「G1の勝ち方 サラブレッド金言108」

G1racekatikata

藤沢和雄調教師に関連した書籍や雑誌は全て読み、「ガラスの競馬場」でも紹介してきたつもりだが、この本だけはなぜかタイミングを逸してしまった。もったいぶっていたわけではなく、G1シリーズが始まってからと思っていたら、それ以外にも書くことが山ほどあって、机の上に積んだままになってしまっていた。お客様が来たら出そうと思って、大事にしまい込んでいたが、いつのまにか忘れてしまった高級なお酒に似ている(私はお酒を飲まないのでこの比喩が正しいかどうか自信はないが)。春まで待っているとまた同じことの繰り返しになるので、今度こそは思い切って紹介してみたい。

「G1の勝ち方 サラブレッド金言108」は、年間で22ある中央競馬のG1レースそれぞれについて、平均して5つぐらいの重要なポイントを抽出し、藤沢和雄調教師が自ら語るという内容になっている。無理矢理こじつけたようなデータでは決してなく、競馬ファンがG1レースの馬券を買う上で必要だろうと思われる知識をきっちりと説明してくれている。馬券で勝ちたいという下心で読み始めてもいい。いつの間にか、競馬やサラブレッドの奥深さに気づき、それらの本質に手が届くはずである。

全てというわけにはいかないが、せっかくなので、私の心に残っている金言を少しだけ紹介したい。

「牝馬は古馬になると下降線をたどる」

牝馬、牡馬を問わず3歳・古馬の混合戦は、古馬が圧倒的に有利だ。3歳馬は斤量が2キロ、3キロ軽いから…というレベルではない。古馬はタフだし、1年間、競走馬としてやってきたことはすごい強みだ。

しかし、牝馬の中には古馬になって駄目になってしまっている馬も多い。牡馬とぶつかって、もみくちゃになってしまっているからだ。牝馬にとって牡馬の古馬と戦うことは、とてもつらいことだ。牝馬と牡馬では威圧感がまるで違う。

最近は、ウオッカやダイワスカーレット、そしてブエナビスタといった強い牝馬が続々と出現しているため忘れられがちだが、牝馬にとって、牡馬の古馬と戦うことは大変厳しいことなのだ。身体の大きさや骨格も違うし、なんと言っても、精神的な威圧感がまるで違う。牝馬同士のレースだと好走するが、牡馬との混合戦では良いところがない牝馬は、牡馬と一緒のレースで走るときの厳しさに耐えられないことが多い。走る能力うんぬん以前の問題であり、常に威嚇されることで、レースに集中できなくなってしまうのだ。

そう考えると、長きにわたって牡馬の古馬と闘いを繰り広げた、ウオッカやブエナビスタの強さがより強調されるはずである。普通ならば、肉体的にも精神的にも揉まれて、燃え尽きてしまったり、萎縮してしまったりするところを、あれだけぶつかり合って、逆に相手をねじ伏せるようにして天皇賞秋などを勝ってしまったのだから凄い。同じように牡馬の古馬を相手に一歩も引かなかったエアグルーヴは、母としてその強さを余すところなく伝えている。おそらく、ウオッカとブエナビスタの芯からの強さも、時代を超えて伝わってゆくに違いない。

「札幌はタフでなければ勝てない」

北海道で使うというのは、もちろん涼しい気候が馬のためによいということだ。北海道へ移動してきたとたんに元気になる馬がたくさんいる。

気候だけでなく、競馬場もいい。札幌は芝で1500m、1800m、2000mとバリエーションがあるのもいいし、ヨーロッパの馬場に近いタフな馬場だから、本当に能力がないと勝てない。

古馬の強豪がそろう札幌記念で好走するようだと、秋はどこへ行っても通用する。

(中略)

ついでにいえば、札幌はごまかしが利かないので、騎手の技量も要求される。ここでのリーディングジョッキーは、「うまい騎手」といっていいだろう。

これに関しては、説明する必要もないだろう。昨年の札幌記念を勝利したトーセンジョーダンは典型的な例である。それまではG1レースのタイトルはなかったが、札幌記念を勝つや、天皇賞秋をレコードで制し、ジャパンカップでもブエナビスタの2着に食い下がった。ヨーロッパの馬場に近いタフな馬場で勝ち切れるような馬は、本物の能力があるということだ。だからこそ、人気の盲点にはなっていたものの、天皇賞秋のスピードレースにも対応できた。

また、2011年の札幌リーディングは池添謙一騎手であった。オルフェーヴルとの出会いはあったにせよ、昨年、特に夏から秋にかけての目を見張るような活躍は、池添騎手の技術が円熟の極みに達してきたゆえである。ごまかしの利かない札幌競馬場でのリーディングは、上手い騎手であることの証明であるのだ。

こう考えると、昨年の秋のG1シリーズにおける、トーセンジョーダンの激走や池添謙一騎手の跨ったカレンチャン、エイシンアポロンの好走までも予見できた気がするのは私だけだろうか。少なくとも、たった1つのヒントにこれだけの意味が込められていることは分かっていただけるはずである。

現在のランキング順位はこちら

| | Comments (2)

「ラップ思考だけで馬券が当たるメカニズム」

Rapsikou

テンが速く、中盤も上がりも速い、そんな競馬理論書である。最初の章(LAPTIME1)では、半笑い氏と夏目耕四郎氏のラップ理論の概要が各自で展開される。第2、3の章(LAPTIME2、3)では、Keiba@nifty上で行なわれた2人のレースに対する対話のまとめがあり、59この質問が彼らを待ち構えている。そして、最後の章(LAPTIME4)では、ラップタイムタイムの思考から日本の競馬に対する想いまでが対談形式で語られている。全328ページという長丁場にもかかわらず、読み手を飽きさせないのは、密度の濃いラップが刻まれているからである。

以下、私が読んで線を引いた部分を引用してみたい。

・中盤が速いレースを差し切った馬は、距離延長で更に前進しやすい(P11)
・多くの競馬場において1200m、1600m、2000m、という根幹距離では、スタート後の2ハロンが直線部分にあたるように設計されているのに対し、非根幹距離は2ハロン目が最初のコーナー途中にあることが多い(P51)
・(新潟直線競馬について)ラップバランスでいうと遅→速→やや遅→速→失速(遅)という5ハロンで、これはダート短距離(1000m~1200m)のラップバランスにそっくりなんです(P103)
・コースの起伏に対する理解とラップ分析は切り離せない(P113)

あくまでも個人的になるほどと思わされた部分なので、他の方が読んだら別の部分に線が引かれるかもしれないし、上の引用だけでは意味が分からないという方は、ぜひ手に取って詳しく読んでみてほしい。ラップの入門書ではないが、ラップに関して少しは知っているよという競馬ファンにとって、多くの学びがあるだろう。共著にありがちな、相手の手の内を探り合うばかりで、自分の手の内はさらさないといった不甲斐なさは微塵も感じられない。両氏、全力投球の1冊である。

最後に、「半笑い・夏目耕四郎を考える59の質問」の中のひとつ。

Q東京芝2000m。このドリームレースを制するのは?また、芝2400mなら?中山芝2500mでは?なお、ラップ的見地でも思い入れでも可とし、枠順、馬場状態は考慮しないものとする。

1、ヴィクトワールピサ
2、ウオッカ
3、エアグルーヴ
4、エルコンドルパサー
5、オグリキャップ
6、オルフェーヴル
7、キングカメハメハ
8、サイレンススズカ
9、ジャングルポケット
10、シンボリクリスエス
11、ダイワスカーレット
12、ディープインパクト
13、テイエムオペラオー
14、トウカイテイオー
15、ナリタブライアン
16、ブエナビスタ
17、ミホノブルボン

この質問に答えるにあたって正解はないという大前提と、1頭を選んだからといってその他の馬たちが弱いということではないという名馬たちへのリスペクトを持ちながら、競馬終了後のオケラ街道のおやじたちの会話のような気軽さで答えさせてもらいたい。

まずこの名馬たちの中には脚の速い馬が3頭いて、それらはディープインパクトとブエナビスタ、オルフェーヴルである。脚が速いとは、走るのが速いということ。つまり、トップスピード(最高速度)が並み居るサラブレッドの中でも抜きん出ているということである。こういう馬はどんな条件でも苦にしない(何といっても脚が速いのだから)ため、東京の2000mだろうが、2400mだろうが、中山の2500mだろうが、ほとんど関係がない。なので、あくまでも敢えて選ぶとすると、次のようになる。

東京2000m ブエナビスタ
東京2400m オルフェーヴル
中山2500m ディープインパクト

中山の2500mがディープインパクトであることは真っ先に決まった。ラストランとなった有馬記念を観れば、誰も文句はないだろう。最後の走りにして、最高の走りだったと思う。あの4コーナーで他馬を捲くっていくときのスピードは、サラブレッドとしては極限のものであった。あの時、外から観ていた私でさえ鳥肌が立ったのだから、ディープインパクトの背にいた武豊騎手は何を感じたのだろうか。おそらく誰にも説明できない未知の領域、新しい世界に足を踏み入れたに違いない。

東京2000mと2400mは迷ったが、牡馬と牝馬という性差を考慮に入れて、スタミナ面では一日の長があると思われるオルフェーヴルが2400m、最強牝馬として最強牡馬たちに太刀打ちできる距離としてブエナビスタが2000mとした。ただ、東京の2000mのことを考えると、1頭だけ、どうしても心に引っ掛かる馬がいる。サイレンススズカである。脚が速い3頭が最も苦手とする、肉を切らせて骨を断つタイプの馬であるからだ。サイレンススズカが最後まで走り遂げることができたとしたら、この馬を捕まえられる馬はいないのかもしれない。それは競馬ファンにとって永遠の謎だが、いつまでも謎のままにしておきたいと思うのだ。

現在のランキング順位はこちら

| | Comments (0)

京大式 推定3ハロン

Suitei3furlon

発売日にアマゾンで買い求め、「ROUNDERS」の取材で別海に行った途中の飛行機やホテルで読んだ思い出が新しい競馬本である。すぐに紹介したかったが、「ROUNDERS」の追い込みの時期と重なり、ここまで延びてしまったことを先にお詫びしておく。なぜかというと、この秋のG1レースも推定3ハロンの考え方で勝てたレースもあったのではないかと思うからだ。

「4角先頭馬」と「上がり最速馬」が見抜ければ競馬は勝てる、というサブタイトルどおりの内容である。「4角先頭馬」とは4コーナーを先頭で回った馬(ほとんどの場合逃げ馬)、「上がり最速馬」とはレースで上がり3ハロン最速をマークした馬(最も良く伸びた馬)のことを指す。2010年度のデータによると、「4角先頭馬」の単勝回収率が214%、「上がり最速馬」のそれが305%になる。つまり、4コーナーを先頭で回る馬、もしくは上がり最速の馬が分かれば、競馬は勝てるということになる。ここまでは当然と思われる方もいて当然である。

ではどうしたら「4角先頭馬」と「上がり最速馬」が見抜けるか、というところまで著者である久保和功氏は踏み込む。香港と違って日本の競馬は各馬のラップタイムが計時されない以上、前半の3ハロンについては独自で測定するしかないことに加え、レースが行なわれたコースや馬場状態など様々な要素の影響を考えると、各馬の前後半3ハロンの単純な比較は難しい。それでも、敢えて、独自の算出方法(古馬500万条件を基準とする)を用いて各馬の優劣をつけて予想につなげるのだから素晴らしい。この予想を個人レベルで行なうのは難しいはずで、餅は餅屋というか、「ハイブリッド新聞」内の推定3ハロンシートを使ってみるのが確かだろう。

個人的にはサイドストーリーも面白かった。特に競馬BARのくだりは、久保さんとご一緒したことのある「TURF BAR PADDOK」も紹介されていて、妙な懐かしさが蘇ってきた。そういえば、今秋の菊花賞の前の晩、競馬友だちを連れてTURF BAR PADDOKに脚を運んだところ、今日は一杯ですと丁寧に断られたのだった。それほど大きなBARではないので、あまり多くの競馬ファンに知られてしまうと、フラっと立ち寄れなくなるなあなんて思ったりして。でも、ぜひお近くにお住まいの方は訪ねてみてほしい。もしかしたら、この本の著者である気さくな久保氏に会えるかも。

現在のランキング順位はこちら

| | Comments (5)

「開成調教師」

Kaiseityoukyousi_2

かつて調教師によるこの手の本を読んだことがあったと思いきや、森秀行調教師の「最強の競馬論」であった。どちらの本にも、番組選びの大切さから、いかに従業員のモチベーションを高めつつ効率良く厩舎経営をしているか(するべきか)という、競馬論というよりは経営論が書いてある。バリバリのビジネスマンである著者も認めるだろうが、競馬ファンと同時に競馬関係者に向けて、自身と自厩舎の宣伝目的に書かれた本でもあるということだ。

それでも、せっかく読み始めたのだから、何かひとつでも競馬のヒントをもらいたい、と思うのが競馬ファンの常である。そう思って精読していくと、確かに矢作調教師ならではの競馬に対する突っ込んだ言及もあった。

そのひとつとして、手前を替えるかどうかは調教の重要なポイントだと述べている。手前がいつ替わったかを分かりやすくするために、矢作厩舎の馬は左右のバンテージの色を赤と白に分けているのだという。手前をいつ替えたかどうかを見極めるのは、競馬ファンにとって難しいことだが、まずは矢作厩舎の馬の調教を見てみることから始めてもよいかもしれない。

また、矢作厩舎の仕上げ方は、レースで叩きつつというスタイルを取っている。だからこそ、リーディング上位にもかかわらず連対率は低い。その辺りを考慮に入れつつ、私たちは馬券を買わなければならない。出走してくるレースで必ずしもキッチリ仕上げているわけではないので、どのレースを狙ってきているのかを見極めておく必要があるということだ。

競馬の存続に関する考え方には共感した。ひとりでも多くの競馬関係者が矢作調教師のように考え、行動してくれることを願う。少し長くなるが、矢作調教師のフェアな世界観が垣間見える部分なので引用させてもらいたい。

中央競馬の売り上げは毎年下がり続けている。大レースのたびに、「前年比何%減」という数字が報道されるのが、すっかり当たり前になっている。そんな状況に対して、どれだけの厩舎関係者が危機感を抱いているだろうか。 (中略) この世界で生きている以上、売り上げを意識するのは当然だと思う。なぜなら日本の競馬は、ファンの馬券の売り上げによって成り立っているからである。調教師になる以前の厩務員時代から、この考え方は一貫している。 (中略) すべての面での一本化。日本競馬が生き残る道は、これしかない。調教師や騎手の免許に関してもそうだし、馬主の許認可も競走馬の登録も一本化する。最終的に組織として一本化するところまで行けたら、これほど強いものはないだろう。 (中略) 自分の厩舎の経営のことだけを考えれば、地方競馬の優秀な調教師が入ってくるよりも、現状のままの方が楽に決まっている。しかし、競馬界全体のことを考えれば、そんなことは言っていられない。地方と中央の統合が正しい道だと思うし、そうなるべきだと思う。

もはや付け足す言葉は要らないだろう。競馬の売り上げ減は、短期的にも長期的にも、深刻な問題である。このままだと誰もが幸せにならないシステムの中で私たちは競馬を続けていかなければならない。なんとか逃げ切れる世代はよしとしよう。百歩譲って、今の幸せな日本の競馬を楽しめている世代もよしとしよう。それでも、もし私たちの次の世代に希望がないとすれば、誰が競馬を受け継いでいくのだろうか。私は自分の子供の世代にも、孫の世代までにも、競馬を語り継いでゆきたいのだ。

現在のランキング順位はこちら

| | Comments (2)

競馬が100倍面白くなる!

