、平均ペースで押し切るのが理想の馬なら、前にいる馬がペースを落とした場合、そこで勝手に仕掛けていけばいいと思うのですが。」

安藤
「それはいつも考えているよ。でも、それはなかなかできない。たしかに、道中で自分だけ勝手に仕掛けても毎回勝てるならいいよ。でも、もし着外とかになったりしたら、『下手に乗りやがって』って言われるし、他の騎手にも迷惑をかけるわけ。それにハナとか2番手に行った騎手にとっては、途中から変なペースで来られたら頭にくるよ。オレだってそんなことをされたら頭にくるから(笑)。レースの流れを壊すような乗り方をするっていうのは、後々のことも考えるとなかなか度胸がいることではあるんだよね。競馬っていうのはすべてがつながっているわけ。だから、そのレースの結果だけがすべてではないんですよ。」

亀谷
「たとえば、そのレースだけのためにレースの流れを壊すような思い切った乗り方をした場合、たまたまそのときだけうまくいってもトータルの結果は悪くなるとか?」

安藤
「他のレースでは自分がペースを握ったときにそれを壊されることも出てくるだろうね。だから、乗り役はレースのペースがその馬に合わないことが分かっていても動けないことがある。」

亀谷
「ペースというのは、逃げ馬や馬群の先頭に立つ馬が決めるわけですね。」

安藤
「そこの中で競馬をやった方が周りからも悪く見られないし、負けた時は流れが悪かったってことになるから。」

亀谷
「それは外国の騎手が日本で乗るときもそうなんですか?」

安藤
「それなりにその国の競馬の流れの中で対応してるよね。何人も外国の騎手がいればまた違うだろうけど。笠松(当時)でも、中央の騎手と馬1、2頭が来たって流れは変わらないから大体の流れは分かる。つまり、流れっていうのは1頭だけで決まるものではないんですよ。」

まず亀谷氏によって切り出された「レースの流れとは展開のことか?」という疑問に対し、安藤勝己騎手は否と答える。安藤勝己騎手の言う「流れ」とは、その馬にとっての理想の時計である。亀谷氏はそれを理想のラップタイムのバランスと言い換えているが、要するにその馬にとって理想の走るリズムのことである。その馬にとって理想の流れ(リズム)というものが存在し、その流れ(リズム)に沿って走ることが最大限に力を発揮できることにつながる。

たとえば瞬発力に欠ける先行馬にとっては、スローペースに落とすよりも、スピードを落とさずに持続力の勝負にした方が良く、逆に一瞬の切れ味を生かしたい差し馬にとっては、ペースが上がって脚を使わされるよりも、位置取りは後方でもスローの瞬発力勝負になった方が良い。ここまではあくまでも大前提である。

しかし、いつもどのレースでもその馬の理想の流れ(リズム)で走ることが出来るとは限らない。なぜなら、それぞれのレースには、それぞれの流れ(リズム)が存在するからだ。その馬にとっての理想の流れ(リズム)よりも、レースの流れ(リズム)が先に来るのである。そして、その流れ(リズム)は決して1頭の逃げ馬や先行馬が決めてしまうものではない。コース設定や馬場状態、騎手の心理や各馬のコンディションなど、数多の要素が絡み合ってレース全体の流れ(リズム)は決まる。

もちろん、その流れを途中から壊すこともできる。平均ペースで押し切るのが理想の馬なら、前にいる馬がペースを落とした時に、自分だけはペースを落とさずに先頭に立って回ってくればいいのである。しかし、それはなかなかできることではない。自分のリズムで逃げ・先行していた馬にとって、途中から来られることは致命傷になりかねない。サラブレッドは外から来られると追いかけてしまう習性を持ち、精神的にも消耗するものだからだ。

もし自分だけ勝手に仕掛けて、勝てるならばいいが、負けたときには他の騎手に迷惑をかけている以上、文句を言われることは避けられない。極端なことを言えば、以降のレースで、今度は自分の馬がリズムを崩されるような騎乗をわざとされることもあるだろう。ほとんど毎回同じ騎手同士でレースをする以上、やはり暗黙のルールや信頼関係が成立するのである。だからこそ、レースの流れを壊すような乗り方をするのは、後々のことを考えると非常に度胸がいることなのである。

これで私たちの疑問がまたひとつ解消されたのではないだろうか。流れが遅ければマクって行けばいいじゃないかと思うこともあるが、そうはできない事情というものがあるのである。特に実績のないジョッキーはそうである。中堅ジョッキーや若手ジョッキーがなかなかG1レースで勝てない理由も、ここにひとつあると思う。実績のある騎手たちはG1レースであれば、レースの流れを多少壊したとしても勝ちに来ることもあるだろうが、実績のないジョッキーたちにとっては、G1レースだからこそ自ら動いてレースの流れをブチ壊してしまうかもしれないことには大きな恐怖が伴う。そういう無数の駆け引きの中で、レースは行われているのだ。競馬は全てがつながっているのである。

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「スーパートレーナー藤沢和雄~名馬を語る~」

Meibawokataru 4star

このDVDは、以前に紹介した「スーパートレーナー藤沢和雄~調教の秘密~」と対になって発売されたものである。企画としては「調教の秘密」の方が斬新だが、どちらが馬券に役立って面白いかというと、私はこちらをお勧めする。名馬たちの成功の裏に、たくさんの失敗や技術的な試行錯誤の裏話があることに驚かされることだろう。

たとえば、シンコウラブリイは追い切りで追ったことがないという。気性の前向きな馬なので、どちらかというと走り過ぎないように、引っ張りきりだった。周りからは、「追い切りでビッシリ追わないからG1を勝てない」と批判されたことも少なくなかったが、それでも「追ったらこの馬はダメになる」と信じて追わなかった。そして、最後の引退レース(マイルCS)で、泥んこの馬場をシンコウラブリイが先頭でゴールしたときは、何とも言えないほどの感慨を味わったという。

スティンガーは京王杯SCを連覇しているが、武騎手よりも岡部騎手が乗って勝ったレースの方が良い勝ち方だったという。極端に速い脚を使うと馬に反動が出るからである。また、タイキブリザードが安田記念を勝ったレースでは、ブリンカーを外すか装着するか、最後の最後まで迷ったらしい。ブリンカーを付けると最後まで集中して走るが、道中で引っ掛かってしまう恐れがある。付けなければ、道中は折り合うかもしれないが、またいつものように最後の詰めが甘くなるかもしれない。悩みぬいた末、藤沢調教師はブリンカーを外すという決断をして、タイキブリザードは見事にそれに応えた。

タイキシャトルは、フランスから帰ってきてから、精神的に燃え尽きてしまったのか、調教で反抗するようになり太目が残ってしまったそうである。それでもマイルCSをブッちちぎり、スプリンターズSでも僅差の3着と、やはり桁違いの能力を秘めていたのだろう。それから、高松宮記念を制したシンコウキングは父フェアリーキング譲りのわがままで短気な馬で難しかったという話や、NHKマイルCを勝ったシンボリインディは3歳時に無理をして有馬記念を使ったことがミスだったという悲話。シンボリクリスエスは右回りで右にモタれる悪いクセがあり、それを矯正するために左回りの芝コースばかりで調教していたことなど、なかなか私たちが知りえない競馬の真実が満載である。

たくさんの名馬たちが語られるが、またそうではない、名馬と呼ばれることのなかった馬たちに対する藤沢調教師の愛情の深さも伝わってくる素晴らしい作品に仕上がっている。特に、ここに登場する馬たちの走った軌跡をご存知の方にとっては、あの時代にタイムスリップして競馬をもう一度味わいつくしているような感覚に浸れるはず。競馬関連のDVDの中では一番のお勧めである。

最後に、「夏休みだよ!ブログ⇔メルマガ連動企画」の答えは、強い馬にとってのメリットとは「精神的に燃え尽きない」ということだそうだ。強い馬は己の限界を超えて走ってしまうことがあるので、強い馬を強い馬と一緒に走らせてしまうと、お互いが頑張りすぎて精神的に参ってしまうのだ。精神的に燃え尽きさせないために、なるべく走る馬と走らない馬を一緒に走らせるのである。私はこれを知ったとき、目からウロコが落ちたような気がした。

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「サイマー!」

Saima 1star

うまジオでの対談の時に勧められた、直木賞作家・浅田次郎氏による旅打ちエッセイ。ホームグランドの府中競馬場から始まり、最後はラスベガスまで所狭しと世界を飛びまくり、張り続けるさまは、驚きを通り越して痛快である。行ったことのある競馬場は、その情景が目に浮かび、行ったことのない競馬場は、まるでそこで馬券を買い、浅田氏と共に叫んでいるかのような錯覚に陥ってしまう。読み終わるとスーツを着て競馬場に行きたい!と思わせられる、素晴らしい読後感である。