Keiba100bai

著者の大瀬良海図氏とは10年来の付き合いになる。といっても、面識があるわけではなく、10年にわたってずっと競馬について書き続けてきた仲間ということだ。私が「ガラスの競馬場」をブログに移行したのは、今から7、8年前のこと。まるで昨日のことのような気がするが、その時、すでに大瀬良海図ことガトーさんは「競馬ブログ オケラセラ」を始めておられた。その圧倒的な情報収集能力に感心し、競馬界を鋭く切り取る筆致に嫉妬したこともある。偉大な先輩に追いつかんと書き続けてきた結果、今の「ガラスの競馬場」がある。そして、ガトーさんは1冊の単行本を上梓された。

「競馬が100倍面白くなる!」は、本当に競馬が100倍面白くなる本だと思う。何倍かは個人差があるので、少なくとも数倍はとしておくが、この本を読んで競馬が面白くならないはずがない。競馬をひとつの小説やドラマととらえるならば、そこに登場する騎手や馬主や調教師は登場人物であり、個性溢れる彼ら彼女らは時に主役となり脇役となり、縦横無尽にストーリーを盛り上げる。たとえ馬が主役だとしても、私たちが競馬を楽しむためには、登場人物の背景を知らなければならない。脇役を知らずして、小説やドラマが面白いはずもない。

舌鋒鋭く、読んでいるこちらがヒヤヒヤしてしまう部分もあるが、読み終えた後には、彼らが愛おしくなってしまうから不思議だ。もし不快に思う登場人物がいるとすれば、よほど懐が狭いか、日本語が分からない人だろう。それぞれに愛情を込めて描いているからこそ嫌味がない。どんな人間にもマイナスとプラスがあって、それらが絶妙なバランスを保ちながら、ひとりのかけがえのない人物として存在する。そんな当たり前のことが、ガトーさん、いや大瀬良海図さんの筆にかかると浮き彫りになる。

個人的には、オレハマッテルゼの名づけ親である小田切有一氏の所有馬「オダギラー」の話に笑わせてもらい、G1出走を巡ってネットが炎上した小島茂之調教師のドラマにこころ躍り、裁決制度の崩壊については考えさせられた。全編にわたって、軽く読めてしまうのに、内容は深い。久しぶりに最後まで読み通せた競馬の良書であった。

■「競馬ブログ オケラセラ」はこちら
Okerasera

現在のランキング順位はこちら

| | Comments (2)

「優駿の門アスミ」

Yushunnomonasumi01_2 Yushunnomonasumi02_2

赤見千尋さんのことを知ったのは、つい最近のこと。昔から存在は知っていたのだが、本当の意味で彼女の書いた文章を読んだり、出演されている番組を観たり、過去に騎乗したレースを観たりしたのが最近ということだ。そう、赤見千尋さんは高崎競馬の元ジョッキーであり、現在はグリーンチャンネルのレポーター、そして漫画「優駿の門アスミ」の原作者でもある。

彼女の書く競馬についての文章は素晴らしい。初めて読んだのは、騎手養成学校時代の話。甘いものが食べたくて仕方がなかったことを、女性ならではの視点で書かれていて面白かった。次に読んだのは、武豊騎手が1番人気のオグリローマンに乗って負けたことが衝撃で騎手を目指そうと思ったこと。そして、いつか小島貞博騎手のような涙をいつか流したいと願い続け、現役最後のレースでそれが叶えられたこと。また、福永洋一記念についての心温まる話。どれも自身の騎手時代の経験を生かして、かといって気取らない筆致で語られていて、惹き込まれてしまうのだ。

おっと、「優駿の門アスミ」に話を移そう。その赤見千尋さんが原作を担当されている漫画が面白くないはずがない。主人公は騎手になって5年目となる黒崎アスミ。今年はまだ0勝だが、男社会の中で奮闘中である。タテガミに触られることを極端に嫌がるヒメや、左目が見えないためレースで謎の暴走をしていたハクギン、母親に愛されるために体を汚していた芦毛のネイルクイーンら、なんらかの原因で勝てなかった馬たちを、女性騎手としてのアスミが支えることで勝利に導く物語である。漫画ゆえに読みやすく、競馬ファンはもちろんのこと、競馬を知らない方でも楽しめるはず。これから先の展開が楽しみでならない。


現在のランキング順位はこちら

| | Comments (0)

おすすめの競馬映画

今となっては滅多に映画館に足を運ばなくなってしまったが、学生時代には劇場公開されている映画はほとんど全て観ていたほど映画が好きだった(それだけ暇だったということでもある)。「アンタッチャブル」、「フィールドオブドリームス」、「ショーシャンクの空に」、「レナードの朝」、「ファイトクラブ」など、大好きな映画を挙げると、かなり昔のものばかりになってしまう。

もちろん、大好きな競馬の映画「のるかそるか」もかなり古い映画である(1989年製作)。タクシー運転手である主人公が50ドルを元手として単勝を転がして、遂には6万9000ドルに膨れ上がり、最終レースで大勝負に挑むという競馬ファンの夢の1日を描いたコメディである。最後のレースで、競馬ファンが自分の行いを神に懺悔しながら、祈るように応援するシーンが印象的。競馬ファンなら絶対に大満足するおすすめの1本である。

ところで、つい先週、「雪に願うこと」という競馬映画の最高傑作に出会ってしまった。原作である「輓馬(ばんば)」(鳴海章・著)を映画化したもので、競馬とはいってもばんえい競馬が舞台である。映画は原作には勝てないと考えている私の予想を見事に裏切ってくれた。さすがに東京国際映画祭で4冠を獲得しただけのことはある。佐藤浩市、小泉今日子、吹石一恵、香川照之、津川雅彦、伊勢谷友介など、力量ある役者陣による抑えた演技がグッとくるだけではなく、何といっても、北海道を舞台とした映像と伊藤ゴローがギターで奏でる旋律が美しい。月並みな言い方だが、競馬ファンなら必見の映画であろう。週末に時間のある方は、ぜひTSUTAYAでDVDを借りて観てみてほしい。

もうひとつ、これから観てみたい映画について。先日、ハイランド真理子さんから聞いて、「Secretariat-trailer」というディズニー映画がどうしても観たくなってしまった。アメリカの名馬でありヒーローであったセクレタリアトと、その周りの人間たちを描いた映画である。確か日本の劇場で予告編として観たことがあるのだが、その後、公開されるという情報は入ってこない。テレビ局が作成したような映画が主流になっている日本映画界にとって、たとえディズニーであっても、ターゲットを限定してしまいそうな競馬映画の配給は難しいのだろうか。アメリカでの公開直後の興行収入は、現在日本で公開中の「ソーシャルネットワーク」が1位だったのに対し、この「Secretariat-trailer」は3位だったというから悪くない。良質な競馬の映画を観たいと切に願う。


関連リンク
「ガラスの競馬場」:輓馬(ばんば)

現在のランキング順位はこちら

| | Comments (4)

「競馬の血統学2」―母のちから―

Keibakettougakuhaha 3star

我が家の4歳になる息子が、幼稚園の門から教室まで、ようやくひとりで歩いて行けるようになったそうだ。門のところで別れを告げると、そこからは1度も振り返ることなく歩いてゆく。たくましくなったと思いきや、その理由を尋ねると、「振り返ると悲しくなっちゃうから」。まるで今生の別れのようだが、1日の大半を母親と過ごしているのだから、当然といえば当然か。この神話的な時間―母と子の関係において最も幸せな時間―を通して、人の未来が形成されてゆくのだろう。

何が言いたいかというと、子を育てるのは母のちからが大きいということ。圧倒的な時間を母親と過ごすことによって、絶対的な愛情や献身を知る。将来、あとひと踏ん張りが必要なとき、そのことはある風景として蘇ってきて、後押しをしてくれるに違いない。悲観しているわけでも楽観しているわけでもないが、そこに父の影響は少ないのだろう。サラブレッドも同じなのではないか。アドマイヤグルーヴ、フォゲッタブル、ポルトフィーノ、ルーラーシップ、グルヴェイグ、父は違えどもよく走るエアグルーヴの仔たちの活躍を見ると、血統における母系の重要性はますます確信に変わる。

前置きが長くなったが、吉沢譲治氏による「競馬の血統学2」―母のちから―は、父系を中心に論じられた前作と違い、母系だけに焦点を絞って書かれている。血統の大家であるルドルフおやじさんは、「父系はスポーツ、母系は文化」と語っていたが、そういう観点からいうと、この「競馬の血統学2」―母のちから―は、競馬の文化について書かれた血統書であるということになる。この本全体について語ることは、競馬の文化すべてについて語ることに等しく難しいので、9章ある中の1章「母の記号 ファミリーナンバー」について、今回は紹介してみたい。

ファミリーナンバーは、ブルース・ロウというオーストラリア人によって提唱された。それまではサラブレッドの父系ばかりが着目されていたが、ブルース・ロウは「ジェネラル・スタッド・ブック」を過去にたどってめくりながら、根幹牝馬ごとに分類整理し、そこから広がった母系をファミリーと名づけた。そして、3大クラシックを勝った馬の数が多い順に、1~43番までの番号をつけていった。大海に漂う母系を43種類の数字で表してしまったのだから、その当時の人々が受けた衝撃は大きかった。

さらに研究を進めたブルース・ロウは、1号族から5号族までに3大クラシックの優勝馬が目立ったことに気づいた。そこでこれらのファミリーを「競走族」(ランニングファミリー)とした。また、有終な種牡馬を出している3号族、8号族、11号族、12号族、14号族を「種牡馬族」(サイヤーファミリー)とし、それ以外を「局外族」(アウトサイドファミリー)とした。これがブルース・ロウの「フィガーシステム」である。

ちなみに、エアグルーヴを起点として、母、祖母、曾祖母、4代母と辿ると、ダイナカール→シャダイフェザー→パロクサイド→Feather Ball→Sweet Cygnet→Sweet Swan→Swieteniaとなり、最後はBustler Mareという根幹牝馬に行き着く。ファミリーナンバー8番であり、日本では8号族と呼ばれる「種牡馬族」である。同じ種牡馬族には、あのサンデーサイレンス(3号族)、スペシャルウィーク(3号族)、サクラユタカオー(11号族)、グラスワンダー(12号族)、ノーザンテースト(14号族)らがいる。種牡馬族であるエアグルーヴが、まるで種牡馬のように大物を量産しているのを見ると、ブルース・ロウのフィガーシステムの深遠さを感じざるを得ない。そんな風にして、母の存在を楽しめると、競馬はさらに楽しく、奥深く、文化の香りが漂ってくるのである。

現在のランキング順位はこちら

| | Comments (8)

「競馬学の冒険」

Keibagakunobouken

前作「競馬学への招待」は、かつて付き合っていた彼女にフラれ、終電に間に合わず、東武東上線のとある駅のバス停のベンチに座って、ひと晩かけて読みつくした思い出がある。ずいぶんと雨が降っていたので、本の端が濡れてしまい、波を打ったような形で私の手元に残っている。10年以上前の出来事なので、あの日の涙が本を弛ませてしまったのでは、と今では錯覚してしまう。

それに比べて、この「競馬学の冒険」は、どこでどんな心境で読んだのか、全く覚えていない。綺麗なままで書棚に並んでいるのだが、エッセイごとのタイトルだけは、しっかりと私の胸に記憶されている。「エッチンゲンのめまい」、「をみなごたちの春」、「競馬場のカストラート」など。ある一定のリズムを持って私に迫ってくる。華やかな競馬のほんの少し後ろに、馬と人の哀しき物語があることを、それぞれのタイトルが語りかけてくるのである。哀愁という言葉を使うのが適切かどうか分からないが、山本一生氏の競馬学には哀愁が溢れていて、読了後には、いつも深く心が動かされている。

そんな競馬エッセイの中のひとつ、「ワンダーランドの昨日、今日、明日」の中に、競馬にまつわる犯罪について書いてある。最近では、日本の国技である相撲でも、あらゆる犯罪や不正が発覚して問題になっているが、競馬の世界でも全くそういうことがなかったわけではない。むしろ、世界の競馬を見渡してみると、あの手この手を使った犯罪や不正が行われてきたと言ってもよい。

4コーナーの引き込み線からスタートして、走ることなくそのまま待機して、後続の馬たちの足音が聞こえてから走り出した「霧の騎手事件」。馬の鼻にスポンジを詰めて競走能力を低下させ、レースで負けさせようとした「スポンジ事件」。英ダービーを10馬身差で勝ったシャーガーが誘拐されて、身代金が要求された「シャーガー事件」。馬房の中で右の後ろ肢を骨折しているところを発見され、安楽死の処分がとられてしまった「アリダー事件」などなど、枚挙に暇がない。

しかし、と山本一生氏は論を展開する。これら大きな犯罪は、全て海の向こうで行われてきたものであり、これほど競馬の盛んになった日本において、競馬にまつわる犯罪がほとんど目に付かないのは驚くべきことであると。

競馬犯罪がまったく存在しないのか、犯罪は行われているが発覚しないだけなのか、あるいは発覚しているが報道されることなく闇に葬られているのか、私たちにはそれさえもわからない。ただ、報道されないなら競馬ジャーナリズムが犯罪的だし、発覚しないなら取締機関が犯罪的だし、存在しないなら社会そのものが犯罪的となる。もちろん、社会そのものが犯罪的とは考えたくはないので、やがてそのうち、どきどきするようなワンダーランドが、わが国の競馬の世界でも見られるのではないだろうか。

山本一生氏がそう指摘してから、シンコウシングラー事件や田原成貴元調教師の小型発信機装着事件などが起こったが、いずれにしてもスケールの小ささは否めない。どちらかというと、問われたのはJRAの対応の甘さであった。それは競馬ムラを作り、徹底的な管理競馬を強いて不祥事を起こさせなかったことと表裏一体の関係にある。犯罪や不正は防げても、本来であれば淘汰されるべき者が依然として残り、時として、可能性や才能のあるホースマンたちの芽を摘んでしまう。そこに民主主義はない。

そもそも競馬で八百長をして金を儲けることが現実的ではないのは、馬を走らせなくする(引っ張る)ことは簡単だが、走らせることは難しいからということに尽きる。自分が負ければ相手が勝つことになる相撲とは違うのだ。相撲協会を他山の石として、もうそろそろ、JRAも成熟する時期に来ているのではないだろうか。


関連リンク
サラブNET:「競走馬の耳に発信機、田原調教師の処分・管理競馬のゆがみ映す」

現在のランキング順位はこちら

| | Comments (0)

「元競走馬のオレっち」

Oretti

オレっちは元競走馬であり、今は乗用馬である。だから、正確に言うと、競馬マンガではなく、乗馬マンガなのだが、この設定が面白い。競走馬としては未勝利に終わったオレっちが、競馬場から乗馬クラブに移ってくるところから物語は始まる。

父と母のいずれもがG1ホースという超がつく良血であるオレっちも、乗用馬としてはただの新米にすぎない。最初は競走馬のプライドを捨てきれずに、担当のもやし先生にも抵抗する。しかし、心優しきもやし先生にいつの間にか信頼を寄せるようになったオレっちは、乗用馬としての立ち振る舞いを少しずつ身に付けていく。かつては前にいる馬な何が何でも抜かせと教えられていたが、今はどんな状況でも落ち着いてゆっくり歩くことを求められる。戸惑いながらも、栗毛くんやデカ女などの仲間たちに勇気づけられて、1歩1歩成長していく姿が愛おしい。

そんなある日、オレっちは競技会に出場することになる。競馬好きが高じて乗馬を始めることになったウズマキさんを背に、オレっちは緊張しながらも、次々と障害を飛んでゆく。最終障害を飛び終えた後、ウズマキさんやもやし先生に喜ばれ、褒められ、競走馬時代には味わったことのない充実感を味わったのだった(このシーンが結構好き)。

しかし、喜びもつかの間、乗馬クラブに戻った翌日、オレっちの脚元に異変が起こる。競技会で無理をしたのが良くなかったのか、脚と腰を痛めて、全治1年と診断されてしまったのだ。何もしない馬を1年も置いておく余裕は乗馬クラブにはもちろんなく、オレっちは出ていかなければならなくなる。その行き先は…。暗雲漂うラストの結末は、マンガを手にとってのお楽しみに。

マンガとマンガの間にある馬コラムも、思わず笑ってしまうものから、深い感動に包まれるものまで多彩である。個人的には、著者が牧場で働いていた経験から描いた、馬房掃除のときの馬のタイプが面白かった。「怒るタイプ」、「超気遣うタイプ」、「我関せずタイプ」、「かまってタイプ」、「セクハラタイプ」があるという。また、友人の馬の最後に立ち会った話や放牧を主張しない親子の話など、人間も馬も同じ生きものなのだと改めて思わせられる。

読み終わった後、馬の体温が感じられて、もっと馬が好きになった。


■ブログ「おがわじゅりの馬房」はこちら
Ogawajyuri
著者のおがわじゅりさんはブログを持たれていて、これがまた面白い。
こんなイラストが描けたらいいなあと羨ましく思えるほど、じゅりさんの描くサラブレッドは表情豊かで可愛いのだ。

現在のランキング順位はこちら

| | Comments (6)

「血と知と地」

Titotitoti

この本を読んだ頃のことを、今でもまざまざと思い出すことができる。社会に出たばかりの私は、自宅からずいぶん遠い職場に通うことになり、文句ひとつ言えずにいた。渋谷から地下鉄に乗り、1時間近くウトウトと眠り、さらにバスに乗って職場に赴くという、往復4時間の通勤であった。行きも帰りも、バスの座席に腰を下ろすや、「血と知と地」を鞄から取り出し、しばし読み耽った。平凡で退屈な毎日の中で、この束の間だけは、競馬に対する情熱を感じられる幸せな時間であった。

あれから11年振りにこの本を読み返してみて、吉田善哉氏の競馬に対する情熱を改めて思い知らされた。最後の1ページをめくり終わると、社台ファームの繁栄がここにあり、彼の存在なくして今の日本の競馬は語れないことが分かる。本人の言葉を通して見事に物語られているため、偉大なホースマンではあるが、それ以上に人間臭い、吉田善哉がまるで隣にいるように感じられてしまう。彼の競馬に対する情熱や仕事熱心さ、欲、ハッタリ、そして駄ジャレが、いつの間にか私を取り囲んでしまうのだ。

吉田善哉と著者の吉川良のこんなやりとりがある。

「人は夢という言葉を使うのが好きだがね、夢という言葉ぐらい、いいかげんな言葉はないね」
「どうしてです?」
「わたしは夢を持たないね。夢というと、たいていは、いい夢と考えるがね、実際は悪くころがって身動きがとれなくなるものだ」
「夢がダメとなると、何を持ったらいいんでしょうかね」
「欲だよ」
「欲だって悪くころがる」
「夢と欲じゃ大違いだ。わたしははっきり区別しているね。この2つをごちゃごちゃにしちゃダメだ」
「ぼくには夢もないし、欲もない。そういう人間はどうしたらいいですかね」
「酒を飲むしかないだろう」

「人間は夢を持たなくてはダメだよ」などという言い回しを吉田善哉は嫌った。「私を吉田ゼニヤと揶揄するやつがいるが、吉田ヨクヤと呼んで欲しい」と冗談も言った。夢という理想ではなく、欲という現実的な野心を持ちがなら、何ごとも自分でやっていく人だったという。日本在来のビューチフルドリーマー、アストニシメント、フローリスカップなど出来上がった立派な血を使うこともなく、テスコボーイやネヴァービートという流行に乗ることもなかった。

ただひたすら血統の勉強をしながら、世界のあちこちを歩いた。農地解放から土地を守り、土地を買い集め、耕した。とにかく強い馬を出すことに心血を注いだのだ。もちろん、全てが順風満帆だったわけではない。キーランドのセリにて60万ドルで競り落としたワジマが走らなければアウトだった、と次男の勝己は言う。しかし、ワジマは走ったし、ノーザンテーストはリーディングサイヤーとなり、サンデーサイレンスも手に入れた。