しかし、ひとつだけ引っ掛かるところがあった。それは、「あとがき」において、久保吉輝氏の撮ったサイレンススズカの天皇賞秋の写真を評した部分である。この写真はJRAのヒーロー列伝のポスターとしても有名になった名作だが、浅田氏は以下のように書いている。長くなるが引用したい。

ここに一葉の遺影がある。第百十八回天皇賞の馬場入場直後における、サイレンススズカ号の写真である。私はかつて、これほど悲しみに満ちた生き物の表情を見たためしがない。物言わぬ名馬は、おそらくおのれの余命が数分しかのこされていないことを、正確に予知している。鞍上の騎手もまた、ふだんとは違う愛馬の気配を悟ってか、表情を翳らせている。ファンが良く知る通り、このジョッキーが表情を露わにすることは極めて稀である。そしてその姿を、埒のかたわらから、久保吉輝氏のカメラが捉えていた。
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この一葉がサイレンススズカの遺影であることに異存はない。しかし、この遺影には悲しみというものが断片さえも私には見えない。この遺影に見えるのは最上の喜びと希望だけである。サイレンススズカという最速の天才と、武豊という天才ジョッキーが巡り合って生まれた喜びと希望が、最高の舞台を迎えたその奇跡の一瞬である。走る喜びに流星を紅潮させるサイレンススズカを、武豊騎手は愛情を持って見つめる。もはやそこには2人の世界しか存在せず、14万の観衆の大歓声の中でも、ただひらすら彼らは静寂に包まれていたに違いない。

この遺影を私が改めてじっくりと見たのは、ちょうど今年の宝塚記念の週に、サイレンススズカのビデオを借りてきてジックリと観た後のことだ。新馬戦から最後の天皇賞秋まで、彼の競走生涯を時系列に辿った後だからこそ、もしかしたらそう思えたのかもしれない。それでもやはり、たとえ死が隣り合わせであろうとも、この瞬間が悲しみに満ちているはずがないと思う。

未来に起こる悲劇など知るよしはない。そして、私たちはその瞬間を選べない。サイレンススズカは生きながらにして死んだのである。「原因は分からないのではなく、ない」と武豊騎手は語った。そうだろう。だって、サイレンススズカと武豊は、あの瞬間まで最高に幸福であったのだから。彼らの走りを観ればそれは分かる。生きている限り、喜びや希望はいつも溢れていて、たとえいなくなってたとしても、喜びや希望はこうして私たちの心の中で走り続ける。

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「口笛吹きながら」

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私にとってはバイブルのような存在の本である。当時、私はここに収録されたエッセイを読むためだけに「週刊Gallp」を購買していた。競馬予想の技術はもちろんのこと、競馬に対する考え方まで、私は野平祐二さんの影響を大きく受けていることは間違いない。

競馬は文化であり、スポーツである。単なるギャンブルではない。ギャンブルだけでは競馬は滅びてしまう。競馬をマネーゲームにしてはいけない。等々。野平祐二氏の言葉には、世界の競馬に飛び込み、その隆盛を見てきたからこそ発することができる真実がある。競馬を見失いそうになった時、この本を開けば、競馬の理想の姿がいつも現れる。

今でも記憶に残っているエッセイがあって、それは若手騎手を育てることについてのものだ。馬の成績が良くなれば、もっといい騎手へと乗り替わるのが日本競馬社会の日常である。そんな中で、テイエムオペラオーに和田竜二騎手、ナリタトップロードに渡辺薫彦騎手、サイコーキララに石山繁騎手を乗せ続けた調教師を、「すごいな」と思って見続けてきたという。

野平氏が若手騎手だった時代は、いい馬に乗れなかったというよりは、いい馬に乗ってはいけなかったらしい。自分より上手い先輩がいっぱいおり、そこには序列というものがあったからである。「ずうずうしく乗ってはいけないんだ」と思っていて、当時は若手騎手には「馬に乗れる喜び」は少なかったという。

こういうガチガチの徒弟制の中で育ってきた叩き上げの人間は、普通ならばこう切り捨てるだろう。「俺らの時代は、馬になどまともに乗せてもらえず、靴磨きしかさせてもらえなかった。今の若手は恵まれている」と。しかし、ミスター競馬こと野平祐二氏はこう言う。

強い馬を作ることも大切だが、いかに素晴らしい人材を育てるかということも大事なこと。強い馬が出てきたら、弟子に乗せて経験させるべきだと思う。(中略)「自分のところで、なんとか、しっかりした騎手を育てよう」という考えを持つ調教師が増えてきたのは本当にうれしい。いい時代になったな、と思う。

当時、このエッセイを読んで、自らの身と照らし合わせ、感激して涙したのを覚えている。こんな考え方をする人もいるんだなと。

外国が地方から腕の立つジョッキーが押し寄せ、若手騎手にとっては不遇の時代になったと言われるが、果たして本当にそうだろうか。昔に比べて今の時代は、若手騎手にとっても、チャンスはたくさん転がっているのではないだろうか。いい時代になったな、と思う。

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「カリスマ装蹄師 西内荘の競馬技術」

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競走馬にとっての蹄鉄とは、人間にとっての靴のようなものであり、人間が自分に合った走りやすい靴を履かなければまともに走られないのと同じで、競走馬も自分の蹄にフィットした蹄鉄を履くことによってこそ、ベストパフォーマンスをすることが出来る。

従来の装蹄は、馬の蹄に蹄鉄を釘で打ち込んでいくのだが、ディープインパクトの出現により広く世間に知られるようになった、「エクイロックス」という接着剤を使った装着技術がある。

実は走る馬ほど蹄が薄い。なぜなら、馬が強ければ強いほどトレーニングを課せられる→強いトレーニングを消化すると脂肪が減り皮膚が薄くなる→蹄は皮膚が角質化したものなので、皮膚が薄くなればなるほど蹄も薄くなってしまうからである。走る馬というのは生まれつき皮膚が薄かったりもする。

また、走る馬ほどキック力が強いため、蹄鉄の減りも早く、蹄鉄を打ち替えなければならないサイクルもまた早い。蹄鉄を釘で打ち込む頻度が高ければそれだけ蹄が傷んでボロボロになっていくのは当然で、だからこそ、走る馬ほどより接着装蹄を必要とするのだ。

そういった意味においては、ダービーを勝ったウオッカを始め、関西のほとんどの有力馬の走りは、このエクイロックスを使用した接着装蹄を担当する西内氏の腕にかかっていると言っても過言ではない。そして、いずれかは、物理的に可能な限りにおいて、ほぼ全てのサラブレッドがエクイロックスを使用した接着装蹄の恩恵を授かり、脚元に気をつかうことなく、能力を十全に発揮できるようになる日が来るだろう(接着装蹄ではほぼ100%落鉄することもない)。大袈裟に言うと、下駄を履いて走るかそれとも運動靴かというぐらい違うのであって、それぐらい大切な技術なのである。

しかし、それ以上に私が大切だと感じたのは―競馬の予想をするという立場上―、蹄鉄についている歯鉄の問題である。歯鉄のついた蹄鉄とはいわゆるスパイクのようなものであり、歯の長さが長ければそれだけ引っ掛かりが良くなり、それだけで走る能力が高くなる。JRAの規定では、2mmの長さまでの歯鉄の使用が認められていて、どの程度の長さの歯鉄のついた蹄鉄を使用するかの判断は、各陣営に委ねられている。

たとえば、ウオッカは阪神ジュべナイルF(1着)は、1mmの歯鉄のついた蹄鉄を履いて臨んだという。しかし、歯鉄が長ければキック力が増すので、それだけ馬に掛かる負担も大きく、レース後はさすがに疲れが出てしまったという。そこで、桜花賞では先々を考えて歯鉄のない蹄鉄を履いて臨んだ(2着)。そして、最大の目標であったダービーでは、なんと規定最大の2mmの歯鉄のついた蹄鉄を使用したという。あの33秒ジャストの末脚は、2mmの歯鉄による引っ掛かりが生んだものなのかもしれない。そう考えると、その馬が何ミリの歯鉄のついた蹄鉄を使用しているかは気になるところである。現時点では確認するのは難しいが(たとえパドックでも)、これもいずれかはJRAから発表されるようになるのではないだろうか。それぐらい、陣営の勝負度合いを知るという意味では大切なことなのである。