単行本で485ページというこの本の厚さは、吉田善哉の競馬に対する情熱の熱さだと私は思う。読みやすい量にまとめようと思えば出来たはず。それでも、敢えてそうしなかったのは、馬、社台、吉田善哉、そして競馬が、そうやすやすと理解されるわけにはいかないという著者・吉川良の良心が働いたからではないだろうか。薄っぺらい馬券本ばかりを読んでいる私たちに、この本は競馬に対する情熱を問うているのである。暑い夏に負けないよう、あなたの競馬に対する熱さをぶつけながら、ぜひ読んでみて欲しい。

現在のランキング順位はこちら

| | Comments (0)

「安藤勝己の頭脳 名牝騎乗論」

Andoukatuminozunou03 4star

競馬を知り尽くした百戦錬磨のジョッキーに馬券を極めようとする天才がインタビューすると、馬券本ながらもこれだけ奥の深い内容になる、というお手本のような書である。シリーズ前著、前々著についても述べたが、安藤勝己騎手から競馬の本質を引き出し、核心を突こうとする、亀谷敬正氏の手腕にはいつも敬服する。

個人的に気づきがあった部分や馬券のヒントになりそうな頁に付箋を貼る習慣が私にはあり、この本にはなんと9個の付箋が付いた。せっかくなので、そのひとつをここに紹介したい。

ひとつはダイワスカーレットが勝った2007年の桜花賞について。1番人気のウオッカの追撃を振り切って、ダイワスカーレットがチューリップ賞の借りを返したレースである。レース後に勝因としてよく挙げられた、「チューリップ賞はウオッカが来るまで待ってから追い出して、瞬発力勝負になってしまったので、桜花賞は持続力勝負に持ち込もうとして早めに動いた」という意見に、当時の私は戸惑いがあった。レースを観る限り、チューリップ賞と桜花賞ではそれほど大きな動きの違いはなかったように思えたからである。

亀谷
「結果的に桜花賞と同じ時計でしたが、パフォーマンスを上げたのでしょうか?」

安藤
「それはあると思います。チューリップ賞よりも少し時計の掛かる馬場だったことを考慮すると、それより走っている印象はあります。チューリップ賞では同じような流れでウオッカに勝負所で並ばれたわけだから、そのあたりも全然違いましたよ。ただ、その時も追い出してからはまだ差し返すようなところがありました。だから、持久力勝負の追い合いになれば5分以上かなというのがあって、そのあたりを意識して動いてはいます。実際には大きく乗り方を変えたつもりはありませんが」

亀谷
「チューリップ賞よりも、相手を待たずに追い出したということですか?」

安藤
「それはよく言われるんですが、本当に気持ち程度です。それよりも、チューリップ賞は逃げる形で馬が力んでいたけど、3番手で走った今回はリラックスしていましたからね。それでも1馬身半ほどの上積みがあったわけではないと思うんですよ」

このやりとりを読んで、私は少し安心した。「チューリップ賞では瞬発力勝負になって負けたから、桜花賞では持続力勝負に持ち込んで勝った」という単純化された方程式を、安藤勝己騎手がやんわりと否定してくれたからであろう。曖昧なことを言っているように見えて、実はダイワスカーレットがチューリップ賞よりも仕上げられていたこと、同じようなラップでもチューリップ賞は逃げる形で力んでいたこと、ウオッカが前走ほどのパフォーマンスをしなかったことなど、様々な要因が重なり合っての勝利だったと教えてくれているのだ。競馬はそんな簡単なものではないよ、と言っているようでもある。

競馬は難しいけど、だからこそ楽しい。

あなたはこの本にいくつの付箋を貼るだろうか。

現在のランキング順位はこちら

| | Comments (82)

<京大式>パドック入門

Kyoudaisiki 4star

「パドックでは馬の脚元を見よ」と著者の久保和功氏は言う。私はパドックでは気配を見るべきだと考えているが、もちろん脚元も見るに越したことはない。ここでいう気配とは、馬の仕上がり具合や踏み込みの深さから精神状態まで、あらゆる要素をひと言でまとめたものである。そこには多かれ少なかれ個人の主観や直観が入ってくる。だからこそ、時には正しく、時には大きく過つ。しかし、馬の脚元を見ることは、知識や経験を必要とするが、極めて客観性が高い。だからこそ、本気でパドックに立ち続ける気があるならば、馬の脚元も見るべきなのだ。

第2章では、「ソエ」、「骨瘤(こつりゅう)」、「蹄鉄」、「裂蹄」、「エクイロックス」など、馬の脚元を見るにあたってのポイントが、具体的な事例と併せて紹介されている。たとえば、「ソエ」はパドックで横から脚元を注意深く見ると、ポコッと管骨(膝と球節を結ぶ骨)の前面が膨れているのが分かるという。初戦は腫れが確認できない場合でも、一度実戦を経験することにより、「ソエ」が大きく腫れあがることもある。これから夏競馬に入り、特に若駒の新馬戦や2戦目は要注意ということである。私はソエが出ている馬は、調教とセットで確認することにしている。「ソエ」が出ている=走らない、ということではなく、「ソエ」が出ているので調教が満足に行えていない馬は、やはりレースでも凡走することが多いからだ。パドックで「ソエ」が出ていて、なおかつ調教の軽い馬は消しである。

個人的には、メイショウサムソンがパドックで大外を周回している時は買い、という見方は面白いと感じた。気合乗りが良く、前進意欲に満ち、踏み込みがしっかりとしている馬であれば、自然とパドックで歩くスピードも速くなる。パドックでは順番に歩かなければならないため、歩くスピードの速い馬はなるべくパドックの外側を歩き、遅い馬はパドックの内側を歩くことで調整する。この見方を著者は他馬とのヨコの比較ではなく、メイショウサムソンの他のレースとのタテの比較をしたのである。メイショウサムソンの調子が良い時ほど、パドックで外を回しているということである。このように、パドックに立ち続けることで、見えてくることは数知れないだろう。

また、「腰が甘い」馬をパドックで見つけるポイントも大変勉強になった。そのポイントとは、トモが流れるということで、「腰が甘い」馬は後肢の蹴る力が弱く、それがパドックでの歩様にも表れるということだ。具体的には、前肢の動きに後肢がついてゆかず、後肢に重心が残ったままになるような歩き方のことだ。さらに腰を落とすように突然つまずく馬も、「腰が甘い」馬であることが多いという。「腰が甘い」馬は、阪神や中山競馬場など急坂のあるコースで伸び切れないことが多く、消しのひとつの材料になる。たとえば、スイープトウショウは「腰の甘い」馬で、だからこそ直線が平坦な京都競馬場に良績が集中したのだ。

最後にひとつ。パドックで馬を見て、予想することにチャレンジしたことのない競馬ファンは皆無であろう。パドックには何か答えのようなものがあるという本能が、私たちをパドックに導く。そして、ある者は答えを見出せないままそこを去り、ある者はいつしか答えを見出さんとそこに立ち続ける。本書はパドックに立ち続けた著者が、これからパドックに立たんとするチャレンジャーたちに、そのエッセンスを伝えようとする入門書であり、応援の書でもある。

追伸
ご存知の方も多いでしょうが、著者の久保和功氏は「ハイブリッド競馬新聞」という新しいタイプの競馬新聞を発行されています。数年前、この「ハイブリッド新聞」が出てきた時には、これ以上の馬柱はあり得ないなと思わせられました。それほど完成度が高かったのです。それ以来、大きなレースの馬柱が頭の中に入っている私ですが、馬柱が必要なレースにおいては私もこの「ハイブリッド新聞」を活用させてもらっています。無料公開レースもあるので、まだの方はぜひ使ってみてください。

ハイブリッド競馬新聞はこちら↓
Kubovsakagi

現在のランキング順位はこちら

| | Comments (2)

「ラップギア種牡馬系」 

Lapgearsireversion 4star_2

ご存知「ラップギア」の進化編である。続編とすべきか進化編とすべきか迷ったのだが、前作における課題が見事にクリアされているのだから、勝手ながらも進化編と銘打たせて頂いた。その課題とは、ラップギアだけでは勝ち馬が絞り切れないレースがあるということだった。たとえば、瞬発戦になりやすいレース(コース)には瞬発馬が集まりやすいということである。シンプルさゆえの弊害に過ぎないと私は思っていたのだが、なんと今回の「ラップギア種牡馬系」では、種牡馬というファクターを用いて、さらなる絞込みが行われているのだ。これを進化と言わずして何と言おう。

イメージとしては、ラップギアという白いキャンバスに、これまでは血統論者だけの領域にあった種牡馬というカラフルな絵の具をぶちまけた感じだ。その結果、ラップギアと種牡馬(血統)の世界との和合性が見事にあぶり出されている。私たちが従来持っている種牡馬の血統イメージを、種牡馬のラップ適性が裏切っていないのだ。たとえば、アグネスタキオンは瞬発戦型【瞬6平3消1】で、フレンチデピュティは平坦戦型【瞬5平4消2】、そしてサクラバクシンオーは消耗戦型【瞬2平4消4】というように、実にシンプルな表記にもかかわらず、これまで膨大な経験やデータから導き出された血統論とほとんど見事に一致するのだ。ラップギアが従来の血統論を裏付けている、と言い換えてもよい。

「優先されるのは個体の個性」という著者・岡村信将氏の考えにも私は同感する。

当たり前のことだが、瞬発戦が得意なサンデーサイレンス系にも消耗馬はいるし、消耗戦に強いミスタープロスペクター系にも瞬発馬はいる。競走馬の適性は父だけで決まるわけではなく、母系の影響を強く受けた馬もいる。アグネスタキオンが産駒に瞬発力を遺伝するからといって、すべての産駒が抜群の瞬発力を備えているわけではない。(中略)予想をする際には、「種牡馬の適性より、競走馬がすでに示している適性を優先」しなくてはならないのだ。

血統を少しかじると、まるで種牡馬や母父や~系といった血の記号が走っているように思えることがある。たとえばミスタープロスペクター系は勝てないというように、目の前を走っているサラブレッドではなく、まずは血統ありきに陥ってしまうのだ。これは大いなる錯覚である。史上最高のジョッキーの一人であるL・デットーリ騎手は、馬に初めて跨る時、血統についての情報は一切耳に入れないという。なぜなら、自分で乗ってみて感じた適性を優先したいと考えているからだ。血統は常に馬の個体の個性の後から来るべきものである。

ちなみに、種牡馬としての傾向とその馬の現役時代の適性には、かなりの関連性があるらしい。そういった観点から、新種牡馬の成否を占っているコラムが興味深かった。ゼンノロブロイの現役時代は【瞬8平4消0】。アグネスタキオンに似ていて、まさに今の時代にマッチしているようだ。【瞬11平2消0】のディープインパクトは、ラップギア的には瞬発力に偏りすぎている印象を受けるがどうだろうか。

逆にタップダンスシチーは【瞬6平12消0】であり、種牡馬としての必勝パターンからは程遠いらしい。母父サンデーサイレンスの助けを借りなければ、生き残りは難しいだろう。面白いのは【瞬3平4消5】というデュランダルである。個人的に、この馬は近年で最も柔軟な末脚を持っていた名馬だと考えているので、その数字には納得するとともに、種牡馬としての大きな可能性を秘めていると感じた。

ところで、ラップギアは突き詰めていくと、ある競馬場のあるコースのある距離において求められる適性に還元されると私は思う。大雑把に言うと、東京競馬場は直線コースが長いため瞬発戦に落ち着きやすく、中山競馬場は同じ距離であっても平坦戦~消耗戦になりやすい。短距離は消耗戦になりやすく、長距離戦になるに従って瞬発戦の色が濃くなってくる。種牡馬の血統イメージだけではなく、ラップギアは従来の私たちの競馬場やコースのイメージとも食い違うことはないのだ。

このことを煎じ詰めていくと、私たちは驚くべき結論に行き着く。わずかラスト4ハロンのラップの増減に焦点を当てた「▼7▼3△5」という簡素な記号が、私たちが知っている競馬の世界を饒舌に語っているではないか!これがラップギアという大発見の本質である。いや、もしかするともっと奥深いところにラップギアの本質はあるのかもしれない。あらゆる要素をラップギアというふるいにかけていけば、一体どのようなものが残るのだろうか。そこには私たちが見過ごしていた、コースなり種牡馬なり何なりの秘密が眠っているような気がしてならない。


関連リンク
「ガラスの競馬場」:ラップギア

現在のランキング順位はこちら

| | Comments (82)

「競馬の血統学」

Keibanokettougaku 4star

ボロボロになるまで読んだ競馬の本は数えるほどしかないが、「競馬の血統学」はその中の1冊である。「血統について勉強したいのですが、どの本を読めばよいですか?」と聞かれた時に、私は迷わずこの本を薦めることにしている。もし無人島に1冊だけしか血統本を持っていけないとしたら(そんな状況ありえないか…)、私はこの本を手に取るだろう。それほどまでに、この本に書かれている内容は奥が深く、何度読み返してみても新しい発見と驚きがある。

著者の吉沢譲治氏は、雑誌「優駿」にて重賞勝ち馬の血統ページを担当するようになり、十数年の間、血統表とファイルを整理する作業を続けた後、あるひとつの結論に達する。それ以来、血統についての全ての謎が解けていき、日本に戦前から伝わる在来の地味なサラブレッド血統と、それら多くを支える零細牧場と地方競馬の重要性を、深く認識するようになったという。

その結論とは、「近親繁殖の行き詰まりで活力、生命力、遺伝力を失いつつあった“同一品種”の名門血統が、“異品種”の雑草血統によってよみがえる」ということだ。

そして、その結論に基づいて、吉沢氏はサラブレッドの血統の流れを4つの波に喩える。「近親繁殖で走る大きな波」と「異系繁殖で走る大きな波」、「特定の血統が猛威をふるう波」、「血統の飽和で異父系が台頭する波」である。サンデーサイレンスやブライアンズタイムが日本で活躍したのも、4つ目の「血統の飽和で異父系が台頭する波」にうまく乗ったからだと吉沢氏は考察する。

爆笑問題の太田光が、大好きな作家カート・ヴォネガットについて、ヴォネガットはタイムスリップをテーマにした小説で「人は過去に行ける、思い出せばいい」と語った。それは我々が元々知っていることだった。しかし、誰もが当たり前と思うことを言葉に出来る天才と凡才の間には途方もない開きがある、と書いていたが、まさにその通りだと私も思う。吉沢氏が手にした結論は、言われてみれば当たり前のことだが、凡人の私にとって、世界観を揺さぶられるほど衝撃的であった。

随分と大仰に書いてしまったが、これから血統について詳しく学びたいという人たちにとっての入門書となるべき本でもある。セントサイモンから発した物語は、ハイペリオン、ネアルコ、ナスルーラ、ノーザンダンサー、ネイティブダンサー、トウルビオン、ロイヤルチャージャーと、時空間を超えながら紡がれていく。この物語を読み終えた後には、あなたはもっと血統について知りたいと思うだろう。もしかすると、それが血統を知るということなのかもしれない。

現在のランキング順位はこちら

| | Comments (79)

「ジョッキー」 松樹剛史

Jockey 1star

第14回小説すばる新人賞を受賞した、痛快な競馬小説である。主人公の中島八弥は、朝の調教手当てだけで糊口を凌ぐフリーのジョッキー。とある理由で目の前から姿を消した兄弟子の、「自分の技術を安売りするな」という言葉を信じ、営業活動を一切しない骨ばった信念のおかげで、乗り鞍を減らしてしまっている。それでも、たまにおこぼれのような騎乗依頼があれば、あらん限りの技術と知恵を振り絞り、たとえ惨敗続きの未勝利馬であっても勝ち負けにまで持ち込んでくる。そんなどこかにいそうでどこにもいない中堅ジョッキーが、ひょんなことから桁違いの能力を持つ新馬オウショウサンデーの騎乗を依頼される。そんなプロローグから物語は始まる。

ネタバレになるのでここでは書かないが、ラストの天皇賞秋でオウショウサンデーを敵に回した主人公が、スターティングゲートで使った作戦は微笑ましい。この小説を象徴しているかのようである。そして、特筆すべきなのは、サラブレッドや厩舎に住む人々の様子、レース中のジョッキーの心理から技術的なことまで、わずかな参考文献をもとにして、微に入り細に入り実に見事に描写していることだろう。私の友人が、「競馬の世界を外から見てあそこまでのものを書いたのは凄い。JRAはもっとこういう若い才能に競馬世界の中に入るチャンスを与えるべきだ」と語っていたことも改めて頷ける。

しかし同時に、ある種、漫画のような安っぽさを感じたのも確かである。というのも、この小説を読みながらにして、私はあるジョッキーのことが頭から離れなくなってしまったからだ。事実は小説よりも奇なりと言うように、私は競馬の世界で実際に起こったドラマにいつの間にか思いを馳せてしまっていた。そのジョッキーの名は中島啓之。そう、この小説の主人公と同じ名字を持つ、昭和49年のダービーをコーネルランサーで制した実在のジョッキーである。このダービー勝利は、父時一との親子2代制覇としても知られる。

「万馬券男」と競馬ファンからは親しまれ、「あんちゃん」という愛称で仲間からは慕われていた中島だが、デビューしてから10年ほどは勝ち星も少なく、リーディング争いをしたのは36歳になった年の1度だけという苦労人でもあった。ちょうど保田隆芳や加賀武見といった当代きっての敏腕ジョッキーたちと時代が重なってしまったことも、不遇といえば不遇であった。それでも、コクサイプリンスで菊花賞、アズマハンターで皐月賞を制して、史上10人目の3冠ジョッキーとなった。

そんな遅咲きのベテランジョッキーを病魔が襲ったのである。42歳になった昭和60年の春、トウショウサミットというお手馬を擁して、中島啓之はクラシック戦線を戦おうとしていた矢先の出来事であった。末期の肝臓ガン。無類の酒好きであったが、本質的には酒豪ではなかった中島の肝臓は知らず知らずのうちに蝕まれていたのである。思うように動かない体にムチを打ちながら、中島とトウショウサミットはNHK杯を逃げ切った。

「ダービーだけは乗せてください」と中島は懇願したという。まさに決死の覚悟を抱いてダービーに臨んだのである。中島は自らの運命に抗うように、トウショウサミットを駆って逃げに逃げた。たとえ他馬が競りかけてこようとも、頑としてハナを譲ることはなかった。中島とトウショウサミットは先頭で4コーナーを回る。しかし、次の瞬間、あっという間に馬群に飲み込まれてしまった。この小説の主人公・中島八弥が天皇賞秋を逃げ切ったように、中島啓之は最後のダービーを逃げ切ることは出来なかった。現実はなかなか小説や漫画のようには行かないものだ。ダービーの9日後に入院した時には、もはや治療の施しようのない状態だったという。中島啓之はダービーからわずか16日後に急逝した。

現在のランキング順位はこちら

| | Comments (0)

「無痛化」する競馬予想界のゆくえ

「無痛化」とは、森岡正博氏(生命学者)によって提唱された概念であるが、今あるつらさや苦しみから、我々がどこまでも逃げ続けていけるような仕組みが、社会の中に張り巡らされていくことである。

たとえば今、私はこの文章を、電気に煌々と照らされた、冷房の利いた部屋で、アイスコーヒーを片手に書いている。そして、この文章を読んでいるあなたも同じ。ほんの1世紀も前であれば考えられない光景である。暑ければ冷房のスイッチを押せばよく、暗ければ電灯を点ければよい。苦しみから我々が次々と逃げ続けるために、テクノロジーは発展し、文明が進歩したのは紛れもない事実である。文明の進歩とは「無痛化」の歴史に他ならない。

「無痛化」は、競馬予想界においても避けては通れない。「どうやって予想していいか分からず、馬券を外してお金を失う」というつらさや苦しみから手っ取り早く救ってくれる仕組みが、我々の周りのあちこちに転がっている(ように見える)。

私の個人的な見解ではあるが、日本の競馬予想界における「無痛化」の先駆けは、1969年の柏木久太郎のコンピューター予想ではないだろうか。コンピューターを駆使した予想で的中率84%を標榜したが、いつの間にか消えていなくなった。その後、アンドリュー・ベイヤーによって「スピード指数」が発見され、西田和彦や石川ワタルもそれに続いた。それ以来、今に至るまで、科学文明の発展に歩みを合わせるように、~の法則、~理論、~システム、~値といった必勝法のゴールドラッシュの勢いは止まるところを知らない。

しかし、本当のところ、馬券で損をするというつらさや苦しみからは決して逃れることはできない。簡単で確実なはずの必勝法は、手にした途端、使い勝手の悪い、たまにしか的中することのないゴミと化す。たとえ的中しても、あまりにも買い目が多すぎて結果的にマイナスになってしまうこともあるだろう。それでも、必勝法は当った勝ったと大騒ぎする。これまでの負けを全て忘れ、水に流したと言わんばかりに。馬券で損をするという病に効く薬はないし、必勝法を生み出す詐欺師、それにすがる愚か者に付ける薬もない。

何よりも悲しいのは、競馬予想界の「無痛化」によって、我々が考えることからも逃げてしまうことだ。もし万が一、苦しみから次々に逃れて行くことの出来る必勝法があるとしても、その後に何が残るかというと、快楽、快適さ、安楽さしか残らない。するとどうなるかというと、当たって気持ちがいいけれどもよろこびのない予想になる。

必死になって考え、答えを導きだそうというつらさや苦しみから逃げてはいけない。よろこびは自分の頭で考えることでしか生まれない。競馬好きが100人いれば100通りの予想があるべきで、自分の予想が当たることも外れることもあるだろう。たとえ当たっても外れても、その予想が自分の頭で考えられたものであれば、そこには何ものにも代え難いよろこびがあるのではないだろうか。

seimeigaku


現在のランキング順位はこちら


| | Comments (0)

「勝利の競馬、仕事の極意」

Syourinokeiba 3star

角居調教師といえば、先日久しぶりに勝利を挙げたウオッカを真っ先に思い出してしまう。それほどまでに、牝馬のダービー制覇は私にとって衝撃的であり、角居調教師でなければ成し遂げられていなかった快挙だと思っている。しかし、ダービー以降のウオッカの使われ方に対しては、多くの競馬ファン同様、多くの疑問を感じざるを得なかったのも確かである。

角居調教師は安田記念後のインタビューで、「人間のエゴによって出走して負けてしまったり、馬に合わせたら今度はアクシデントが起こってしまったりと、なかなか歯車が噛み合わなかった」という旨のコメントをしていたが、まさにその通りだと思う。私の個人的な意見としては、宝塚記念と有馬記念は出走させるべきではなかったし、ヴィクトリアマイルは勝つつもりで出走させてきていなかった以上、ファンに対する背信だとさえ思う。

それでも、最後の最後の部分では角居調教師を私は信じている。角居調教師が人一倍悩み、決めた以上、その判断は正しいはずであり、様々な紆余曲折があろうとも、最後はウオッカという歴史的牝馬を最高の形で牧場に帰してくれるものと信じている。それはこの本に書かれた一節を信じているからだ。

サラブレッドはしゃべれない。
どんな扱いを受けようが、ただ黙って、人間にすべてをゆだねて生きていく。
馬が生を受けるとき、父馬と母馬は、人間が人間の都合で選んだ種牡馬と繁殖牝馬である。生まれた子馬は、人間の都合で厳しい育成を受け、人間の都合で売買される。そして、人間の都合で激しいレースを闘わされ、これに勝ち抜いて生き残れば今度は、人間の都合で父馬や母馬として優れた血を伝えることを求められる。
彼らの生涯は、すべて人間の都合によって支配されているのである。
それでも、サラブレッドはしゃべれない。
何という儚い動物なのだろう。わずかなアクシデントでも命を失う過酷な宿命、熾烈な淘汰のための競争、人に委ねられた生活。そういう研ぎ澄まされた毎日を、まるで綱渡りでもするようにして、サラブレッドというガラス細工の芸術作品は、少しずつ少しずつ作り上げられていく。
この美しく儚い動物を守っていきたい、と私は思った。私が競馬を仕事にしようと決めたのは、そういう思いが原点だった。
サラブレッドの人生を守り、より良い生涯を送れるように、私ができる限りのことをしたい。
牧場での毎日から生まれたそんな思いが出発点になって、私は競馬の世界に足を踏み入れていき、そして、サラブレッドと競馬の魅力の虜になって、離れられなくなった。

確かにサラブレッドは経済動物であり、ギャンブルの牌でもある。しかし、人間とサラブレッドのもっと奥深い結びつきにおいては、決してそうではないだろう。ホースマンはサラブレッドという美しく儚い動物を守っていかなければならない。しゃべれないサラブレッドの人生を守り、より良い生涯を送れるように、出来る限りのことをしていくのがホースマンであるとも言える。そういったホースマンの愛情に応えるために、しゃべれないサラブレッドはレースで限界を超えて走るのだ。

話は少し飛ぶが、ドーピングテストは競馬が始まりだとある人から教えてもらった。古代ローマの戦車競走の馬に、アルコール発酵させた蜂蜜を与えたり、敵の馬に薬物を与えたりしたことが問題となり、ドーピングテストは行われ始めたのだ。サラブレッドは人間が薬物を接種させればそれを一方的に受け入れるしかなく、自分の意志で拒んだり受け入れたりできないからである。つまり、ドーピングテストはギャンブルに対する公平さを期すためではなく、動物愛護の精神からなのであった。

しゃべることのできないサラブレッドを守ることが出来るのは、良くも悪くも人間しかいないという事実を、私たちは胸のどこかに留めておかなければならない。

現在のランキング順位はこちら

| | Comments (84)

「君は野平祐二を見たか?」

Kimihanohirayuujiwo 3star

作曲家の坂本龍一氏は、「自分のやっていることの98%は10代に吸収したことでできている」と娘に宛てた手紙に書いた。98%とまではいかないが、私の競馬に対する考え方や情熱なども、実は十代の頃に身につけたものがほとんどであり、その多くを野平祐二という人物に大きく影響されている。私の競馬観は野平祐二のそれだと言っても過言ではないだろう。

野平祐二は日本の競馬を大きく変えた男の一人である。昭和の後半、世界にはほど遠かった日本競馬を今日のレベルにまで高め、しかも底上げした。騎手としては、騎乗数の少なかった時代に1339勝を挙げ、リーディングジョッキーにも輝き、スピードシンボリと共にヨーロッパ競馬に挑戦した。調教師としては、20世紀最強馬であるシンボリルドルフを管理し、ダービーやジャパンカップを含む数々のG1レースを制した。

野平祐二が生きた日々は、まさに日本の競馬にとって最もエポックメイキングな時代であった。だからこそ、この本には、尾形藤吉、和田共弘、保田隆芳、加賀武見、栗田勝、武田文吾、藤澤和雄、柴田政人、岡部幸雄という、日本の競馬を語る上で外すことの出来ない男たちの名前が登場する。まるで明治維新が日本という国を大きく変えたように、彼らが切り拓いてくれた道があるからこそ、私たちは今こうして競馬を楽しむことができる。

しかし、ダビスタで競馬を覚えた昨今の競馬ファンは、野平祐二らが生きた激動の時代については意外や知らない。著者の木村幸治氏は、そのような状況を、皮肉を込めてこう綴る。

やがて日本一の騎手となり、英仏米豪の競馬で実戦を経験し、二十世紀の日本競馬史で史上最強馬といわれる馬の現役生活に付き添った。この野平祐二が騎手として生き、調教師として馬に添った間に、日本競馬はその相貌を変えたのである。その事実を競馬に深くかかわった人は知っているが、競馬を馬の血統や馬券の世界だけでいとおしみ続けた人の多くは知らない。

かつて私は、競馬の師にこんな質問をしたことがある(不遜にも)。

「本物の予想家とそうでない予想家の違いは?」

師はためらうことなくこう答えた。

「起源(origin)を知っているかどうかだ。」

当時は全く意味が理解できなかったが、今は少しだけ分かるような気がする。私の周りを見渡してみると、競馬だけに限らず、その道に通じている人は必ずその道の起源を詳しく知っている。その道が好きだからこそ、その道がどこから来て、どこへ向かっているのかを知りたいのは当然のことだ。起源を知ることが馬券の当たり外れにどう関わるのかは未だに分からないが、起源を知りたいという知的探究心が本物の予想家とそうでない予想家を隔てるのだろう。この本のタイトルは、「君は日本競馬の起源を知っているか?」という著者の問いかけでもある。昔のことなんか知っても予想には何の役にも立たないと思っているそこのあなたにも、せめてこの本だけは読んで欲しい。この1冊だけでいい。


関連エントリ
ガラスの競馬場:「口笛吹きながら」

現在のランキング順位はこちら

| | Comments (79)

「ラップギア」 

Rapgear 4star

自慢でも何でもないが、エッセイ本から理論本に至るまで、競馬に関する書物には大体目を通しているつもりだ。しかし、理論本に関しては、最後まで読むかどうかは、最初の前提を読んで決める。前提というのは、戦略的な部分のことである。前提が間違っていたらその先が正しいことはまずないので、そういう本は最後の理論的な部分までわざわざ読み進めることはないと思っている。

雑誌『競馬最強の法則』で取り上げられて以来、「ラップギア」は大きな反響を呼んできたが、まずはその前提が素晴らしい。1章では競馬(馬券)に対するスタンス、2章ではラップギアの成り立ちについて述べられているが、著者である岡村信将氏のスマートさ(頭の良さ)が伝わってきて、ここまで読むと先が読みたくて仕方なかった。長くなるが、その前提をほんの少しだけ紹介したい。

なぜなら、的中率と回収率は「ある程度反比例するもの」だからだ(もちろん、その予想理論が正しいことが大前提である。理論が間違っていれば、的中率と回収率が下がる方向で反比例することもあるだろう)。的中率を突き詰めれば回収率が上がらないし、回収率のみを追求すると的中率が恐ろしいことになる。追い求めるべきふたつの道が反比例するからこそ、競馬は難しい。
(中略)
決して当たりすぎてはいけない。当たりすぎるということはつまり、長期的に見るとそれだけ平均配当が下がっていることになる。これは本人が意識しようがしまいが、間違いのないところだ。もちろん可能なら、的中率100%、回収率1000%なんて予想を出してみたいが、それは私には一生かかっても、何度生まれ変わってもできそうにない。

ここにサラリと書かれていることは、競馬界においては実は当たり前とされていないことでもあるが、全くもって真実である。そこで、岡村氏は「回収率120%超を前提としての的中率20~30%」のバランスを目指すと語る。その簡単に見えるが困難な道を、「ラップギア」という理論を元に切り拓いていくというのだ。

これは余談だが、岡村氏は救いがたいデータ好きで、小学生の頃から野球選手の推定年俸を割り出していたそうだ。打率や長打率、盗塁数、入団年数などのデータを基に、落合や宇野や郭源治の年俸を小学生が決めていたという逸話には笑ってしまった。私も小さい頃から野球が好きで、甲子園球場に行って、スコアカードをつけながら高校野球を観戦していた小学生だったので気持ちはよく分かる。

ところで、本題のラップギアの理論部分だが、タイム理論の新革命と銘打つだけのことはあって、当然のことながら画期的かつ面白い。簡単に説明すると、ラスト3ハロンのラップの増減に焦点を当てた理論で、すべてのレースラップを「▼7▼3△5」という簡潔な記号で表しながら、馬やコースの適性を「瞬発戦」「平坦戦」「消耗戦」の3つに分類しながら解き明かしていくというものである。

正直に言うと、ラップの増減という未開拓のファクターを、ここまで現実のレースや馬にリンクさせられたということが、私にとっては衝撃であった。これは想像でしかないが、おそらくありとあらゆるラップパターンを組み合わせて試してみて、「ラップギア」の理論に収束していったのだろう。実際に使っていくと、たとえば瞬発戦になりやすいレース(コース)には瞬発馬が集まりやすい等という難点は出てくるが、シンプルであるがゆえに様々な応用も利くだろうし、何よりも、これまでに私たちが気付かなかったラップの盲点をあぶり出してくれるのではないかという期待もある。

さらに、巻末にあるコースとJRA現役馬のデータ、各競馬場の距離別データの量にも圧倒された。著者だけでなく、この本に携わっている取材班の血の滲むような努力とこの本に賭ける想いが伝わってくるようである。久しぶりに考えさせられる熱い理論本に出会えて私は嬉しかった。近くの書店でもアマゾンでもいいので、この黄色い表紙の「ラップギア」をぜひ手に取って、まずは読んでみて欲しい。

現在のランキング順位はこちら

| | Comments (68)

「キャッチボール」

Catchballichiro

イチローの言葉には自分の頭で考えてきた重みがあり、だからこそ私にとっても考えるきっかけになったり、ヒントになったりもする。他にもイチローの言葉を集めた本はたくさんあるが、中でも糸井重里が引き出した生のイチローを感じられるこの本が一番面白いと私は思う。

イチローは他の誰よりも道具にこだわり、大切にすることで知られている。「手入れをしたグラブで練習をしたことは、体にかならず残る。記憶が体に残ってゆく。汚いグラブでプレイしていたら、その練習は記憶に残らない」という言葉の意味は、科学的には何の根拠もないのかもしれないが、野球少年、そして野球青年であった私にはよく分かる。グラブは体の一部であり、グラブを手入れすることは自らの体を手入れすることである。グラブを手入れしない人間が自分の体を手入れすることなど出来ない。また、練習後にグラブを手入れしている時こそ、今日のプレーを顧みて、記憶に残していく貴重な時間なのだ。

イチローには、バットに対するこんなこだわりもある。

糸井「そういえば、イチローさんは、バットもすごく細いままですよね。スイートスポットがものすごく小さくて。ホームランなんか、大当たりみたいなことでしか、打たないようなバットなんですって?」

イチロー「スイートスポットは小さいです。扱いはむずかしいですし、細いバットなんですけど…、人が勘違いしているのは、『太いバットだと、たくさん当たる』と思っていることなんですね。」

糸井「そりゃ、そんなことはないわ。羽子板じゃないんだからねぇ。」

イチロー「たくさん当たるってことは、ミスショットも多くなるんですよ。そりゃ、バントするならでっかいバットでもいいかもしれないけど、ふつうに打つときに、太いものでは、当たってはいけないところにも当たる可能性がある。ぼくはそれがイヤなんですね。確実に当てたいから、細いバット、なんです。確実にとらえようと思ったら、でっかいバットじゃダメですよ。」

糸井「ミスショットだったら、空振りしたほうがマシなんだ。」

イチロー「そういうことです。」

確実にとらえたいから細いバットという思想は、野球でもゴルフでもスイートスポットを少しでも大きくしようという時代の流れから逆行していて、非常に興味深い。ここでイチローの言う、確実にとらえるとは、バットの真芯に当てて強く打つということだろう。強く打つためには、スイートスポットを大きくするのではなく、小さくするということである。スイートスポットが大きければ、もちろん当たる可能性は高くなるが、強く打つことは出来ない。

競馬の賭けにも同じことが言えるだろう。最近はフォーメーションやボックスなど、スイートスポットを大きくするような賭けを助長するシステムが整ってきていて、ファールチップを打つJRAのお客さんのような打者が見事に育ちつつある。たとえ当たったとしても、それは強く打ったことにはならないということだ。ミスショットをするならば、空振りをしたほうがマシなのである。