最後にこれだけは言っておきたいが、あくまでも装蹄は馬が走るか走らないかを決める要素のひとつであるということである。本書には、あたかも装蹄師はサラブレッドの状態の全てを把握していている、もし自分がレースに出走する全ての馬の装蹄を担当しているケースには、その勝ち負けを容易に判断することが出来るかのような記述があるが、決してそうではないだろう。馬券を買う競馬ファンに向けての著作だけに、ある程度の煽りは仕方ないのかもしれないが、誤解を招きかねない部分があると感じた。

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第1回GKY大賞

第1回GKY(「ガラスの競馬場」読み物)大賞が決定しました。私がこれまでブログ上で紹介してきた競馬本の中からベスト5選びましたが、選考基準は以下のとおりです。

1、競馬ファンならば読んでおきたい
2、競馬の予想に役立つ

どちらのポイントも満たしていればランキング上位は当然ですが、優先順位としては1を上に見て順位を付けています。あくまでも私治郎丸敬之の主観に基づいたランキングですが、ここで紹介させていただいた本は、少なくとも2回以上は読んでおり、安直な紹介ではないことだけはご理解ください。必勝本やデータ本ばかりが売れている現状ですが、そんな中、競馬に関してきちんと書いてある競馬本もたくさんあります。もし未読のものがあれば、宝塚記念まではまだ時間がありますので、読んでみてはいかがでしょうか。

第1位「競走馬私論」
先日のNHK番組「プロフェッショナル」にも出演されていた藤沢和雄調教師による競走馬論。教育書、ひいては哲学書として読まれてもおかしくないだけの内容の奥深さがある。もちろん、馬券の予想に役立つヒントも満載。

第2位「安藤勝己の頭脳」
この本だけは紹介したくなかったというのが本音。競馬の本質が、全く惜しげもなく、至るところに散りばめてあるからだ。私たちアウトサイダーだけではなく、騎手、調教師等の競馬関係者が読んだとしても、かなり勉強になるのではないだろうか。

第3位「競馬学への招待」
高い知性と教養のある人間が競馬について書くと、かくも良いものが出来上がるのかという出色の作品。終電に乗り遅れて、朝までベンチに座って一気に読んだホロ懐かしい思い出も蘇る(個人的に)。競馬を深く愛したい人には必読の書。

第4位「調教師伊藤雄二の確かな目」

第5位「G1勝利の方程式」


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「スーパートレーナー藤沢和雄~調教の秘密~」

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藤沢和雄調教師が2005年にリーディングトレーナーの座を失った時、少し時間がかかるかもしれないということを私は書いた。しかし、その予想に反し、翌年である2006年には、藤沢和雄調教師はあっさりと再びチャンピオンの座に返り咲いた。私たちの想像が及ばないほどの高い調教技術を誇り、なおかつ馬に対する思いやりに溢れた藤沢和雄調教師の天下は、これから先も続いていくことだろう。

このDVDには馬を調教することの奥深さが詰まっている。馬を調教するとは、その周辺環境を含め、馬がレースに行って苦しまずに走れるように仕上げていくことである。調教に行く前と、行く後、なぜヒヅメに蹄油を2回塗るのか。馬房の入り口を、なぜ馬栓棒から引き戸に変えたのか。ブラッシングされている馬の姿を見て分かることは?などなど。馬券に直接は役立たないかもしれないが、藤沢調教師のこだわりが、あなたの競馬を見る目を肥えさせてくれることは間違いない。

「The Jockey Cam」という、ジョッキーのヘルメットにカメラを装着して、調教のシーンをジョッキーの視線から切り取った映像は圧巻である。追い切りという行為は、決してダビスタ的なものではなく、アスリートのトレーニングであるということがよく分かる。たとえば、朝日杯フューチュリティSで2着したヤマノブリザードは右回りで内にモタれてしまう癖があるのだが、それを矯正するために常に馬を内に置いて走らせるようにした。また、ダンスインザムードがガツンと行かないようにするため、コースを2周する調教を取り入れたりと、私たち競馬ファンには伝わってきにくい、追い切りの機微のようなものを、まさにジョッキーの感覚を持って味わうことが出来る。

そういえば、先週の共同通信杯を制したフサイチホウオーは、左にササル癖のある馬である。体が仕上がり切っていないため苦しいところがあるのか、それとも精神的なものか分からないが、デビュー以来、道中はずっと左にモタれて走っている。こういう癖のある馬は、特に外から被せられるとモタれようとする。右回りであれば、外から被されてもその馬がブロックとなり、それほど左にモタれることがないのは上に書いた通りである(安藤勝己騎手が常に左手にムチを持っている理由も、馬を左にササらせないためである)。

しかし、左回りであれば、内にもう1頭馬がいない限り、内ラチ沿いへと逃げて行き、終始ラチを頼るような格好で走らざるを得ず、騎手は非常に乗りづらい。つまり、左回りで行われた共同通信杯は、馬を前に置く形だったのでほとんど問題なかったが、外から被される形になれば、また違った結果になっていたかも知れないのだ。父ジャングルポケット譲りの底力に富んだ末脚から、府中競馬場で行われるダービー向き思われるが、「左にササる癖のある馬の左回り」であることも忘れてはならないだろう。

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「馬は誰のために走るか」

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オグリキャップが勝った有馬記念は、私は馬券も買わず、ひとりぼんやりと後楽園ウインズで観ていた。当時はまだ右も左も分からない競馬初心者で、有馬記念のウインズがあれほど混むとは思いもよらず、長蛇の列に並んでみたものの馬券を買うことが出来なかったのだ。しかし、あの時、生まれて初めて、競馬のレースを観て鳥肌が立った。最後の直線でオグリキャップが先頭に立った時の、後楽園ウインズを包んだあの異様な空気は、今でも忘れられない。

この本の著者、木村幸治氏はその空気を映画「蒲田行進曲」のラストシーンに重ねる。

(オグリ、来い、来るんだ、オグリ。) 心の中で、わたしも叫んでいた。胸の奥で熱いものが湧いてきた。何かのシーンに似ている。そうだ。映画「蒲田行進曲」のラストシーンだ。<池田屋階段落ち>で、新撰組に扮した風間杜夫の銀ちゃんが、自分のため死を覚悟で階段を転げ落ち、瀕死の重傷を負った安次に、涙で顔をグシャグシャにして言うセリフにそっくりだ。 (ヤス、来い、来るんだ、ヤス、上がってこい、立つんだ、ヤス) 不思議な感覚が、小さな震えが、わたしの全身を襲ってきた。 オグリは下がらなかった。トップを譲らなかった。 ゴール。オグリキャップが勝った。勝ってくれた。メジロライアンを四分の三馬身差に押さえ込んで。信じられないことが、目の前で起きた。奇跡といっていいだろうか。

やはり、競馬のノンフィクションを書かせたら、木村幸治の右に出る者はいないと思う。このくだりは何度読んでも、読むだけであの時の興奮が蘇ってきて、鳥肌が立つ。そして、あのレースを生で観ることが出来たことを、一競馬ファンとして幸せに思う。

馬は誰のために走るか?

その答えは、この有馬記念にある。

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「藤沢和雄の調教論」

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昨年度、藤沢和雄調教師は、それまで10年間守り続けてきたリーディングトレーナーの座を失った。それでも、日本競馬のパイオニア的存在であることは事実であり、その調教技術においてはまず右に出る者はいないだろう。あれだけの調教師でも、歯車が噛み合わないと勝つことができない競馬の難しさを再認識させられた。少し時間は掛かるのかもしれないが、いつか再びチャンピオンに返り咲いてくれるはずである。

さて、今から10年前に発行されたこの本であるが、今読んでも学ぶところは多い。まず驚かされるのは、藤沢和雄調教師のスタンスが少しも変わることなく貫かれてきたことだ。変化がないということは、進歩がないということではなく、その調教論の中心となる「馬本位(全ては馬のために)」の思想に一貫性があるということである。馬のためにならないことであれば誰がなんと言おうと絶対にやらないが、しかし馬のためになることであれば苦労は厭わないという強い信念を持って走ってきた10年であることがよく分かる。

私が一番興味深く読んだのは、藤沢和雄調教師が故・戸山為夫調教師のハードトレーニングについて語っている箇所である。ご存知のとおり、藤沢和雄調教師が併せ馬の馬なりを中心とした調教法を採るのに対し、故・戸山為夫調教師はいわゆるスパルタ式で馬を徹底的に鍛え上げるという、一見対極に位置する二人である。