スイートスポットの小さい細いバットで強く打つこと。

自分自身を省みて、戒めの意を込めて、上の言葉を取り上げてみた。この他にも、胸の奥に響く珠玉の言葉たちがこの本には溢れている。ちなみに私は、「ヒット1本って飛びあがるぐらいに嬉しいんですよ」というイチローの言葉に心を打たれた。イチローファンならずとも、一度は手にとってもらいたい一書である。

現在のランキング順位はこちら

| | Comments (77)

「安藤勝己の頭脳」 亀谷敬正

Andoukatuminozunou02 5star

前作から8年の時を経て、「安藤勝己の頭脳」が私たちの前に再び登場した。「できればこの本だけは紹介したくなかった」と前作時に書いたが、その思いは今回も同じである。安藤勝己騎手の言葉によって競馬の本質が語られ、その本質を見事に引き出す著者・亀谷敬正氏の技量も凄い。ひとりでゆっくりと楽しみながら読んで、こっそりと馬券に生かしたい。そんな内容の本である。前作と並び、必読の競馬本である。

私にとって最も印象的だった部分は、レースの「流れ」に話が及んだ部分である。かなり競馬の核心に触れた部分なので、長くなるが引用してみたい。

亀谷(以下、敬称略)
「ところで、レースの「流れ」というのは展開のことですか?」

安藤
「いや、展開というのではなくて、その馬にとっての理想の時計だね。」

亀谷
「理想のラップタイムのバランスですね。その理想バランスが馬によって違うんですね。」

安藤
「そう。長距離って道中は脚を溜めて最後の切れ味勝負っていう流れが多いけど、どの馬にもその流れが合うわけではない。たとえば瞬発力はないけど同じスピードならどこまでも持続できる馬ならば、道中でペースが落ちてもスピードを落とさない方がいい。こういう馬は3コーナーでもペースを速くして乗るように心がけています。最後に差されて負けると格好悪いけど。」

亀谷
「そういうのは格好悪い負け方という意識はあるもんなんですか?」

安藤
「やっぱり早仕掛けで負けたように見えるとカッコ悪いでしょ。でも、どうせ仕掛けを遅らせても伸びないんだったら、早めに動くしかチャンスはないと思う。」

亀谷
「ということは、平均ペースで押し切るのが理想の馬なら、前にいる馬がペースを落とした場合、そこで勝手に仕掛けていけばいいと思うのですが。」

安藤
「それはいつも考えているよ。でも、それはなかなかできない。たしかに、道中で自分だけ勝手に仕掛けても毎回勝てるならいいよ。でも、もし着外とかになったりしたら、『下手に乗りやがって』って言われるし、他の騎手にも迷惑をかけるわけ。それにハナとか2番手に行った騎手にとっては、途中から変なペースで来られたら頭にくるよ。オレだってそんなことをされたら頭にくるから(笑)。レースの流れを壊すような乗り方をするっていうのは、後々のことも考えるとなかなか度胸がいることではあるんだよね。競馬っていうのはすべてがつながっているわけ。だから、そのレースの結果だけがすべてではないんですよ。」

亀谷
「たとえば、そのレースだけのためにレースの流れを壊すような思い切った乗り方をした場合、たまたまそのときだけうまくいってもトータルの結果は悪くなるとか?」

安藤
「他のレースでは自分がペースを握ったときにそれを壊されることも出てくるだろうね。だから、乗り役はレースのペースがその馬に合わないことが分かっていても動けないことがある。」

亀谷
「ペースというのは、逃げ馬や馬群の先頭に立つ馬が決めるわけですね。」

安藤
「そこの中で競馬をやった方が周りからも悪く見られないし、負けた時は流れが悪かったってことになるから。」

亀谷
「それは外国の騎手が日本で乗るときもそうなんですか?」

安藤
「それなりにその国の競馬の流れの中で対応してるよね。何人も外国の騎手がいればまた違うだろうけど。笠松(当時)でも、中央の騎手と馬1、2頭が来たって流れは変わらないから大体の流れは分かる。つまり、流れっていうのは1頭だけで決まるものではないんですよ。」

まず亀谷氏によって切り出された「レースの流れとは展開のことか?」という疑問に対し、安藤勝己騎手は否と答える。安藤勝己騎手の言う「流れ」とは、その馬にとっての理想の時計である。亀谷氏はそれを理想のラップタイムのバランスと言い換えているが、要するにその馬にとって理想の走るリズムのことである。その馬にとって理想の流れ(リズム)というものが存在し、その流れ(リズム)に沿って走ることが最大限に力を発揮できることにつながる。

たとえば瞬発力に欠ける先行馬にとっては、スローペースに落とすよりも、スピードを落とさずに持続力の勝負にした方が良く、逆に一瞬の切れ味を生かしたい差し馬にとっては、ペースが上がって脚を使わされるよりも、位置取りは後方でもスローの瞬発力勝負になった方が良い。ここまではあくまでも大前提である。

しかし、いつもどのレースでもその馬の理想の流れ(リズム)で走ることが出来るとは限らない。なぜなら、それぞれのレースには、それぞれの流れ(リズム)が存在するからだ。その馬にとっての理想の流れ(リズム)よりも、レースの流れ(リズム)が先に来るのである。そして、その流れ(リズム)は決して1頭の逃げ馬や先行馬が決めてしまうものではない。コース設定や馬場状態、騎手の心理や各馬のコンディションなど、数多の要素が絡み合ってレース全体の流れ(リズム)は決まる。

もちろん、その流れを途中から壊すこともできる。平均ペースで押し切るのが理想の馬なら、前にいる馬がペースを落とした時に、自分だけはペースを落とさずに先頭に立って回ってくればいいのである。しかし、それはなかなかできることではない。自分のリズムで逃げ・先行していた馬にとって、途中から来られることは致命傷になりかねない。サラブレッドは外から来られると追いかけてしまう習性を持ち、精神的にも消耗するものだからだ。

もし自分だけ勝手に仕掛けて、勝てるならばいいが、負けたときには他の騎手に迷惑をかけている以上、文句を言われることは避けられない。極端なことを言えば、以降のレースで、今度は自分の馬がリズムを崩されるような騎乗をわざとされることもあるだろう。ほとんど毎回同じ騎手同士でレースをする以上、やはり暗黙のルールや信頼関係が成立するのである。だからこそ、レースの流れを壊すような乗り方をするのは、後々のことを考えると非常に度胸がいることなのである。

これで私たちの疑問がまたひとつ解消されたのではないだろうか。流れが遅ければマクって行けばいいじゃないかと思うこともあるが、そうはできない事情というものがあるのである。特に実績のないジョッキーはそうである。中堅ジョッキーや若手ジョッキーがなかなかG1レースで勝てない理由も、ここにひとつあると思う。実績のある騎手たちはG1レースであれば、レースの流れを多少壊したとしても勝ちに来ることもあるだろうが、実績のないジョッキーたちにとっては、G1レースだからこそ自ら動いてレースの流れをブチ壊してしまうかもしれないことには大きな恐怖が伴う。そういう無数の駆け引きの中で、レースは行われているのだ。競馬は全てがつながっているのである。

| | Comments (4)

「スーパートレーナー藤沢和雄~名馬を語る~」

Meibawokataru 4star

このDVDは、以前に紹介した「スーパートレーナー藤沢和雄~調教の秘密~」と対になって発売されたものである。企画としては「調教の秘密」の方が斬新だが、どちらが馬券に役立って面白いかというと、私はこちらをお勧めする。名馬たちの成功の裏に、たくさんの失敗や技術的な試行錯誤の裏話があることに驚かされることだろう。

たとえば、シンコウラブリイは追い切りで追ったことがないという。気性の前向きな馬なので、どちらかというと走り過ぎないように、引っ張りきりだった。周りからは、「追い切りでビッシリ追わないからG1を勝てない」と批判されたことも少なくなかったが、それでも「追ったらこの馬はダメになる」と信じて追わなかった。そして、最後の引退レース(マイルCS)で、泥んこの馬場をシンコウラブリイが先頭でゴールしたときは、何とも言えないほどの感慨を味わったという。

スティンガーは京王杯SCを連覇しているが、武騎手よりも岡部騎手が乗って勝ったレースの方が良い勝ち方だったという。極端に速い脚を使うと馬に反動が出るからである。また、タイキブリザードが安田記念を勝ったレースでは、ブリンカーを外すか装着するか、最後の最後まで迷ったらしい。ブリンカーを付けると最後まで集中して走るが、道中で引っ掛かってしまう恐れがある。付けなければ、道中は折り合うかもしれないが、またいつものように最後の詰めが甘くなるかもしれない。悩みぬいた末、藤沢調教師はブリンカーを外すという決断をして、タイキブリザードは見事にそれに応えた。

タイキシャトルは、フランスから帰ってきてから、精神的に燃え尽きてしまったのか、調教で反抗するようになり太目が残ってしまったそうである。それでもマイルCSをブッちちぎり、スプリンターズSでも僅差の3着と、やはり桁違いの能力を秘めていたのだろう。それから、高松宮記念を制したシンコウキングは父フェアリーキング譲りのわがままで短気な馬で難しかったという話や、NHKマイルCを勝ったシンボリインディは3歳時に無理をして有馬記念を使ったことがミスだったという悲話。シンボリクリスエスは右回りで右にモタれる悪いクセがあり、それを矯正するために左回りの芝コースばかりで調教していたことなど、なかなか私たちが知りえない競馬の真実が満載である。

たくさんの名馬たちが語られるが、またそうではない、名馬と呼ばれることのなかった馬たちに対する藤沢調教師の愛情の深さも伝わってくる素晴らしい作品に仕上がっている。特に、ここに登場する馬たちの走った軌跡をご存知の方にとっては、あの時代にタイムスリップして競馬をもう一度味わいつくしているような感覚に浸れるはず。競馬関連のDVDの中では一番のお勧めである。

最後に、「夏休みだよ!ブログ⇔メルマガ連動企画」の答えは、強い馬にとってのメリットとは「精神的に燃え尽きない」ということだそうだ。強い馬は己の限界を超えて走ってしまうことがあるので、強い馬を強い馬と一緒に走らせてしまうと、お互いが頑張りすぎて精神的に参ってしまうのだ。精神的に燃え尽きさせないために、なるべく走る馬と走らない馬を一緒に走らせるのである。私はこれを知ったとき、目からウロコが落ちたような気がした。

現在のランキング順位はこちら

| | Comments (0)

「サイマー!」

Saima 1star

うまジオでの対談の時に勧められた、直木賞作家・浅田次郎氏による旅打ちエッセイ。ホームグランドの府中競馬場から始まり、最後はラスベガスまで所狭しと世界を飛びまくり、張り続けるさまは、驚きを通り越して痛快である。行ったことのある競馬場は、その情景が目に浮かび、行ったことのない競馬場は、まるでそこで馬券を買い、浅田氏と共に叫んでいるかのような錯覚に陥ってしまう。読み終わるとスーツを着て競馬場に行きたい!と思わせられる、素晴らしい読後感である。

しかし、ひとつだけ引っ掛かるところがあった。それは、「あとがき」において、久保吉輝氏の撮ったサイレンススズカの天皇賞秋の写真を評した部分である。この写真はJRAのヒーロー列伝のポスターとしても有名になった名作だが、浅田氏は以下のように書いている。長くなるが引用したい。

ここに一葉の遺影がある。第百十八回天皇賞の馬場入場直後における、サイレンススズカ号の写真である。私はかつて、これほど悲しみに満ちた生き物の表情を見たためしがない。物言わぬ名馬は、おそらくおのれの余命が数分しかのこされていないことを、正確に予知している。鞍上の騎手もまた、ふだんとは違う愛馬の気配を悟ってか、表情を翳らせている。ファンが良く知る通り、このジョッキーが表情を露わにすることは極めて稀である。そしてその姿を、埒のかたわらから、久保吉輝氏のカメラが捉えていた。
Suzukaiei_2

この一葉がサイレンススズカの遺影であることに異存はない。しかし、この遺影には悲しみというものが断片さえも私には見えない。この遺影に見えるのは最上の喜びと希望だけである。サイレンススズカという最速の天才と、武豊という天才ジョッキーが巡り合って生まれた喜びと希望が、最高の舞台を迎えたその奇跡の一瞬である。走る喜びに流星を紅潮させるサイレンススズカを、武豊騎手は愛情を持って見つめる。もはやそこには2人の世界しか存在せず、14万の観衆の大歓声の中でも、ただひらすら彼らは静寂に包まれていたに違いない。

この遺影を私が改めてじっくりと見たのは、ちょうど今年の宝塚記念の週に、サイレンススズカのビデオを借りてきてジックリと観た後のことだ。新馬戦から最後の天皇賞秋まで、彼の競走生涯を時系列に辿った後だからこそ、もしかしたらそう思えたのかもしれない。それでもやはり、たとえ死が隣り合わせであろうとも、この瞬間が悲しみに満ちているはずがないと思う。

未来に起こる悲劇など知るよしはない。そして、私たちはその瞬間を選べない。サイレンススズカは生きながらにして死んだのである。「原因は分からないのではなく、ない」と武豊騎手は語った。そうだろう。だって、サイレンススズカと武豊は、あの瞬間まで最高に幸福であったのだから。彼らの走りを観ればそれは分かる。生きている限り、喜びや希望はいつも溢れていて、たとえいなくなってたとしても、喜びや希望はこうして私たちの心の中で走り続ける。

現在のランキング順位はこちら

| | Comments (101)

「口笛吹きながら」

Kutibuewohukinagara 1star_1

私にとってはバイブルのような存在の本である。当時、私はここに収録されたエッセイを読むためだけに「週刊Gallp」を購買していた。競馬予想の技術はもちろんのこと、競馬に対する考え方まで、私は野平祐二さんの影響を大きく受けていることは間違いない。

競馬は文化であり、スポーツである。単なるギャンブルではない。ギャンブルだけでは競馬は滅びてしまう。競馬をマネーゲームにしてはいけない。等々。野平祐二氏の言葉には、世界の競馬に飛び込み、その隆盛を見てきたからこそ発することができる真実がある。競馬を見失いそうになった時、この本を開けば、競馬の理想の姿がいつも現れる。

今でも記憶に残っているエッセイがあって、それは若手騎手を育てることについてのものだ。馬の成績が良くなれば、もっといい騎手へと乗り替わるのが日本競馬社会の日常である。そんな中で、テイエムオペラオーに和田竜二騎手、ナリタトップロードに渡辺薫彦騎手、サイコーキララに石山繁騎手を乗せ続けた調教師を、「すごいな」と思って見続けてきたという。

野平氏が若手騎手だった時代は、いい馬に乗れなかったというよりは、いい馬に乗ってはいけなかったらしい。自分より上手い先輩がいっぱいおり、そこには序列というものがあったからである。「ずうずうしく乗ってはいけないんだ」と思っていて、当時は若手騎手には「馬に乗れる喜び」は少なかったという。

こういうガチガチの徒弟制の中で育ってきた叩き上げの人間は、普通ならばこう切り捨てるだろう。「俺らの時代は、馬になどまともに乗せてもらえず、靴磨きしかさせてもらえなかった。今の若手は恵まれている」と。しかし、ミスター競馬こと野平祐二氏はこう言う。

強い馬を作ることも大切だが、いかに素晴らしい人材を育てるかということも大事なこと。強い馬が出てきたら、弟子に乗せて経験させるべきだと思う。(中略)「自分のところで、なんとか、しっかりした騎手を育てよう」という考えを持つ調教師が増えてきたのは本当にうれしい。いい時代になったな、と思う。

当時、このエッセイを読んで、自らの身と照らし合わせ、感激して涙したのを覚えている。こんな考え方をする人もいるんだなと。

外国が地方から腕の立つジョッキーが押し寄せ、若手騎手にとっては不遇の時代になったと言われるが、果たして本当にそうだろうか。昔に比べて今の時代は、若手騎手にとっても、チャンスはたくさん転がっているのではないだろうか。いい時代になったな、と思う。

現在のランキング順位はこちら

| | Comments (78)

「カリスマ装蹄師 西内荘の競馬技術」

Karisumasouteisi 3star_3

競走馬にとっての蹄鉄とは、人間にとっての靴のようなものであり、人間が自分に合った走りやすい靴を履かなければまともに走られないのと同じで、競走馬も自分の蹄にフィットした蹄鉄を履くことによってこそ、ベストパフォーマンスをすることが出来る。

従来の装蹄は、馬の蹄に蹄鉄を釘で打ち込んでいくのだが、ディープインパクトの出現により広く世間に知られるようになった、「エクイロックス」という接着剤を使った装着技術がある。

実は走る馬ほど蹄が薄い。なぜなら、馬が強ければ強いほどトレーニングを課せられる→強いトレーニングを消化すると脂肪が減り皮膚が薄くなる→蹄は皮膚が角質化したものなので、皮膚が薄くなればなるほど蹄も薄くなってしまうからである。走る馬というのは生まれつき皮膚が薄かったりもする。

また、走る馬ほどキック力が強いため、蹄鉄の減りも早く、蹄鉄を打ち替えなければならないサイクルもまた早い。蹄鉄を釘で打ち込む頻度が高ければそれだけ蹄が傷んでボロボロになっていくのは当然で、だからこそ、走る馬ほどより接着装蹄を必要とするのだ。

そういった意味においては、ダービーを勝ったウオッカを始め、関西のほとんどの有力馬の走りは、このエクイロックスを使用した接着装蹄を担当する西内氏の腕にかかっていると言っても過言ではない。そして、いずれかは、物理的に可能な限りにおいて、ほぼ全てのサラブレッドがエクイロックスを使用した接着装蹄の恩恵を授かり、脚元に気をつかうことなく、能力を十全に発揮できるようになる日が来るだろう(接着装蹄ではほぼ100%落鉄することもない)。大袈裟に言うと、下駄を履いて走るかそれとも運動靴かというぐらい違うのであって、それぐらい大切な技術なのである。