馬を壊すことを恥だと考えている藤沢調教師が、馬を壊しながらも、しかしそれに耐え抜いた馬たちには能力を発揮させることで成功した故・戸山調教師について、意外にもこう語る。

「おそらく強くすれば壊れることを最もよく知っていたのは戸山調教師だと思うし、だから限度も知っていたはずですよ。そしてもちろん、ハードトレーニングのあとのケアの仕方も人一倍知っていたんだと思いますよ。」

逆説的ではあるが、スパルタ調教を課すからこそ、どこまで強くすれば馬が壊れてしまうか、そしてハードトレーニングの後のケアについても戸山調教師は誰よりも学んでいて、さらに実感として知っているというのだ。だからこそ、血統的には二流三流でしかなかった馬たちの中から、ダービー馬2頭(タニノはローモア、ミホノブルボン)を誕生させ得たのである。

「どのくらいやるべきかを知っている」ということは、
「これ以上やってはいけない限界も当然知っている」

馬なり調教の藤沢調教師と、スパルタ調教の戸山調教師が、この点において相通じていたのだ。藤沢流“馬なり”調教とは、一見“馬なり”ではあるが、馬にとっては決して生温い調教というわけではない。併せ馬をしながら、各馬の闘争心をかき立てることにより自ら走らせているのである。厳しくやっておかなければ競馬(実戦)に行って馬を苦しませてしまうことになることは、藤沢和雄調教師は百も承知なのである。やりすぎてもいけないし、逆に中途半端な仕上げでレースに臨ませてもいけないという物差しにおいて、一見対極に位置する二人は、実は同じ目盛りを持って調教していたに違いない。

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輓馬(ばんば)

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言わずと知れた、映画「雪に願うこと」の原作であるが、これまで私が読んできた競馬関連の小説の中では最高の作品である。私は映画を観る前に原作を読むと決めているのだが、あわただしくしているうちに、いつの間にか映画の劇場公開も終わってしまっていた。そこで、ようやく取れた今年の夏休みで読み始めたのだが、読み始めるや、まさに直線一気の末脚でラストまで読み終えてしまうほど面白かった。

事業に失敗し、借金取りに追われて、主人公(矢崎学)は輓曳(ばんえい)競馬の厩舎に逃げ込んで来るのだが、そこで出会った人々や馬たちとの交流が彼の凍てついた心を溶かし、遠ざけていた兄(東洋雄)との関係をも近づけることになる。この小説全体を貫く、氷点下の世界の“寒さ”と、人間そして馬が生きていることの“温かさ”が、実に見事に描かれている。

私の心に最も植えつけられたのは、物語の最後に、主人公の矢崎が人生に立ち向かう決意をして厩舎を出て行くシーンである。

「輓馬のレースってさ、人生そのものだと思わないか」 「何?」 「第一障害が二十歳、成人式さ。大人になるための試練なんだけど、後から考えると大したことはないよね。二十歳をすぎれば、今度は平坦路だ。突っ走る。夢中で走るよな。」 東洋雄は眉を寄せたまま矢崎をにらみつけていた。 矢崎が淡々と続ける。 「そして第二障害が男の厄年、数え四十二、満で四十一になる年だ。ちょうど今の俺の歳だな。」 「何が言いたいんだ?」 「おれにとって、今度の借金が第二障害だと思うんだよ。逃げるわけにはいかない。ここまで逃げてきたおれがいうのは何だけど、ここで逃げ出したら、一生逃げなきゃならなくなる。」 唐突に第二障害でのけぞったウンリュウの姿が脳裏によみがえった。 その後、ウンリュウはもがき、苦しみながらも障害を乗り越え、最後の平坦路を走り、結局は三着に入った。

輓馬のレースは人生そのものという比喩が、第一障害を越えて、夢中で突っ走っている私にズッシリとのしかかってきた。と同時に、いずれ私を待ち構える、最大の第二障害を絶対に乗り越えてやるという気持ちがムクムクっと湧いてきたのだ。また輓曳(ばんえい)競馬に勇気をもらいに行きたくなった。


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「馬を走らせる」

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騎手としてよりも、調教師としての小島太が私は好きだ。私の中にいる騎手小島太は、サクラの馬に乗って大レースを華々しく勝つこともあるが、それ以上に、半ば乱暴に見える騎乗をして、人気馬を凡走させてしまうイメージが強い。我慢が利かないというか、自分の馬の強さを証明してやろうという騎手のエゴが先行しての早仕掛けが多かったように記憶している。鎬を削った岡部幸雄や柴田政人らと比べると、騎手としての才能で劣っていたことは、おそらく本人も認めるところなのではないだろうか。

しかし、調教師としての小島太は才能に溢れている。マンハッタンカフェを筆頭に、育て上げた数々の名馬はご存知の通りであるが、その調教法には開業当初からキラリと光るものがあった。馬なり調教に固執するわけでもなく、坂路調教バカでもなく、当時の実力派トレーナーの調教法のエッセンスを見事に融合しながら、小島太流にアレンジしていた。悪く言えばいいとこ取りの調教法であるが、その馬その馬に合わせた調教方法を柔軟に取り込んだ、非常にバランスのいい調教である。

騎手として成功した人間は、プライドが邪魔をして調教師としては成功できないことが多いが、小島太調教師に限っては当てはまらないだろう。おそらく私たちが持っている華々しくて豪快なイメージとは違い、実に繊細で柔軟な、如才のない性格の持ち主ではないだろうか。厩舎を経営するという視点を持ち、スタッフを育てることに重きを置く。そして、何よりも馬を愛してやまない。この本の全編を通して、小島太調教師のそういった人間性が伝わってくる。そういったことも含めて、小島太は騎手ではなく、調教師に向いているのではないかと思う。もし万が一、私が馬主になって馬を預けるようなことがあったとすれば、小島太厩舎も候補のひとつに入れてみたい。

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「POGの極」

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「サンデーサイレンス産駒なきいま、POGの勝敗は馬体で決まる」という切り口は面白いが、果たして実際にそうかと言うと疑問である。立派な馬体をしていた馬が1ヶ月後にはガレてしまうこともあるし、形の崩れていた馬がデビューに向けてアッとおどろくバランスを取り戻すことだってある。完成された馬の体の良し悪しを判断するだけでも難しいのに、この時期のまだ完成されていない、最も変化が起こりやすい2歳馬の馬体だけを見て、その将来性を見抜くのは至難の業である。

この本の半分は名前の出せない生産者による馬見論であるが、正直なところ、あまり見るべき所はない。飛節、球節やトモの造りを詳細に解説してはいるが、ありきたりのことであるし、こういった各論は競馬ファンをかえって混乱させてしまう恐れがあると思う。実際に読んでもらえば分かるが、飛節の角度や力強さ、球節の柔らかさやトモの筋肉の質など、誰が見てもその違いは見分けられないだろう。この解説を読む限り、おそらくこの名前の知られていない生産者も、はっきりとした判断基準を持ち合わせていないに違いない。

さて本題だが、私がこの本を紹介したのは、第3章以降に柴田英次氏が語る内容に深い含蓄を感じ、おそらくはPOGに臨むにあたってのヒントが満載されていると考えたからだ。

まずは、「兄弟馬の写真があれば手間を惜しまず見比べる」というのは、まさに正論である。ラフィアンの岡田総帥が成功した理由として、「この馬の兄弟がどんな形に出て、どんな成績だったのか」、「牝系にどういった特徴があるのか」に精通していることを氏は挙げている。さらに、金子オーナーがカネヒキリの兄弟を持っていたからこそ、カネヒキリが走ると判断できたのかもしれないとも述べている。私としても、ディープインパクトが傑作となる可能性をデビュー前に見抜くことができるとすれば、兄弟との比較でしかあり得なかったと思う

そして、種牡馬別に攻略のポイントを挙げているが、その物言いはインサイダーにしてはストレートで、極めて核心を突いている。フジキセキがサンデーサイレンスと全然似ていないという意見には諸手を挙げて賛成するし、走らないフジキセキ産駒の特徴として「重たい」を挙げており、さすが分かってらっしゃると相槌を打ちたい。はっきりとは言っていないが、アグネスタキオン産駒はあまり走らないということは、私もそう思うし、スペシャルウィークがサンデーの第一後継者になるだろうことにも同意見である。最後に、ノーザンファームの強さについても触れているが、つまり、その馬がどこで生産されたかもPOGを攻略する上で大切な要素になるということである

ここでは挙げ切れないほどの数々ヒントは、まさに現場で馬を見てきた経験者ならではで、したり顔の、実は何も分かっていないマスコミ関係者が書いたPOG本とは一線を画している。ちなみに、柴田英次氏のおすすめ新種牡馬はマンハッタンカフェで、クロフネ級の成功の可能性もあるそうである。POGファンだけではなく、馬券ファンにとっても学びのある一冊である。

追記:このエントリーに関して、【キルトクールブログ】のひろく~んさんから厳しいご指摘をいただきました。彼の指摘は99.9%正しく、この本で宣伝されているHPについても、ほとんどぼったくり状態です。POGで馬体診断してお金取れるわけないでしょう!背後のHPまで調べることなく、この本を少し軽率に薦めすぎたかなぁと反省しております。いずれにせよ、POGそのものがビッグマーケットになってきたことを痛感しました。ひろく~んさん、ありがとう。


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眠れぬ夜は

Keibagakuhenosyoutai 2star

昨日の夜はなかなか寝付けなかった。仕事であれだけ疲れ果てたにもかかわらず、ダービーのことを考えてしまうと夜も眠れなかった。もしかしたらあの馬が勝つのではないか、などと想像を膨らませているうちに、心臓はドクドクと脈打ち、遠足前の小学生のように居ても立ってもいられなくなる。馬券を買うだけの私でさえそうであるから、ダービーを前にした、もしかしたら自分にも勝てるチャンスがあるのではないかと思っている騎手は、どんな心境でいるのだろうとふと思った。

ダービーを前にしていつも思い出すのは、この本のあるくだりである。騎手にとってダービーを勝つことは、宇宙飛行士が月面を歩くことと、どこか似た内的体験をするのではないかという一節である。この本の中で私が最高に好きな部分なので、長くなるが引用したい。

「宇宙飛行士の中でも月に行った経験を持つ24人と、他の宇宙飛行士とでは、受けたインパクトがまるで違う。さらに、月に行ったといっても、月に到着して、月面を歩いた人間とそうでない人間とでは、また違う。宇宙船の内部しか経験できなかった人と、地球とは別の天体を歩いた経験を持つ人とでは違うのだ。宇宙船の中は無重力状態だが、月の上は六分の一のGの世界で立って歩くことができる。この立って歩くことができるという状態が、意識を働かす上で決定的に違う影響を与えるような気がする。月を歩くというのは、人間として全く別の次元を体験するに等しい。」

上になぞらえて、山本一生はこう言い換える。

「騎手であることと、ダービーに出走経験のある騎手になることでは、受けたインパクトはまるで違うだろうし、さらにダービーに出走することと、ダービーの優勝ジョッキーになることでは決定的に違っていて、「全く別の次元を体験するに等しい」のである。」

騎手にとって、ダービーを勝つことがどれだけの意味を持つかを、これだけ上手く説明した喩えを私は他に知らない。騎手はダービーを勝つことによって、全く別の次元に昇華する。もしかすると、ダービーを勝つことによって得られる内的体験を求めて、人は騎手になるのかもしれない。

柴田善臣、石橋守、岩田康誠、四位洋文、福永祐一、幸英明、横山典弘ら、ダービーを勝つチャンスを胸に秘めた騎手たちは、果たして今夜は眠れるのだろうか。高田潤騎手はどのような思いで今夜を過ごすのだろう。これまで4勝をしている武豊騎手もまた、今夜は眠れないだろう。そしてあなたも、今夜は眠れぬ最高の夜を過ごすに違いない。


参考図書:「競馬学への招待」 山本一生 平凡社ライブラリー

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「G1勝利の方程式」

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ダンスパートナー、アグネスデジタル、スペシャルウィークと、数々の名馬を調教してきた白井寿明調教師による競馬論である。立命館大学を卒業後、白井調教師は競馬サークルに飛び込んだのだが、厩務員試験の面接で、「なぜ厩務員になりたいのか?」と聞かれ、「調教師になりたい」と答え、面接官に「ここは調教師の面接会場ではない」と言われた(?)異色の調教師である。

競馬論というよりは調教論というべきかも知れないが、さすが調教師と思わせる数々のノウハウが惜しげもなく公開されている。なによりも特筆すべきは、私たち競馬ファンにも分かりやすいアウトサイダー的な発想で競馬が語られていることである。気がついたら馬が隣にいたというような競馬サークルの人間とは違った感覚で、馬を調教することに向き合っているのが手に取るように分かる。

たとえば、休養明けの馬の仕上がりを見るポイントとして、

「10kg以上減ってたり、10kg以上増えてたりする馬はダメですね。(中略)ここで気をつけて欲しいのは、増減は必ずベスト体重と比較するということです。ベストが450kgだとして、レースを使い徐々に減って436kgで放牧に出した場合、460kgで復帰したらプラス24kgと発表されるわけです。でもベスト体重からはプラス10kg。そういう馬が人気にならずに勝ってしまうことがあります。」

と述べている。馬体重など見ないという調教師もいる中で、まるで馬券オヤジがモニターで馬体重をチェックするような視点で仕上がりを確認している。

そして、調教スタイルもまた、最近主流となりつつある「馬なり調教」とは一線を画している。

「軽い調教をやっていて厳しいレースを勝てるならそれに越したことはないけれども、そういうわけにはいかないのが勝負の世界ですから」
「やはり持ったままの調教で競馬に通用するかというと疑問ですね。我々の場合、厳しいレースに対応するにはハードなトレーニングが必要だと思うからこそ、あれだけの調教を課すわけです。かといって馬の競走生命が短かったかというと、そうではないと思います。」

「馬なり調教」に代表される馬優先主義が浸透しつつある中で、競走馬には強い調教が必要だとここまで言い切れる信念は見事である。もちろん、数々の大きなレースを獲ってきている実績と自信が大きな支えとなっているのだろう。実際に、上に挙げたダンスパートナー、アグネスデジタル、スペシャルウィークたちは、白井調教師によって厳しい調教を課されたからこそ、あれだけのG1タイトルを獲れたにちがいない。

さらに、白井調教師は血統通としても知られ、その実体験に基づいた血統論には説得力がある。特になるほどと思わせられたのは、スペシャルウィークの産駒は馬体が大きく出てしまうので、繁殖牝馬は小さい馬を選ぶべきという意見である。産駒の馬体が大きすぎて、脚元に負担が掛かるため、満足な調教を施せず、素質を引き出してやることができないという。

確かに、スペシャルウィーク産駒で活躍したシーザリオ(450kg台)、インティライミ(470kg台)ともに、コンパクトにまとまった中型の馬体である。それに対して、下級条件をウロウロしているスペシャルウィーク産駒を見ると、500kgを超える馬をよく見かける。また、たとえ大型馬でも、夏場になり絞れると走ることもあるという。字ヅラを見ただけでは分からない、これぞ本物の血統論である。

白井調教師の主観的な要素が強く出ている部分はあるが、全体的には、調教について余すところなく語られた良書である。いい意味でダビスタ的感覚を持ち合わせた異色の調教師に学ぶところは多い。

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「安藤勝己の頭脳」

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できればこの本だけは紹介したくなかった、というのが本音である。なぜなら、この「安藤勝己の頭脳」には、競馬の本質が、全く惜しげもなく、至るところに散りばめてあるからだ。おそらく、私たちアウトサイダーだけではなく、騎手、調教師等の競馬関係者が読んだとしても、かなり勉強になるのではないだろうか。もちろん、馬券へのヒントも多く隠されている。

「勝つためには勝つ気で乗らないこと」

全編を通して貫かれている安藤勝己の思想である。

たとえば、安藤勝己騎手と著者の亀谷敬正氏の間で以下のような対話がある(敬称略)。

亀谷 「京都芝1400mでトキオジュリアに乗って1着になりました(1999年10月31日鞍馬特別)よね? あのレースなんか、最初3番手につけていたんですけど、残り600mあたりで安藤さんだけが仕掛けを待っているんですよ、他の馬は仕掛けているのに。ちょうどあの時に、逃げ馬から1秒2離されているんです。ふつう、京都芝1400で勝ちたいなら、あの時点は仕掛けます。」

安藤
「ああ、覚えているよ。でも、あのレースも計算していたわけじゃない。トキオジュリアがあの時点で行く気がなかったから、行かせなかっただけ。」

亀谷
「でも、あそこで『行く気がなかったから行かせなかった』じゃ、コースのデータからは連対するのが難しいということになっていますが?」

安藤
「たしかにレースで勝ちたいなら、あの時点(残り600)で離されるのはイヤだよね。でも、トキオジュリアの場合、あの時点で勝つ気になっても仕方がない。あの時点で『勝とう』と思ったら、今度は逆にゴール前で伸びなくなるような気がしたからね。だから、あそこで『勝とう』とは思わずに、馬のリズムを優先したことで勝てたんだと思う」