しかし、それ以上に私が大切だと感じたのは―競馬の予想をするという立場上―、蹄鉄についている歯鉄の問題である。歯鉄のついた蹄鉄とはいわゆるスパイクのようなものであり、歯の長さが長ければそれだけ引っ掛かりが良くなり、それだけで走る能力が高くなる。JRAの規定では、2mmの長さまでの歯鉄の使用が認められていて、どの程度の長さの歯鉄のついた蹄鉄を使用するかの判断は、各陣営に委ねられている。

たとえば、ウオッカは阪神ジュべナイルF(1着)は、1mmの歯鉄のついた蹄鉄を履いて臨んだという。しかし、歯鉄が長ければキック力が増すので、それだけ馬に掛かる負担も大きく、レース後はさすがに疲れが出てしまったという。そこで、桜花賞では先々を考えて歯鉄のない蹄鉄を履いて臨んだ(2着)。そして、最大の目標であったダービーでは、なんと規定最大の2mmの歯鉄のついた蹄鉄を使用したという。あの33秒ジャストの末脚は、2mmの歯鉄による引っ掛かりが生んだものなのかもしれない。そう考えると、その馬が何ミリの歯鉄のついた蹄鉄を使用しているかは気になるところである。現時点では確認するのは難しいが(たとえパドックでも)、これもいずれかはJRAから発表されるようになるのではないだろうか。それぐらい、陣営の勝負度合いを知るという意味では大切なことなのである。

最後にこれだけは言っておきたいが、あくまでも装蹄は馬が走るか走らないかを決める要素のひとつであるということである。本書には、あたかも装蹄師はサラブレッドの状態の全てを把握していている、もし自分がレースに出走する全ての馬の装蹄を担当しているケースには、その勝ち負けを容易に判断することが出来るかのような記述があるが、決してそうではないだろう。馬券を買う競馬ファンに向けての著作だけに、ある程度の煽りは仕方ないのかもしれないが、誤解を招きかねない部分があると感じた。

現在のランキング順位はこちら

| | Comments (74) | TrackBack (1)

第1回GKY大賞

第1回GKY(「ガラスの競馬場」読み物)大賞が決定しました。私がこれまでブログ上で紹介してきた競馬本の中からベスト5選びましたが、選考基準は以下のとおりです。

1、競馬ファンならば読んでおきたい
2、競馬の予想に役立つ

どちらのポイントも満たしていればランキング上位は当然ですが、優先順位としては1を上に見て順位を付けています。あくまでも私治郎丸敬之の主観に基づいたランキングですが、ここで紹介させていただいた本は、少なくとも2回以上は読んでおり、安直な紹介ではないことだけはご理解ください。必勝本やデータ本ばかりが売れている現状ですが、そんな中、競馬に関してきちんと書いてある競馬本もたくさんあります。もし未読のものがあれば、宝塚記念まではまだ時間がありますので、読んでみてはいかがでしょうか。

第1位「競走馬私論」
先日のNHK番組「プロフェッショナル」にも出演されていた藤沢和雄調教師による競走馬論。教育書、ひいては哲学書として読まれてもおかしくないだけの内容の奥深さがある。もちろん、馬券の予想に役立つヒントも満載。

第2位「安藤勝己の頭脳」
この本だけは紹介したくなかったというのが本音。競馬の本質が、全く惜しげもなく、至るところに散りばめてあるからだ。私たちアウトサイダーだけではなく、騎手、調教師等の競馬関係者が読んだとしても、かなり勉強になるのではないだろうか。

第3位「競馬学への招待」
高い知性と教養のある人間が競馬について書くと、かくも良いものが出来上がるのかという出色の作品。終電に乗り遅れて、朝までベンチに座って一気に読んだホロ懐かしい思い出も蘇る(個人的に)。競馬を深く愛したい人には必読の書。

第4位「調教師伊藤雄二の確かな目」

第5位「G1勝利の方程式」


現在のランキング順位はこちら

| | Comments (2) | TrackBack (0)

「スーパートレーナー藤沢和雄~調教の秘密~」

Supertrainer 3star_2

藤沢和雄調教師が2005年にリーディングトレーナーの座を失った時、少し時間がかかるかもしれないということを私は書いた。しかし、その予想に反し、翌年である2006年には、藤沢和雄調教師はあっさりと再びチャンピオンの座に返り咲いた。私たちの想像が及ばないほどの高い調教技術を誇り、なおかつ馬に対する思いやりに溢れた藤沢和雄調教師の天下は、これから先も続いていくことだろう。

このDVDには馬を調教することの奥深さが詰まっている。馬を調教するとは、その周辺環境を含め、馬がレースに行って苦しまずに走れるように仕上げていくことである。調教に行く前と、行く後、なぜヒヅメに蹄油を2回塗るのか。馬房の入り口を、なぜ馬栓棒から引き戸に変えたのか。ブラッシングされている馬の姿を見て分かることは?などなど。馬券に直接は役立たないかもしれないが、藤沢調教師のこだわりが、あなたの競馬を見る目を肥えさせてくれることは間違いない。

「The Jockey Cam」という、ジョッキーのヘルメットにカメラを装着して、調教のシーンをジョッキーの視線から切り取った映像は圧巻である。追い切りという行為は、決してダビスタ的なものではなく、アスリートのトレーニングであるということがよく分かる。たとえば、朝日杯フューチュリティSで2着したヤマノブリザードは右回りで内にモタれてしまう癖があるのだが、それを矯正するために常に馬を内に置いて走らせるようにした。また、ダンスインザムードがガツンと行かないようにするため、コースを2周する調教を取り入れたりと、私たち競馬ファンには伝わってきにくい、追い切りの機微のようなものを、まさにジョッキーの感覚を持って味わうことが出来る。

そういえば、先週の共同通信杯を制したフサイチホウオーは、左にササル癖のある馬である。体が仕上がり切っていないため苦しいところがあるのか、それとも精神的なものか分からないが、デビュー以来、道中はずっと左にモタれて走っている。こういう癖のある馬は、特に外から被せられるとモタれようとする。右回りであれば、外から被されてもその馬がブロックとなり、それほど左にモタれることがないのは上に書いた通りである(安藤勝己騎手が常に左手にムチを持っている理由も、馬を左にササらせないためである)。

しかし、左回りであれば、内にもう1頭馬がいない限り、内ラチ沿いへと逃げて行き、終始ラチを頼るような格好で走らざるを得ず、騎手は非常に乗りづらい。つまり、左回りで行われた共同通信杯は、馬を前に置く形だったのでほとんど問題なかったが、外から被される形になれば、また違った結果になっていたかも知れないのだ。父ジャングルポケット譲りの底力に富んだ末脚から、府中競馬場で行われるダービー向き思われるが、「左にササる癖のある馬の左回り」であることも忘れてはならないだろう。

現在のランキング順位はこちら

| | Comments (88) | TrackBack (6)

「馬は誰のために走るか」

Umahadarenotameni_1 2star_3

オグリキャップが勝った有馬記念は、私は馬券も買わず、ひとりぼんやりと後楽園ウインズで観ていた。当時はまだ右も左も分からない競馬初心者で、有馬記念のウインズがあれほど混むとは思いもよらず、長蛇の列に並んでみたものの馬券を買うことが出来なかったのだ。しかし、あの時、生まれて初めて、競馬のレースを観て鳥肌が立った。最後の直線でオグリキャップが先頭に立った時の、後楽園ウインズを包んだあの異様な空気は、今でも忘れられない。

この本の著者、木村幸治氏はその空気を映画「蒲田行進曲」のラストシーンに重ねる。

(オグリ、来い、来るんだ、オグリ。) 心の中で、わたしも叫んでいた。胸の奥で熱いものが湧いてきた。何かのシーンに似ている。そうだ。映画「蒲田行進曲」のラストシーンだ。<池田屋階段落ち>で、新撰組に扮した風間杜夫の銀ちゃんが、自分のため死を覚悟で階段を転げ落ち、瀕死の重傷を負った安次に、涙で顔をグシャグシャにして言うセリフにそっくりだ。 (ヤス、来い、来るんだ、ヤス、上がってこい、立つんだ、ヤス) 不思議な感覚が、小さな震えが、わたしの全身を襲ってきた。 オグリは下がらなかった。トップを譲らなかった。 ゴール。オグリキャップが勝った。勝ってくれた。メジロライアンを四分の三馬身差に押さえ込んで。信じられないことが、目の前で起きた。奇跡といっていいだろうか。

やはり、競馬のノンフィクションを書かせたら、木村幸治の右に出る者はいないと思う。このくだりは何度読んでも、読むだけであの時の興奮が蘇ってきて、鳥肌が立つ。そして、あのレースを生で観ることが出来たことを、一競馬ファンとして幸せに思う。

馬は誰のために走るか?

その答えは、この有馬記念にある。

現在のランキング順位はこちら

| | Comments (88) | TrackBack (7)

「藤沢和雄の調教論」

Hujisawatyoukyouron 3star_1

昨年度、藤沢和雄調教師は、それまで10年間守り続けてきたリーディングトレーナーの座を失った。それでも、日本競馬のパイオニア的存在であることは事実であり、その調教技術においてはまず右に出る者はいないだろう。あれだけの調教師でも、歯車が噛み合わないと勝つことができない競馬の難しさを再認識させられた。少し時間は掛かるのかもしれないが、いつか再びチャンピオンに返り咲いてくれるはずである。

さて、今から10年前に発行されたこの本であるが、今読んでも学ぶところは多い。まず驚かされるのは、藤沢和雄調教師のスタンスが少しも変わることなく貫かれてきたことだ。変化がないということは、進歩がないということではなく、その調教論の中心となる「馬本位(全ては馬のために)」の思想に一貫性があるということである。馬のためにならないことであれば誰がなんと言おうと絶対にやらないが、しかし馬のためになることであれば苦労は厭わないという強い信念を持って走ってきた10年であることがよく分かる。

私が一番興味深く読んだのは、藤沢和雄調教師が故・戸山為夫調教師のハードトレーニングについて語っている箇所である。ご存知のとおり、藤沢和雄調教師が併せ馬の馬なりを中心とした調教法を採るのに対し、故・戸山為夫調教師はいわゆるスパルタ式で馬を徹底的に鍛え上げるという、一見対極に位置する二人である。

馬を壊すことを恥だと考えている藤沢調教師が、馬を壊しながらも、しかしそれに耐え抜いた馬たちには能力を発揮させることで成功した故・戸山調教師について、意外にもこう語る。

「おそらく強くすれば壊れることを最もよく知っていたのは戸山調教師だと思うし、だから限度も知っていたはずですよ。そしてもちろん、ハードトレーニングのあとのケアの仕方も人一倍知っていたんだと思いますよ。」

逆説的ではあるが、スパルタ調教を課すからこそ、どこまで強くすれば馬が壊れてしまうか、そしてハードトレーニングの後のケアについても戸山調教師は誰よりも学んでいて、さらに実感として知っているというのだ。だからこそ、血統的には二流三流でしかなかった馬たちの中から、ダービー馬2頭(タニノはローモア、ミホノブルボン)を誕生させ得たのである。

「どのくらいやるべきかを知っている」ということは、
「これ以上やってはいけない限界も当然知っている」

馬なり調教の藤沢調教師と、スパルタ調教の戸山調教師が、この点において相通じていたのだ。藤沢流“馬なり”調教とは、一見“馬なり”ではあるが、馬にとっては決して生温い調教というわけではない。併せ馬をしながら、各馬の闘争心をかき立てることにより自ら走らせているのである。厳しくやっておかなければ競馬(実戦)に行って馬を苦しませてしまうことになることは、藤沢和雄調教師は百も承知なのである。やりすぎてもいけないし、逆に中途半端な仕上げでレースに臨ませてもいけないという物差しにおいて、一見対極に位置する二人は、実は同じ目盛りを持って調教していたに違いない。

| | Comments (65) | TrackBack (4)

輓馬(ばんば)

Banba 1star

言わずと知れた、映画「雪に願うこと」の原作であるが、これまで私が読んできた競馬関連の小説の中では最高の作品である。私は映画を観る前に原作を読むと決めているのだが、あわただしくしているうちに、いつの間にか映画の劇場公開も終わってしまっていた。そこで、ようやく取れた今年の夏休みで読み始めたのだが、読み始めるや、まさに直線一気の末脚でラストまで読み終えてしまうほど面白かった。

事業に失敗し、借金取りに追われて、主人公(矢崎学)は輓曳(ばんえい)競馬の厩舎に逃げ込んで来るのだが、そこで出会った人々や馬たちとの交流が彼の凍てついた心を溶かし、遠ざけていた兄(東洋雄)との関係をも近づけることになる。この小説全体を貫く、氷点下の世界の“寒さ”と、人間そして馬が生きていることの“温かさ”が、実に見事に描かれている。

私の心に最も植えつけられたのは、物語の最後に、主人公の矢崎が人生に立ち向かう決意をして厩舎を出て行くシーンである。

「輓馬のレースってさ、人生そのものだと思わないか」 「何?」 「第一障害が二十歳、成人式さ。大人になるための試練なんだけど、後から考えると大したことはないよね。二十歳をすぎれば、今度は平坦路だ。突っ走る。夢中で走るよな。」 東洋雄は眉を寄せたまま矢崎をにらみつけていた。 矢崎が淡々と続ける。 「そして第二障害が男の厄年、数え四十二、満で四十一になる年だ。ちょうど今の俺の歳だな。」 「何が言いたいんだ?」 「おれにとって、今度の借金が第二障害だと思うんだよ。逃げるわけにはいかない。ここまで逃げてきたおれがいうのは何だけど、ここで逃げ出したら、一生逃げなきゃならなくなる。」 唐突に第二障害でのけぞったウンリュウの姿が脳裏によみがえった。 その後、ウンリュウはもがき、苦しみながらも障害を乗り越え、最後の平坦路を走り、結局は三着に入った。

輓馬のレースは人生そのものという比喩が、第一障害を越えて、夢中で突っ走っている私にズッシリとのしかかってきた。と同時に、いずれ私を待ち構える、最大の第二障害を絶対に乗り越えてやるという気持ちがムクムクっと湧いてきたのだ。また輓曳(ばんえい)競馬に勇気をもらいに行きたくなった。


| | Comments (65) | TrackBack (4)

「馬を走らせる」

Umawohasiraseru_1 2star_2

騎手としてよりも、調教師としての小島太が私は好きだ。私の中にいる騎手小島太は、サクラの馬に乗って大レースを華々しく勝つこともあるが、それ以上に、半ば乱暴に見える騎乗をして、人気馬を凡走させてしまうイメージが強い。我慢が利かないというか、自分の馬の強さを証明してやろうという騎手のエゴが先行しての早仕掛けが多かったように記憶している。鎬を削った岡部幸雄や柴田政人らと比べると、騎手としての才能で劣っていたことは、おそらく本人も認めるところなのではないだろうか。

しかし、調教師としての小島太は才能に溢れている。マンハッタンカフェを筆頭に、育て上げた数々の名馬はご存知の通りであるが、その調教法には開業当初からキラリと光るものがあった。馬なり調教に固執するわけでもなく、坂路調教バカでもなく、当時の実力派トレーナーの調教法のエッセンスを見事に融合しながら、小島太流にアレンジしていた。悪く言えばいいとこ取りの調教法であるが、その馬その馬に合わせた調教方法を柔軟に取り込んだ、非常にバランスのいい調教である。

騎手として成功した人間は、プライドが邪魔をして調教師としては成功できないことが多いが、小島太調教師に限っては当てはまらないだろう。おそらく私たちが持っている華々しくて豪快なイメージとは違い、実に繊細で柔軟な、如才のない性格の持ち主ではないだろうか。厩舎を経営するという視点を持ち、スタッフを育てることに重きを置く。そして、何よりも馬を愛してやまない。この本の全編を通して、小島太調教師のそういった人間性が伝わってくる。そういったことも含めて、小島太は騎手ではなく、調教師に向いているのではないかと思う。もし万が一、私が馬主になって馬を預けるようなことがあったとすれば、小島太厩舎も候補のひとつに入れてみたい。

| | Comments (81) | TrackBack (2)

「POGの極」

Pognokiwami3star

「サンデーサイレンス産駒なきいま、POGの勝敗は馬体で決まる」という切り口は面白いが、果たして実際にそうかと言うと疑問である。立派な馬体をしていた馬が1ヶ月後にはガレてしまうこともあるし、形の崩れていた馬がデビューに向けてアッとおどろくバランスを取り戻すことだってある。完成された馬の体の良し悪しを判断するだけでも難しいのに、この時期のまだ完成されていない、最も変化が起こりやすい2歳馬の馬体だけを見て、その将来性を見抜くのは至難の業である。

この本の半分は名前の出せない生産者による馬見論であるが、正直なところ、あまり見るべき所はない。飛節、球節やトモの造りを詳細に解説してはいるが、ありきたりのことであるし、こういった各論は競馬ファンをかえって混乱させてしまう恐れがあると思う。実際に読んでもらえば分かるが、飛節の角度や力強さ、球節の柔らかさやトモの筋肉の質など、誰が見てもその違いは見分けられないだろう。この解説を読む限り、おそらくこの名前の知られていない生産者も、はっきりとした判断基準を持ち合わせていないに違いない。

さて本題だが、私がこの本を紹介したのは、第3章以降に柴田英次氏が語る内容に深い含蓄を感じ、おそらくはPOGに臨むにあたってのヒントが満載されていると考えたからだ。