亀谷氏の指摘するように、レース展開、コース設定、または馬場状態によって、ここで仕掛けなければならないというポイントは確かにある。しかし、安藤勝己騎手が言うように、それはその馬の走るリズムを崩してまでのことではなく、最優先されるべきは馬の走るリズムなのである。

大前提として、騎手は馬を気持ちよく走らせ、持てる能力を全て発揮させなければならない。そのためには、人間(騎手)が馬を動かすのではなく、馬のリズムに合わせて人間(騎手)が動かなければならない。つまり、そこで人間の『勝ちたい』という意識は邪魔になり、(自らは)何もしないという態度を貫かなければならなくなる

しかし、分かっていても、実際そのように乗れる騎手は少ない。ペースが遅ければ動いてしまうし、前に行く馬の手ごたえが良く見えれば焦って仕掛けてしまう。ほんのわずかでも、騎手が『勝とう』と思ってしまうと、馬は敏感に反応して動いてしまうのだ。勝つために乗っているのに、『勝とう』という意識を捨て去ることは常人に為せる業ではない

もしかすると、馬券も同じなのかもしれない。

「勝つためには勝つ気で賭けないこと」

うーん、難しい。

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「無痛化」する競馬予想界のゆくえ

「無痛化」とは、森岡正博氏(生命学者)によって提唱された概念であるが、今あるつらさや苦しみから、我々がどこまでも逃げ続けていけるような仕組みが、社会の中に張り巡らされていくことである

たとえば今、私はこの文章を、電気に煌々と照らされた、暖房の利いた暖かい部屋で、沸かしたてのコーヒーを片手に書いている。そして、この文章を読んでいるあなたも同じ。ほんの1世紀も前であれば考えられない光景である。寒ければ暖房のスイッチを押せばよく、暗ければ電灯を点ければよい。苦しみから我々が次々と逃げ続けるために、テクノロジーは発展し、文明が進歩したのは紛れもない事実である。文明の進歩とは「無痛化」の歴史に他ならない。

「無痛化」は、競馬予想界においても避けては通れない。「どうやって予想していいか分からず、馬券を外してお金を失う」というつらさや苦しみから手っ取り早く救ってくれる仕組みが、我々の周りのあちこちに転がっている(ように見える)。私の個人的な見解ではあるが、日本の競馬予想界における「無痛化」の先駆けは、1969年の柏木久太郎のコンピューター予想ではないだろうか。コンピューターを駆使した予想で的中率84%を標榜したが、いつの間にか消えていなくなった。その後、アンドリュー・ベイヤーによって「スピード指数」が発見され、西田和彦や石川ワタルもそれに続いた。それ以来、今に至るまで、科学文明の発展に歩みを合わせるように、~の法則、~理論、~システム、~値といった必勝法のゴールドラッシュの勢いは止まるところを知らない。

しかし、本当のところ、馬券で損をするというつらさや苦しみからは決して逃れることはできない。簡単で確実なはずの必勝法は、手にした途端、使い勝手の悪い、たまにしか的中することのないゴミと化す。たとえ的中しても、あまりにも買い目が多すぎて結果的にマイナスになってしまうこともあるだろう。それでも、必勝法は当った勝ったと大騒ぎする。これまでの負けを全て忘れ、水に流したと言わんばかりに。馬券で損をするという病に効く薬はないし、必勝法を生み出す詐欺師、それにすがる愚か者に付ける薬もない。

何よりも悲しいのは、競馬予想界の「無痛化」によって、我々が考えることからも逃げてしまうことだ。もし万が一、苦しみから次々に逃れて行くことの出来る必勝法があるとしても、その後に何が残るかというと、快楽、快適さ、安楽さしか残らない。するとどうなるかというと、当たって気持ちがいいけれどもよろこびのない予想になる。

必死になって考え、答えを導きだそうというつらさや苦しみから逃げてはいけない。よろこびは自分の頭で考えることでしか生まれない。競馬好きが100人いれば100通りの予想があるべきで、自分の予想が当たることも外れることもあるだろう。たとえ当たっても外れても、その予想が自分の頭で考えられたものであれば、そこには何ものにも代え難いよろこびがあるのではないだろうか。


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Gallop2005-JRA重賞年鑑-

gallop2005 4star

かなり昔から思っていたことなのだが、この内容でこの値段は安い!オールカラーでレース写真は綺麗だし、木村幸治らの「書き下ろしG1激走譜」も読み応えがある。おまけに特別付録まで付いている(今年はディープインパクトのカレンダー)。予想をする上でも非常に役立つので、通常のGallopは1年間保管後に捨ててしまうが、この「JRA重賞年鑑」だけは’89年版から永久保存している。

私が特に重宝しているのは、G1ごとのデータである。

「競走成績表」
「レース後の騎手のコメント」
「レースラップ」
「勝ち馬の血統表」

この4つを、目を皿のようにして見ることによって、レースの全体像が再び浮かんでくる。ここでレース映像を併せて観ることができればなおよい。この作業をG1全てのレースについて行っていくと、馬と馬がつながり、レースとレースがつながってくる。点と点がつながって、線になってくるような感覚である。これはやってみた者にしか分からない。

さらに、2004年版から「馬柱」が加わったことにより、そのレースの時に戻った気持ちで、もう一度予想をすることができるようになった。「今ならこう考える」、「今でもこのレースは当たらないなぁ」などと、下らぬシュミレーション(空想)をするのだ。

今年の年末年始も、このGallop「JRA重賞年鑑」を読み耽ることになるだろう。今年一年の悲喜交々が蘇ってきて、競馬を改めて復習することができる。また、感情的にならずに反省することができるため、気付かされることも多く、思わぬ発見があったりするのも嬉しい。


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「調教師伊藤雄二の確かな目」

itouyujitasikaname 5star

「調教師伊藤雄二の確かな目」という、この本のタイトルに偽りはない。著者である鶴木遵氏の力量もさることながら、馬を扱うプロからの視点で語られる競馬には、やはり確固たるものがある。取るに足りない馬券本が蔓延る昨今、競馬の本質を教えてくれる稀有の書物といってもよい。

二人の対話形式で頁は進むのだが、その真骨頂は伊藤雄二調教師のG1レース回顧にある。レースの真実を余すところなく語っていて、競馬の奥深さを感じざるを得ない。また、本質をズバリと突いた発言も大御所ならではのものであり、質こそ違え、故野平祐二氏に匹敵するほどの迫力を持っている。

いくつか例を挙げて紹介したい。

2005年の高松宮記念について 「プレシャスカフェは完全に仕上がっていました。しかし、スタートで出遅れ。挙句の果てにはそのまま一気に前に前にと動いて、ゴール前でいつもの伸びを欠いてしまった。一度もタメルことができなかった蛯名正義の騎乗は、やはり彼らしくないミス騎乗といわざるを得ません。」
→おっしゃる通りです!あれだけの稚拙な騎乗を批判しないマスコミは、やはりおかしい。「週刊Gallop」でレース回顧をしている柴田政人元騎手の、当たり障りのないコメントにはもう我慢できません。
2005年の桜花賞について 「吉田稔君は自分でレースを創るのではなく、そのレースに合わせてしまう。これはもうウィークポイントといってもいい」
→ちょっと厳しい意見ですね。吉田稔騎手にとっては、悔いても悔やみ切れないレースでしょうから。とはいえ、偶発的に見えたシーザリオが挟まれたアクシデントも、吉田稔騎手のウィークポイントがわずかな隙を創ってしまったものかも知れません。
2004年の天皇賞春について 「岩田君とかこれまでJRAの騎手でなかった小牧太君が2番手3番手につくと、必要以上に抑えすぎて落し蓋のような役割をしてしまうことがあるんです。天皇賞春を演出したのは、2番手3番手の馬だとボクは思うんです。」
→なるほど。そういう見方もあるんですね。有力馬(ネオユニバース、ザッツザプレンティ、リンカーン)が弱すぎて自分から動けなかった、と私は単純に解釈していました。勉強になります。
2002年の有馬記念について 「最初の4コーナーで急激にペースを落として、また向こう正面で急激にペースを上げるなんていうのは、王道の競馬ではないんです。佐藤君の騎乗は、ファインモーションを負かす騎乗ではありましたけど、シンボリクリスエスを負かす競馬ではなかったということです。ボクとしては欲求不満の残るレースでしたけど(苦笑)」
→これはかなり個人的な主観が入ってますね(笑)。そもそも、競馬に王道の乗り方なんてありません。佐藤哲三タップダンスシチーはあの当時は人気薄で、勝つためには奇策を弄するのも当然です。結果的にも、ファインモーションに先着していますし、あわやシンボリクリスエスを負かすかというところまでいきましたから。あれはあれで、最高の騎乗だったのではないでしょうか。

また、伊藤雄二調教師は自身が元騎手だったこともあり、騎手に対する温かい視線も忘れない。騎手を育てるのも調教師の役目のひとつであることを理解しており、日本競馬の全体のレベルアップを最も望んでいる調教師のひとりであろう。

ファインモーションをG1まで導いた松永幹夫騎手に対して 「一番大事な時期に乗ってくれましてね、一度として無理をさせることもなく、ちゃんと馬に競馬を教えていってくれた。ローズSでも、次にはユタカ君が乗る前提で乗ってもらいました。レース後に、『乗せてもらえて幸せです。いい経験をさせてもらいました。ありがとうございます。』と言ってくれたんですよ。すごい言葉です。この言葉だけでも、ミキオ君の人間性と人格を、ボクは見たような気がします。」
→平成17年天皇賞秋での、馬上で頭を下げる松永幹夫騎手の美しい姿がオーバーラップしますね。この言葉を言える松永幹夫騎手だけでなく、大御所になった今でもそういった機微を感じることのできる、伊藤雄二調教師の人間性と人格が垣間見えます。
10年ぶりに騎乗を依頼した藤田伸二騎手に対して 「元々いいものを持っている騎手なんですからね。31歳のいま、それに気付いたとしてもそれは少しも遅くはないんです。若いときに多少の無茶をしたり、あるいは人生経験の拙さから自分自身をいびつな木に育ててしまったとしても、ある瞬間に本人の危機感や自覚のハサミできちんと剪定し直したなら、一瞬にして素晴らしい木に変わるんです。」
→どこのものとも分からない若手騎手を、10年間も成長を願いながら見守り続けてきた、その大きさに敬服します。こんなトレーナーの馬に乗りたい、と思うのは当然のことですよね。

とにかく、全編を通して競馬の本質、魅力、奥深さが語られており、この本が4年の歳月を掛けて熟成されてきたというのも納得させられる。番外編としての、ディープインパクトを生産したノーザンファームの吉田照哉氏、そして騎手としての岐路に立つ横山典弘騎手との火花が散るような対談も見逃せない。もっと競馬を知りたいという人にとっては、極上のテキストになることは間違いないだろう。

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シービスケット

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「シービスケット」は原作も読み、その後に映画も観た。どちらが良かったかというと、圧倒的に原作である。当たり前のことだが、シービスケットを取り巻く登場人物たちの劇的で波乱万丈な人生は、2時間という映画の枠には収まりきらない。

シービスケットを筆頭に、片目が不自由な赤毛の騎手レッド、西部の自動車王ハワード、寡黙な調教師スミス、そして、個人的に好きだった“アイスマン”ウルフ、それぞれがそれぞれの人生を、泥臭いながらも徹底的に生きている。そんな徹底した泥臭さが、世界恐慌に苦しむアメリカ人の共感を呼んだというべき、実在のストーリーである。

とは言っても、私の場合、ほとんどこの物語に心を動かされることはなかった。500ページを超えるこの原作を読んだにもかかわらず、実のところ、ある一小節のサラブレッドに対する記述しか印象に残っていない。というよりも、その一小節があまりにも素晴らしかったため、原作の印象が薄れてしまったと言うべきか。

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サラブレッドは、神が創りたもうたもっとも素晴らしいエンジンのひとつだ。

六百六十キロにもおよぶ体重で、時速六十キロ以上のスピードを維持することができる。

もっとも敏捷な成年男子の能力をはるかに上回る反射神経を備え、一完歩で八・五メートルもの距離を進み、無駄のない動きでコーナーを回る。

馬体は重量感と軽やかさのパラドックスで、矢のようにやすやすと空を切ることができ、頭はたったひとつの命令にしか反応しない――走れ。

無比の勇気でスピードを追い求め、敗北や疲労をものともせず、時には骨と腱の構造的な限界をも超えて走り続ける。

飛翔中のサラブレッドは、自然界における、形態と目的のもっとも完璧な融合だ。
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これほどまでにサラブレッドの素晴らしさを表現した言葉を、私はかつて知らない。何度読み返しても、美しい描写である。この美しき詩を前にして、クドクドとした説明は不要だ。さあ、もう一度。

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「競走馬私論」 -その2-

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ゼンノロブロイのインターナショナルSは残念だったが、それでも藤沢和雄が日本一の調教師であることは疑いようがないだろう。これからも挑戦を続けてほしい。今回は馬のウォーキングについて。

第5章「馬が悪くなってしまう原因」より

競走馬にとって「きちんと歩く」ことは非常に大切である

(中略)

脚を引きずってデレデレ歩くのではなく、きちんと脚を上げてリズミカルに歩く。馬にもそういう歩き方をさせるのである。

これは普通の歩き方ではないから、馬に「歩く」という意識、あるいは緊張感が必要である。人に引かれて歩くときは常にそういう歩き方をするのだとしつけておくと、馬は精神的に強くなる。我慢が効くようになると言ってもよい。しかも、こうして歩いているときは、馬がそれに意識を集中しているので、急に暴れたりすることがない。

(中略)

競馬場のパドックでは、厩務員が出走馬を引いて歩く。このとき人馬ともに「きちんと歩いているか」を見るとよい。素質の高い馬で人気になっていても、きちんと歩いていない場合には、レースで気の悪さを出して―――ということが起きたりする。きちんと歩けない馬はきちんと走れないのである。

「きちんと歩けない馬はきちんと走れない」とは、まさに言い得て妙である。

パドックにおいて、私たちはついつい馬体を見てしまうが(見ても分からないにもかかわらず)、何よりも先に見るべきは馬の歩き方なのである。普段からきちんと歩く訓練をしていないと、パドックでもきちんと歩くことはできない。パドックできちんと歩けない馬が、レースに行ってきちんと走れるとは思えない。いくら素質が高く、能力に溢れていたとしても、人間(騎手)の指示に従わずに暴走してしまってはレースで勝利するのは難しいのである。

理想的な歩き方としては、首を下げて、トモ(後肢)を深く踏み込み、歩くことに気持ちを集中しているということ。これが意外と難しく、急に首を上げてみたり、小足を使ってチャカついてみたり、あたりをキョロキョロと見回してみたりと、オープンクラスの馬でもきちんと歩けない馬もいる。もちろん、上のクラスの馬ほどきちんと歩けるし、古馬の方が若馬よりもきちんと歩ける。きちんと歩けるということは、その馬の競走馬としての資質をストレートに表していると言えるだろう。

ましてや、パドックで順番に歩けない馬など論外である。パドックでは出走番号順に登場し、周回を重ね、そして番号順に退場していく。1番の馬の次は2番の馬で、その次は3番の馬である。そのように歩くのがルールなのだ。しかし、たまに1番、2番、4番というように、3番の馬が番号順の周回から外れてしまっていることがある。どこに行ってしまったのかと見回すと、一番後ろにポツンと付いて回っていたりする。他馬が後ろや前にいることを気にするのだろうか、それとも人間の言うことに従わないのだろうか。いかなる理由があろうとも、この3番の馬はきちんと歩くことができない馬である。このようにきちんと歩けない馬は、まずレースでも勝てない。

すでに自分が買ってしまった馬が、パドックできちんと順番に歩けていないと非常にがっかりしてしまう。この時点で、既にハズレに確定の赤ランプが灯ったようなものだ。いまだかつて、このような馬が好走した記憶がないし、案の定、凡走してしまったというケースがほとんどである。つまり、きちんと歩けないということは、それだけで馬券の対象から消す十分な根拠となりうるのである。


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「ツイてる!」 斉藤一人著

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競馬に役立てようと思って読んだわけではないが、「なるほど、これは競馬でも使えるかも」という箇所があったので紹介したい。あくまでも精神論としてではあるが。以下、二章「実力は人間の力、ツキは天の力」からの引用。

----------------------
「勝負強い人」というのがいるんです。そういう人は、たいがい、「自分はツイてる人間だ」と思っているんだ、ということです。ツキって、強いんです。実力よりも、ツキのほうが上です。なぜかというと、実力は人間の力だけど、ツキは天が与えるものだから。「あの人より私のほうが実力では上なのに。どうして私が負けるんだ?」と人は言うけれど、私に言わせると、負けて当然なのです。あの人とあなたの勝負ではないんです。あなたと天が勝負している。それで、たいがいの人は天には勝てないものなんです。
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ここまでハッキリと言われると、分かってはいても正直ドキッとする。つまり、いくら実力があっても、ツキがなければ勝てないということ。特に競馬の世界はそうだろう。ウン十年間馬券を買い続けているオッサンがかすりもしない馬券を、初めて馬券を買った女の子が的中させたりすることはざらにある。実力なんて所詮は人間の力であって、最終的にはツキという天の力を借りないと勝負には勝てないことは、競馬をやっていれば誰もが思い知らされる。

では、どうすると天からツキを与えてもらえるか?