まずは、「兄弟馬の写真があれば手間を惜しまず見比べる」というのは、まさに正論である。ラフィアンの岡田総帥が成功した理由として、「この馬の兄弟がどんな形に出て、どんな成績だったのか」、「牝系にどういった特徴があるのか」に精通していることを氏は挙げている。さらに、金子オーナーがカネヒキリの兄弟を持っていたからこそ、カネヒキリが走ると判断できたのかもしれないとも述べている。私としても、ディープインパクトが傑作となる可能性をデビュー前に見抜くことができるとすれば、兄弟との比較でしかあり得なかったと思う

そして、種牡馬別に攻略のポイントを挙げているが、その物言いはインサイダーにしてはストレートで、極めて核心を突いている。フジキセキがサンデーサイレンスと全然似ていないという意見には諸手を挙げて賛成するし、走らないフジキセキ産駒の特徴として「重たい」を挙げており、さすが分かってらっしゃると相槌を打ちたい。はっきりとは言っていないが、アグネスタキオン産駒はあまり走らないということは、私もそう思うし、スペシャルウィークがサンデーの第一後継者になるだろうことにも同意見である。最後に、ノーザンファームの強さについても触れているが、つまり、その馬がどこで生産されたかもPOGを攻略する上で大切な要素になるということである

ここでは挙げ切れないほどの数々ヒントは、まさに現場で馬を見てきた経験者ならではで、したり顔の、実は何も分かっていないマスコミ関係者が書いたPOG本とは一線を画している。ちなみに、柴田英次氏のおすすめ新種牡馬はマンハッタンカフェで、クロフネ級の成功の可能性もあるそうである。POGファンだけではなく、馬券ファンにとっても学びのある一冊である。

追記:このエントリーに関して、【キルトクールブログ】のひろく~んさんから厳しいご指摘をいただきました。彼の指摘は99.9%正しく、この本で宣伝されているHPについても、ほとんどぼったくり状態です。POGで馬体診断してお金取れるわけないでしょう!背後のHPまで調べることなく、この本を少し軽率に薦めすぎたかなぁと反省しております。いずれにせよ、POGそのものがビッグマーケットになってきたことを痛感しました。ひろく~んさん、ありがとう。


ranking

| | Comments (94) | TrackBack (1)

眠れぬ夜は

Keibagakuhenosyoutai 2star

昨日の夜はなかなか寝付けなかった。仕事であれだけ疲れ果てたにもかかわらず、ダービーのことを考えてしまうと夜も眠れなかった。もしかしたらあの馬が勝つのではないか、などと想像を膨らませているうちに、心臓はドクドクと脈打ち、遠足前の小学生のように居ても立ってもいられなくなる。馬券を買うだけの私でさえそうであるから、ダービーを前にした、もしかしたら自分にも勝てるチャンスがあるのではないかと思っている騎手は、どんな心境でいるのだろうとふと思った。

ダービーを前にしていつも思い出すのは、この本のあるくだりである。騎手にとってダービーを勝つことは、宇宙飛行士が月面を歩くことと、どこか似た内的体験をするのではないかという一節である。この本の中で私が最高に好きな部分なので、長くなるが引用したい。

「宇宙飛行士の中でも月に行った経験を持つ24人と、他の宇宙飛行士とでは、受けたインパクトがまるで違う。さらに、月に行ったといっても、月に到着して、月面を歩いた人間とそうでない人間とでは、また違う。宇宙船の内部しか経験できなかった人と、地球とは別の天体を歩いた経験を持つ人とでは違うのだ。宇宙船の中は無重力状態だが、月の上は六分の一のGの世界で立って歩くことができる。この立って歩くことができるという状態が、意識を働かす上で決定的に違う影響を与えるような気がする。月を歩くというのは、人間として全く別の次元を体験するに等しい。」

上になぞらえて、山本一生はこう言い換える。

「騎手であることと、ダービーに出走経験のある騎手になることでは、受けたインパクトはまるで違うだろうし、さらにダービーに出走することと、ダービーの優勝ジョッキーになることでは決定的に違っていて、「全く別の次元を体験するに等しい」のである。」

騎手にとって、ダービーを勝つことがどれだけの意味を持つかを、これだけ上手く説明した喩えを私は他に知らない。騎手はダービーを勝つことによって、全く別の次元に昇華する。もしかすると、ダービーを勝つことによって得られる内的体験を求めて、人は騎手になるのかもしれない。

柴田善臣、石橋守、岩田康誠、四位洋文、福永祐一、幸英明、横山典弘ら、ダービーを勝つチャンスを胸に秘めた騎手たちは、果たして今夜は眠れるのだろうか。高田潤騎手はどのような思いで今夜を過ごすのだろう。これまで4勝をしている武豊騎手もまた、今夜は眠れないだろう。そしてあなたも、今夜は眠れぬ最高の夜を過ごすに違いない。


参考図書:「競馬学への招待」 山本一生 平凡社ライブラリー

| | Comments (85) | TrackBack (0)

「G1勝利の方程式」

g1syourinohouteisiki 4star

ダンスパートナー、アグネスデジタル、スペシャルウィークと、数々の名馬を調教してきた白井寿明調教師による競馬論である。立命館大学を卒業後、白井調教師は競馬サークルに飛び込んだのだが、厩務員試験の面接で、「なぜ厩務員になりたいのか?」と聞かれ、「調教師になりたい」と答え、面接官に「ここは調教師の面接会場ではない」と言われた(?)異色の調教師である。

競馬論というよりは調教論というべきかも知れないが、さすが調教師と思わせる数々のノウハウが惜しげもなく公開されている。なによりも特筆すべきは、私たち競馬ファンにも分かりやすいアウトサイダー的な発想で競馬が語られていることである。気がついたら馬が隣にいたというような競馬サークルの人間とは違った感覚で、馬を調教することに向き合っているのが手に取るように分かる。

たとえば、休養明けの馬の仕上がりを見るポイントとして、

「10kg以上減ってたり、10kg以上増えてたりする馬はダメですね。(中略)ここで気をつけて欲しいのは、増減は必ずベスト体重と比較するということです。ベストが450kgだとして、レースを使い徐々に減って436kgで放牧に出した場合、460kgで復帰したらプラス24kgと発表されるわけです。でもベスト体重からはプラス10kg。そういう馬が人気にならずに勝ってしまうことがあります。」

と述べている。馬体重など見ないという調教師もいる中で、まるで馬券オヤジがモニターで馬体重をチェックするような視点で仕上がりを確認している。

そして、調教スタイルもまた、最近主流となりつつある「馬なり調教」とは一線を画している。

「軽い調教をやっていて厳しいレースを勝てるならそれに越したことはないけれども、そういうわけにはいかないのが勝負の世界ですから」
「やはり持ったままの調教で競馬に通用するかというと疑問ですね。我々の場合、厳しいレースに対応するにはハードなトレーニングが必要だと思うからこそ、あれだけの調教を課すわけです。かといって馬の競走生命が短かったかというと、そうではないと思います。」

「馬なり調教」に代表される馬優先主義が浸透しつつある中で、競走馬には強い調教が必要だとここまで言い切れる信念は見事である。もちろん、数々の大きなレースを獲ってきている実績と自信が大きな支えとなっているのだろう。実際に、上に挙げたダンスパートナー、アグネスデジタル、スペシャルウィークたちは、白井調教師によって厳しい調教を課されたからこそ、あれだけのG1タイトルを獲れたにちがいない。

さらに、白井調教師は血統通としても知られ、その実体験に基づいた血統論には説得力がある。特になるほどと思わせられたのは、スペシャルウィークの産駒は馬体が大きく出てしまうので、繁殖牝馬は小さい馬を選ぶべきという意見である。産駒の馬体が大きすぎて、脚元に負担が掛かるため、満足な調教を施せず、素質を引き出してやることができないという。

確かに、スペシャルウィーク産駒で活躍したシーザリオ(450kg台)、インティライミ(470kg台)ともに、コンパクトにまとまった中型の馬体である。それに対して、下級条件をウロウロしているスペシャルウィーク産駒を見ると、500kgを超える馬をよく見かける。また、たとえ大型馬でも、夏場になり絞れると走ることもあるという。字ヅラを見ただけでは分からない、これぞ本物の血統論である。

白井調教師の主観的な要素が強く出ている部分はあるが、全体的には、調教について余すところなく語られた良書である。いい意味でダビスタ的感覚を持ち合わせた異色の調教師に学ぶところは多い。

| | Comments (62) | TrackBack (2)

「安藤勝己の頭脳」

andoukatuminozunou 5star

できればこの本だけは紹介したくなかった、というのが本音である。なぜなら、この「安藤勝己の頭脳」には、競馬の本質が、全く惜しげもなく、至るところに散りばめてあるからだ。おそらく、私たちアウトサイダーだけではなく、騎手、調教師等の競馬関係者が読んだとしても、かなり勉強になるのではないだろうか。もちろん、馬券へのヒントも多く隠されている。

「勝つためには勝つ気で乗らないこと」

全編を通して貫かれている安藤勝己の思想である。

たとえば、安藤勝己騎手と著者の亀谷敬正氏の間で以下のような対話がある(敬称略)。

亀谷 「京都芝1400mでトキオジュリアに乗って1着になりました(1999年10月31日鞍馬特別)よね? あのレースなんか、最初3番手につけていたんですけど、残り600mあたりで安藤さんだけが仕掛けを待っているんですよ、他の馬は仕掛けているのに。ちょうどあの時に、逃げ馬から1秒2離されているんです。ふつう、京都芝1400で勝ちたいなら、あの時点は仕掛けます。」

安藤
「ああ、覚えているよ。でも、あのレースも計算していたわけじゃない。トキオジュリアがあの時点で行く気がなかったから、行かせなかっただけ。」

亀谷
「でも、あそこで『行く気がなかったから行かせなかった』じゃ、コースのデータからは連対するのが難しいということになっていますが?」

安藤
「たしかにレースで勝ちたいなら、あの時点(残り600)で離されるのはイヤだよね。でも、トキオジュリアの場合、あの時点で勝つ気になっても仕方がない。あの時点で『勝とう』と思ったら、今度は逆にゴール前で伸びなくなるような気がしたからね。だから、あそこで『勝とう』とは思わずに、馬のリズムを優先したことで勝てたんだと思う」

亀谷氏の指摘するように、レース展開、コース設定、または馬場状態によって、ここで仕掛けなければならないというポイントは確かにある。しかし、安藤勝己騎手が言うように、それはその馬の走るリズムを崩してまでのことではなく、最優先されるべきは馬の走るリズムなのである。

大前提として、騎手は馬を気持ちよく走らせ、持てる能力を全て発揮させなければならない。そのためには、人間(騎手)が馬を動かすのではなく、馬のリズムに合わせて人間(騎手)が動かなければならない。つまり、そこで人間の『勝ちたい』という意識は邪魔になり、(自らは)何もしないという態度を貫かなければならなくなる

しかし、分かっていても、実際そのように乗れる騎手は少ない。ペースが遅ければ動いてしまうし、前に行く馬の手ごたえが良く見えれば焦って仕掛けてしまう。ほんのわずかでも、騎手が『勝とう』と思ってしまうと、馬は敏感に反応して動いてしまうのだ。勝つために乗っているのに、『勝とう』という意識を捨て去ることは常人に為せる業ではない

もしかすると、馬券も同じなのかもしれない。

「勝つためには勝つ気で賭けないこと」

うーん、難しい。

| | Comments (95) | TrackBack (1)

「無痛化」する競馬予想界のゆくえ

「無痛化」とは、森岡正博氏(生命学者)によって提唱された概念であるが、今あるつらさや苦しみから、我々がどこまでも逃げ続けていけるような仕組みが、社会の中に張り巡らされていくことである

たとえば今、私はこの文章を、電気に煌々と照らされた、暖房の利いた暖かい部屋で、沸かしたてのコーヒーを片手に書いている。そして、この文章を読んでいるあなたも同じ。ほんの1世紀も前であれば考えられない光景である。寒ければ暖房のスイッチを押せばよく、暗ければ電灯を点ければよい。苦しみから我々が次々と逃げ続けるために、テクノロジーは発展し、文明が進歩したのは紛れもない事実である。文明の進歩とは「無痛化」の歴史に他ならない。

「無痛化」は、競馬予想界においても避けては通れない。「どうやって予想していいか分からず、馬券を外してお金を失う」というつらさや苦しみから手っ取り早く救ってくれる仕組みが、我々の周りのあちこちに転がっている(ように見える)。私の個人的な見解ではあるが、日本の競馬予想界における「無痛化」の先駆けは、1969年の柏木久太郎のコンピューター予想ではないだろうか。コンピューターを駆使した予想で的中率84%を標榜したが、いつの間にか消えていなくなった。その後、アンドリュー・ベイヤーによって「スピード指数」が発見され、西田和彦や石川ワタルもそれに続いた。それ以来、今に至るまで、科学文明の発展に歩みを合わせるように、~の法則、~理論、~システム、~値といった必勝法のゴールドラッシュの勢いは止まるところを知らない。

しかし、本当のところ、馬券で損をするというつらさや苦しみからは決して逃れることはできない。簡単で確実なはずの必勝法は、手にした途端、使い勝手の悪い、たまにしか的中することのないゴミと化す。たとえ的中しても、あまりにも買い目が多すぎて結果的にマイナスになってしまうこともあるだろう。それでも、必勝法は当った勝ったと大騒ぎする。これまでの負けを全て忘れ、水に流したと言わんばかりに。馬券で損をするという病に効く薬はないし、必勝法を生み出す詐欺師、それにすがる愚か者に付ける薬もない。

何よりも悲しいのは、競馬予想界の「無痛化」によって、我々が考えることからも逃げてしまうことだ。もし万が一、苦しみから次々に逃れて行くことの出来る必勝法があるとしても、その後に何が残るかというと、快楽、快適さ、安楽さしか残らない。するとどうなるかというと、当たって気持ちがいいけれどもよろこびのない予想になる。

必死になって考え、答えを導きだそうというつらさや苦しみから逃げてはいけない。よろこびは自分の頭で考えることでしか生まれない。競馬好きが100人いれば100通りの予想があるべきで、自分の予想が当たることも外れることもあるだろう。たとえ当たっても外れても、その予想が自分の頭で考えられたものであれば、そこには何ものにも代え難いよろこびがあるのではないだろうか。


seimeigaku


blogranking


| | Comments (67) | TrackBack (13)

Gallop2005-JRA重賞年鑑-

gallop2005 4star

かなり昔から思っていたことなのだが、この内容でこの値段は安い!オールカラーでレース写真は綺麗だし、木村幸治らの「書き下ろしG1激走譜」も読み応えがある。おまけに特別付録まで付いている(今年はディープインパクトのカレンダー)。予想をする上でも非常に役立つので、通常のGallopは1年間保管後に捨ててしまうが、この「JRA重賞年鑑」だけは’89年版から永久保存している。

私が特に重宝しているのは、G1ごとのデータである。

「競走成績表」
「レース後の騎手のコメント」
「レースラップ」
「勝ち馬の血統表」

この4つを、目を皿のようにして見ることによって、レースの全体像が再び浮かんでくる。ここでレース映像を併せて観ることができればなおよい。この作業をG1全てのレースについて行っていくと、馬と馬がつながり、レースとレースがつながってくる。点と点がつながって、線になってくるような感覚である。これはやってみた者にしか分からない。

さらに、2004年版から「馬柱」が加わったことにより、そのレースの時に戻った気持ちで、もう一度予想をすることができるようになった。「今ならこう考える」、「今でもこのレースは当たらないなぁ」などと、下らぬシュミレーション(空想)をするのだ。

今年の年末年始も、このGallop「JRA重賞年鑑」を読み耽ることになるだろう。今年一年の悲喜交々が蘇ってきて、競馬を改めて復習することができる。また、感情的にならずに反省することができるため、気付かされることも多く、思わぬ発見があったりするのも嬉しい。


blogranking

| | Comments (94) | TrackBack (4)

「調教師伊藤雄二の確かな目」

itouyujitasikaname 5star

「調教師伊藤雄二の確かな目」という、この本のタイトルに偽りはない。著者である鶴木遵氏の力量もさることながら、馬を扱うプロからの視点で語られる競馬には、やはり確固たるものがある。取るに足りない馬券本が蔓延る昨今、競馬の本質を教えてくれる稀有の書物といってもよい。

二人の対話形式で頁は進むのだが、その真骨頂は伊藤雄二調教師のG1レース回顧にある。レースの真実を余すところなく語っていて、競馬の奥深さを感じざるを得ない。また、本質をズバリと突いた発言も大御所ならではのものであり、質こそ違え、故野平祐二氏に匹敵するほどの迫力を持っている。

いくつか例を挙げて紹介したい。

2005年の高松宮記念について 「プレシャスカフェは完全に仕上がっていました。しかし、スタートで出遅れ。挙句の果てにはそのまま一気に前に前にと動いて、ゴール前でいつもの伸びを欠いてしまった。一度もタメルことができなかった蛯名正義の騎乗は、やはり彼らしくないミス騎乗といわざるを得ません。」
→おっしゃる通りです!あれだけの稚拙な騎乗を批判しないマスコミは、やはりおかしい。「週刊Gallop」でレース回顧をしている柴田政人元騎手の、当たり障りのないコメントにはもう我慢できません。
2005年の桜花賞について 「吉田稔君は自分でレースを創るのではなく、そのレースに合わせてしまう。これはもうウィークポイントといってもいい」
→ちょっと厳しい意見ですね。吉田稔騎手にとっては、悔いても悔やみ切れないレースでしょうから。とはいえ、偶発的に見えたシーザリオが挟まれたアクシデントも、吉田稔騎手のウィークポイントがわずかな隙を創ってしまったものかも知れません。
2004年の天皇賞春について 「岩田君とかこれまでJRAの騎手でなかった小牧太君が2番手3番手につくと、必要以上に抑えすぎて落し蓋のような役割をしてしまうことがあるんです。天皇賞春を演出したのは、2番手3番手の馬だとボクは思うんです。」
→なるほど。そういう見方もあるんですね。有力馬(ネオユニバース、ザッツザプレンティ、リンカーン)が弱すぎて自分から動けなかった、と私は単純に解釈していました。勉強になります。
2002年の有馬記念について 「最初の4コーナーで急激にペースを落として、また向こう正面で急激にペースを上げるなんていうのは、王道の競馬ではないんです。佐藤君の騎乗は、ファインモーションを負かす騎乗ではありましたけど、シンボリクリスエスを負かす競馬ではなかったということです。ボクとしては欲求不満の残るレースでしたけど(苦笑)」
→これはかなり個人的な主観が入ってますね(笑)。そもそも、競馬に王道の乗り方なんてありません。佐藤哲三タップダンスシチーはあの当時は人気薄で、勝つためには奇策を弄するのも当然です。結果的にも、ファインモーションに先着していますし、あわやシンボリクリスエスを負かすかというところまでいきましたから。あれはあれで、最高の騎乗だったのではないでしょうか。

また、伊藤雄二調教師は自身が元騎手だったこともあり、騎手に対する温かい視線も忘れない。騎手を育てるのも調教師の役目のひとつであることを理解しており、日本競馬の全体のレベルアップを最も望んでいる調教師のひとりであろう。

ファインモーションをG1まで導いた松永幹夫騎手に対して 「一番大事な時期に乗ってくれましてね、一度として無理をさせることもなく、ちゃんと馬に競馬を教えていってくれた。ローズSでも、次にはユタカ君が乗る前提で乗ってもらいました。レース後に、『乗せてもらえて幸せです。いい経験をさせてもらいました。ありがとうございます。』と言ってくれたんですよ。すごい言葉です。この言葉だけでも、ミキオ君の人間性と人格を、ボクは見たような気がします。」
→平成17年天皇賞秋での、馬上で頭を下げる松永幹夫騎手の美しい姿がオーバーラップしますね。この言葉を言える松永幹夫騎手だけでなく、大御所になった今でもそういった機微を感じることのできる、伊藤雄二調教師の人間性と人格が垣間見えます。
10年ぶりに騎乗を依頼した藤田伸二騎手に対して 「元々いいものを持っている騎手なんですからね。31歳のいま、それに気付いたとしてもそれは少しも遅くはないんです。若いときに多少の無茶をしたり、あるいは人生経験の拙さから自分自身をいびつな木に育ててしまったとしても、ある瞬間に本人の危機感や自覚のハサミできちんと剪定し直したなら、一瞬にして素晴らしい木に変わるんです。」
→どこのものとも分からない若手騎手を、10年間も成長を願いながら見守り続けてきた、その大きさに敬服します。こんなトレーナーの馬に乗りたい、と思うのは当然のことですよね。

とにかく、全編を通して競馬の本質、魅力、奥深さが語られており、この本が4年の歳月を掛けて熟成されてきたというのも納得させられる。番外編としての、ディープインパクトを生産したノーザンファームの吉田照哉氏、そして騎手としての岐路に立つ横山典弘騎手との火花が散るような対談も見逃せない。もっと競馬を知りたいという人にとっては、極上のテキストになることは間違いないだろう。

| | Comments (81) | TrackBack (1)

シービスケット

seabiscuit 1star

「シービスケット」は原作も読み、その後に映画も観た。どちらが良かったかというと、圧倒的に原作である。当たり前のことだが、シービスケットを取り巻く登場人物たちの劇的で波乱万丈な人生は、2時間という映画の枠には収まりきらない。

シービスケットを筆頭に、片目が不自由な赤毛の騎手レッド、西部の自動車王ハワード、寡黙な調教師スミス、そして、個人的に好きだった“アイスマン”ウルフ、それぞれがそれぞれの人生を、泥臭いながらも徹底的に生きている。そんな徹底した泥臭さが、世界恐慌に苦しむアメリカ人の共感を呼んだというべき、実在のストーリーである。

とは言っても、私の場合、ほとんどこの物語に心を動かされることはなかった。500ページを超えるこの原作を読んだにもかかわらず、実のところ、ある一小節のサラブレッドに対する記述しか印象に残っていない。というよりも、その一小節があまりにも素晴らしかったため、原作の印象が薄れてしまったと言うべきか。

----------------------
サラブレッドは、神が創りたもうたもっとも素晴らしいエンジンのひとつだ。

六百六十キロにもおよぶ体重で、時速六十キロ以上のスピードを維持することができる。

もっとも敏捷な成年男子の能力をはるかに上回る反射神経を備え、一完歩で八・五メートルもの距離を進み、無駄のない動きでコーナーを回る。

馬体は重量感と軽やかさのパラドックスで、矢のようにやすやすと空を切ることができ、頭はたったひとつの命令にしか反応しない――走れ。

無比の勇気でスピードを追い求め、敗北や疲労をものともせず、時には骨と腱の構造的な限界をも超えて走り続ける。

飛翔中のサラブレッドは、自然界における、形態と目的のもっとも完璧な融合だ。
----------------------

これほどまでにサラブレッドの素晴らしさを表現した言葉を、私はかつて知らない。何度読み返しても、美しい描写である。この美しき詩を前にして、クドクドとした説明は不要だ。さあ、もう一度。

| | Comments (75) | TrackBack (1)

「競走馬私論」 -その2-

kyousoubasiron 5star

ゼンノロブロイのインターナショナルSは残念だったが、それでも藤沢和雄が日本一の調教師であることは疑いようがないだろう。これからも挑戦を続けてほしい。今回は馬のウォーキングについて。

第5章「馬が悪くなってしまう原因」より

競走馬にとって「きちんと歩く」ことは非常に大切である

(中略)

脚を引きずってデレデレ歩くのではなく、きちんと脚を上げてリズミカルに歩く。馬にもそういう歩き方をさせるのである。

これは普通の歩き方ではないから、馬に「歩く」という意識、あるいは緊張感が必要である。人に引かれて歩くときは常にそういう歩き方をするのだとしつけておくと、馬は精神的に強くなる。我慢が効くようになると言ってもよい。しかも、こうして歩いているときは、馬がそれに意識を集中しているので、急に暴れたりすることがない。

(中略)

競馬場のパドックでは、厩務員が出走馬を引いて歩く。このとき人馬ともに「きちんと歩いているか」を見るとよい。素質の高い馬で人気になっていても、きちんと歩いていない場合には、レースで気の悪さを出して―――ということが起きたりする。きちんと歩けない馬はきちんと走れないのである。

「きちんと歩けない馬はきちんと走れない」とは、まさに言い得て妙である。

パドックにおいて、私たちはついつい馬体を見てしまうが(見ても分からないにもかかわらず)、何よりも先に見るべきは馬の歩き方なのである。普段からきちんと歩く訓練をしていないと、パドックでもきちんと歩くことはできない。パドックできちんと歩けない馬が、レースに行ってきちんと走れるとは思えない。いくら素質が高く、能力に溢れていたとしても、人間(騎手)の指示に従わずに暴走してしまってはレースで勝利するのは難しいのである。

理想的な歩き方としては、首を下げて、トモ(後肢)を深く踏み込み、歩くことに気持ちを集中しているということ。これが意外と難しく、急に首を上げてみたり、小足を使ってチャカついてみたり、あたりをキョロキョロと見回してみたりと、オープンクラスの馬でもきちんと歩けない馬もいる。もちろん、上のクラスの馬ほどきちんと歩けるし、古馬の方が若馬よりもきちんと歩ける。きちんと歩けるということは、その馬の競走馬としての資質をストレートに表していると言えるだろう。

ましてや、パドックで順番に歩けない馬など論外である。パドックでは出走番号順に登場し、周回を重ね、そして番号順に退場していく。1番の馬の次は2番の馬で、その次は3番の馬である。そのように歩くのがルールなのだ。しかし、たまに1番、2番、4番というように、3番の馬が番号順の周回から外れてしまっていることがある。どこに行ってしまったのかと見回すと、一番後ろにポツンと付いて回っていたりする。他馬が後ろや前にいることを気にするのだろうか、それとも人間の言うことに従わないのだろうか。いかなる理由があろうとも、この3番の馬はきちんと歩くことができない馬である。このようにきちんと歩けない馬は、まずレースでも勝てない。

すでに自分が買ってしまった馬が、パドックできちんと順番に歩けていないと非常にがっかりしてしまう。この時点で、既にハズレに確定の赤ランプが灯ったようなものだ。いまだかつて、このような馬が好走した記憶がないし、案の定、凡走してしまったというケースがほとんどである。つまり、きちんと歩けないということは、それだけで馬券の対象から消す十分な根拠となりうるのである。


| | Comments (85) | TrackBack (0)

「ツイてる!」 斉藤一人著

tuiteru 2star

競馬に役立てようと思って読んだわけではないが、「なるほど、これは競馬でも使えるかも」という箇所があったので紹介したい。あくまでも精神論としてではあるが。以下、二章「実力は人間の力、ツキは天の力」からの引用。

----------------------
「勝負強い人」というのがいるんです。そういう人は、たいがい、「自分はツイてる人間だ」と思っているんだ、ということです。ツキって、強いんです。実力よりも、ツキのほうが上です。なぜかというと、実力は人間の力だけど、ツキは天が与えるものだから。「あの人より私のほうが実力では上なのに。どうして私が負けるんだ?」と人は言うけれど、私に言わせると、負けて当然なのです。あの人とあなたの勝負ではないんです。あなたと天が勝負している。それで、たいがいの人は天には勝てないものなんです。
----------------------

ここまでハッキリと言われると、分かってはいても正直ドキッとする。つまり、いくら実力があっても、ツキがなければ勝てないということ。特に競馬の世界はそうだろう。ウン十年間馬券を買い続けているオッサンがかすりもしない馬券を、初めて馬券を買った女の子が的中させたりすることはざらにある。実力なんて所詮は人間の力であって、最終的にはツキという天の力を借りないと勝負には勝てないことは、競馬をやっていれば誰もが思い知らされる。

では、どうすると天からツキを与えてもらえるか?

この本の著者いわく、「いつも笑顔でいる」、「ツイてると言葉にする」、この2つを実践することが大切だそうだ。簡単なようで、難しい。馬券を買うまでは笑顔でツイてると言えたとしても、もしそれで外れてしまったらどうするのか。その後も、笑顔で「ツイてる!」と言える自信は、正直私にはない・・・。自分のひきつった笑顔が目に浮かぶ。

他にも、「売れるか売れないかよりも、笑えるか笑えないかが大事」や、「○×試験に何も書けないことが人生の大失敗」、「恐れをなくすと、壁はぶち破れる」など、馬券に役立ちそうな言葉が満載である。私流に読み替えると、「当たるか当たらないかよりも、その馬券を買って楽しいか楽しくないかが大事」、「何も賭けられないことが予想の大失敗」、「こんなに人気のない馬は来ないだろうと自分で限界を決めてはいけない」となる。

こんな風に自己啓発本を読むのは私くらいかもしれないが、汎用性のある精神論を、とにかく分かりやすい言葉で語っている良品である。競馬で「ツイてる!」と思えるかどうかはあなた次第として、ぜひご一読あれ。

| | Comments (82) | TrackBack (2)

「競走馬私論」 藤沢和雄著

kyousoubasiron 5star

一流の仕事人によって語られると、やはり中身の濃い、一流の書物が出来上がるものである。「競走馬私論」というタイトルのこの本には、競走馬論をはるか通り越し、教育書、ひいては哲学書として読まれてもおかしくないだけの内容の奥深さがある。

もちろん、かなり突っ込んだ調教論が展開されているため、馬券のヒントも所々に隠されていることは間違いない。流し読みするには勿体なく、小説家が小説を読むように、詩人が詩を詠むように、テキストに沿って解釈していきたい。

少々長くなるが、第2章における「馬は痩せていてはいけない」からの引用。

よくパドックの解説で「うっすらとアバラが浮いた、ギリギリの仕上げ」という言葉を耳にするが、私に言わせれば、やりすぎである。仮にそれでいつもより少しばかり速く走れたとしても(私は速く走れるとは思わないが)、そういう体で目一杯のレースをしたら、馬はそのあと、どうなるのか。そんな競走生活を、二年三年と続けさせられる馬は、はたしてハッピーだろうか。レースのときさえ速く走れれば、そのあとはどんな状態になってもよいという考え方には賛成できない。

(中略)

たしかにレースに出走する馬は、体が出来上がっていなければならないが、痩せていてはダメである。レースで勝ち続けるには、力強い馬体に、元気が満ちていなければならない。

まさに、これぞ藤沢調教論の本質である。藤沢調教師と、他の多くの調教師との間にある、たったひとつの大きな違いがここにある。目一杯に仕上げてしまうか、そうでないか、の違い。目一杯に仕上げてしまうことを、藤沢調教師は「やりすぎ」とする。

その後のことを考えずに100%に仕上げてしまってはいけない。肉体的にも精神的にもダメージを受けた馬は、次第に走ることが嫌になり、それを強いる人間に対しても反抗的になる。果たして、その馬の成績は尻すぼみとなり、競走期間は短いものとなる。

もちろん体が出来上がっていなければレースにならないので、80%程度の仕上げでコンスタントに競争に臨ませることになる。肉体的にも精神的にも、多少の余裕を持たせた状態で出走させるのである。馬に力があればそれでも勝てる。果たして、その馬の能力に相応しい成績を残すことができ、競走期間は長く充実したものとなる。私もこの調教法には大いに賛成である。

狙ったレースを勝つために、馬にギリギリの仕上げを施すことは、人間のエゴに他ならない。究極的には、馬にとっても、人間にとっても、マイナスの効果を生んでしまうことになるだろう。クラシック等の大きなレースを獲るために、人間の枠に当て込まれながら無理な調教を強いられ、成長を阻害されてしまったり、故障して競走能力を失ってしまったり、最悪の形としては死に至るサラブレッドがどれほど多くいることか。価値のあるG1レースを獲ろうとも、高額な賞金を稼ごうとも、その馬を傷つけてしまったり、未来を閉ざしてしまったり、その馬に期待する関係者やファンの夢を壊してしまっては元も子もないのである。

ところで、藤沢調教師が、何気なくひとつ重大な見解を示しているのにお気づきでしょうか?

先ほどの引用文の途中における、仮にそれでいつもより少しばかり速く走れたとしても(私は速く走れるとは思わないが)、という示唆。あくまでも私の主観ではあるがという形を取ってはいるが、『ギリギリに仕上げても馬は速く走れない』、とサラブレッド調教の根幹を揺さぶりうる発言を行っている。

なぜ根幹を揺さぶるかというと、ほとんど全ての調教師は、『鍛えれば鍛えた分だけ強くなる』という前提において馬に調教を施しているからだ。だからこそ、故障と隣り合わせの厳しい調教を馬に課すことになり、速く走るために必要な筋肉以外は全て削ぎ落とし、0,1秒でも速く駆けることのできる肉体を作り上げる。馬を壊さないギリギリのさじ加減の調教が最良の調教であり、それを実践して馬に結果を出させることが調教師の務めだと考える。もし万が一、鍛えても速く走ることができないならば、サラブレッドを調教するということの意味が問い直されなければならない。

しかし、私の結論から述べてしまうと、この良書を通じて、この点だけは唯一、私は藤沢調教師と見解を異にする。

「サラブレッドは鍛えれば(少しばかりは)強くなるし、ギリギリに仕上げると(少しばかりは)速く走ることができる」

あくまでも(少しばかりは)という括弧付きではあるが、その(少しばかり)が勝負の行方を左右することになるのだ。サラブレッドの競走は0,1秒を争うものであり、わずか鼻の差でレースの勝敗が分かれてしまうことは少なくない。相手よりも鼻の差だけでも前に出ることができれば、勝負に勝つことができる。そのわずかな差を埋めるために、(少しばかり)速く走ることが必要になるのである。

同じサラブレッドを80%に仕上げた時と、100%に仕上げた時で、一緒に走らせたと仮定すると、間違いなく100%に仕上げられた時の方が勝利を収めるだろう。最後のひと踏ん張りが違ってくるからだ。これまで、限界まで仕上げられたサラブレッドが激走するのを数多く見てきた経験からも、このことは自信を持って言える。たとえば、平成11年のNHKマイルカップを勝った時のシンボリインディは、ギリギリの仕上げであり、己の能力を極限まで出し切っての勝利であった(このレースでは、藤沢調教師の思惑に反して、シンボリインディが仕上がり過ぎてしまったのであろう)。

しかし、100%に仕上げられた方は、肉体的にも精神的にも大きな反動に襲われる。そのレースが最後であれば、それでいいかもしれない。2003年の有馬記念を勝って引退したシンボリクリスエスは、まさにこれが最後のレースといった渾身の仕上げであった(このレースでは、何が何でも勝つといった姿勢で、臨戦過程における調教の厳しさは、普段の藤沢調教師のそれとは明らかに異なっていた)。ほとんどのサラブレッドの競争は1回で終わるわけではなく、その後も続いてゆくものだ。目先の勝ちだけを追って、馬の成長や将来を考えない調教は、長い目でみるとマイナスの効果しか生まない。

藤沢調教師は、誰よりもそのことを身に染みて分かっている。だからこそ、たとえ仕上げてしまえば勝てるかもしれないレースであっても、ギリギリの仕上げを施すことなく、余裕を持たせて出走させる。我慢をすることができるのだ。だからこそ、藤沢調教師の管理馬は、故障が極端に少なく、高齢までコンスタントに走り続ける馬が多い。

大事に育てていけば、『夕鶴』じゃないけど、ウマの恩返しは必ずあると思います

こんなロマンチックなコメントも、藤沢調教師だからこそ許されるのではないか。

■「競争馬私論」その2へ→http://www.glassracetrack.com/blog/2005/08/__a837.html

| | Comments (96) | TrackBack (1)