この本の著者いわく、「いつも笑顔でいる」、「ツイてると言葉にする」、この2つを実践することが大切だそうだ。簡単なようで、難しい。馬券を買うまでは笑顔でツイてると言えたとしても、もしそれで外れてしまったらどうするのか。その後も、笑顔で「ツイてる!」と言える自信は、正直私にはない・・・。自分のひきつった笑顔が目に浮かぶ。

他にも、「売れるか売れないかよりも、笑えるか笑えないかが大事」や、「○×試験に何も書けないことが人生の大失敗」、「恐れをなくすと、壁はぶち破れる」など、馬券に役立ちそうな言葉が満載である。私流に読み替えると、「当たるか当たらないかよりも、その馬券を買って楽しいか楽しくないかが大事」、「何も賭けられないことが予想の大失敗」、「こんなに人気のない馬は来ないだろうと自分で限界を決めてはいけない」となる。

こんな風に自己啓発本を読むのは私くらいかもしれないが、汎用性のある精神論を、とにかく分かりやすい言葉で語っている良品である。競馬で「ツイてる!」と思えるかどうかはあなた次第として、ぜひご一読あれ。

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「競走馬私論」 藤沢和雄著

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一流の仕事人によって語られると、やはり中身の濃い、一流の書物が出来上がるものである。「競走馬私論」というタイトルのこの本には、競走馬論をはるか通り越し、教育書、ひいては哲学書として読まれてもおかしくないだけの内容の奥深さがある。

もちろん、かなり突っ込んだ調教論が展開されているため、馬券のヒントも所々に隠されていることは間違いない。流し読みするには勿体なく、小説家が小説を読むように、詩人が詩を詠むように、テキストに沿って解釈していきたい。

少々長くなるが、第2章における「馬は痩せていてはいけない」からの引用。

よくパドックの解説で「うっすらとアバラが浮いた、ギリギリの仕上げ」という言葉を耳にするが、私に言わせれば、やりすぎである。仮にそれでいつもより少しばかり速く走れたとしても(私は速く走れるとは思わないが)、そういう体で目一杯のレースをしたら、馬はそのあと、どうなるのか。そんな競走生活を、二年三年と続けさせられる馬は、はたしてハッピーだろうか。レースのときさえ速く走れれば、そのあとはどんな状態になってもよいという考え方には賛成できない。

(中略)

たしかにレースに出走する馬は、体が出来上がっていなければならないが、痩せていてはダメである。レースで勝ち続けるには、力強い馬体に、元気が満ちていなければならない。

まさに、これぞ藤沢調教論の本質である。藤沢調教師と、他の多くの調教師との間にある、たったひとつの大きな違いがここにある。目一杯に仕上げてしまうか、そうでないか、の違い。目一杯に仕上げてしまうことを、藤沢調教師は「やりすぎ」とする。

その後のことを考えずに100%に仕上げてしまってはいけない。肉体的にも精神的にもダメージを受けた馬は、次第に走ることが嫌になり、それを強いる人間に対しても反抗的になる。果たして、その馬の成績は尻すぼみとなり、競走期間は短いものとなる。

もちろん体が出来上がっていなければレースにならないので、80%程度の仕上げでコンスタントに競争に臨ませることになる。肉体的にも精神的にも、多少の余裕を持たせた状態で出走させるのである。馬に力があればそれでも勝てる。果たして、その馬の能力に相応しい成績を残すことができ、競走期間は長く充実したものとなる。私もこの調教法には大いに賛成である。

狙ったレースを勝つために、馬にギリギリの仕上げを施すことは、人間のエゴに他ならない。究極的には、馬にとっても、人間にとっても、マイナスの効果を生んでしまうことになるだろう。クラシック等の大きなレースを獲るために、人間の枠に当て込まれながら無理な調教を強いられ、成長を阻害されてしまったり、故障して競走能力を失ってしまったり、最悪の形としては死に至るサラブレッドがどれほど多くいることか。価値のあるG1レースを獲ろうとも、高額な賞金を稼ごうとも、その馬を傷つけてしまったり、未来を閉ざしてしまったり、その馬に期待する関係者やファンの夢を壊してしまっては元も子もないのである。

ところで、藤沢調教師が、何気なくひとつ重大な見解を示しているのにお気づきでしょうか?

先ほどの引用文の途中における、仮にそれでいつもより少しばかり速く走れたとしても(私は速く走れるとは思わないが)、という示唆。あくまでも私の主観ではあるがという形を取ってはいるが、『ギリギリに仕上げても馬は速く走れない』、とサラブレッド調教の根幹を揺さぶりうる発言を行っている。

なぜ根幹を揺さぶるかというと、ほとんど全ての調教師は、『鍛えれば鍛えた分だけ強くなる』という前提において馬に調教を施しているからだ。だからこそ、故障と隣り合わせの厳しい調教を馬に課すことになり、速く走るために必要な筋肉以外は全て削ぎ落とし、0,1秒でも速く駆けることのできる肉体を作り上げる。馬を壊さないギリギリのさじ加減の調教が最良の調教であり、それを実践して馬に結果を出させることが調教師の務めだと考える。もし万が一、鍛えても速く走ることができないならば、サラブレッドを調教するということの意味が問い直されなければならない。

しかし、私の結論から述べてしまうと、この良書を通じて、この点だけは唯一、私は藤沢調教師と見解を異にする。

「サラブレッドは鍛えれば(少しばかりは)強くなるし、ギリギリに仕上げると(少しばかりは)速く走ることができる」

あくまでも(少しばかりは)という括弧付きではあるが、その(少しばかり)が勝負の行方を左右することになるのだ。サラブレッドの競走は0,1秒を争うものであり、わずか鼻の差でレースの勝敗が分かれてしまうことは少なくない。相手よりも鼻の差だけでも前に出ることができれば、勝負に勝つことができる。そのわずかな差を埋めるために、(少しばかり)速く走ることが必要になるのである。

同じサラブレッドを80%に仕上げた時と、100%に仕上げた時で、一緒に走らせたと仮定すると、間違いなく100%に仕上げられた時の方が勝利を収めるだろう。最後のひと踏ん張りが違ってくるからだ。これまで、限界まで仕上げられたサラブレッドが激走するのを数多く見てきた経験からも、このことは自信を持って言える。たとえば、平成11年のNHKマイルカップを勝った時のシンボリインディは、ギリギリの仕上げであり、己の能力を極限まで出し切っての勝利であった(このレースでは、藤沢調教師の思惑に反して、シンボリインディが仕上がり過ぎてしまったのであろう)。

しかし、100%に仕上げられた方は、肉体的にも精神的にも大きな反動に襲われる。そのレースが最後であれば、それでいいかもしれない。2003年の有馬記念を勝って引退したシンボリクリスエスは、まさにこれが最後のレースといった渾身の仕上げであった(このレースでは、何が何でも勝つといった姿勢で、臨戦過程における調教の厳しさは、普段の藤沢調教師のそれとは明らかに異なっていた)。ほとんどのサラブレッドの競争は1回で終わるわけではなく、その後も続いてゆくものだ。目先の勝ちだけを追って、馬の成長や将来を考えない調教は、長い目でみるとマイナスの効果しか生まない。

藤沢調教師は、誰よりもそのことを身に染みて分かっている。だからこそ、たとえ仕上げてしまえば勝てるかもしれないレースであっても、ギリギリの仕上げを施すことなく、余裕を持たせて出走させる。我慢をすることができるのだ。だからこそ、藤沢調教師の管理馬は、故障が極端に少なく、高齢までコンスタントに走り続ける馬が多い。

大事に育てていけば、『夕鶴』じゃないけど、ウマの恩返しは必ずあると思います

こんなロマンチックなコメントも、藤沢調教師だからこそ許されるのではないか。

■「競争馬私論」その2へ→http://www.glassracetrack.com/blog/2005/08/__a837.html

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