「恩馬」フクリュウの思い出
昭和30年の秋、私は稗田敏男調教師から1頭の牝馬への騎乗を依頼された。旧年齢表記で4歳馬だった牝馬は、父クモハタ、母十九照、母の父セフトという血統。依頼を受けたときのフクリュウは3勝馬。オークスにも出走したが、札幌記念、条件戦と2回続けて惨敗していた。稗田調教師から騎乗依頼があったのは、競馬でバリアーが上がっても、しばらくスタートしなかったために、出走停止となった直後のことだった。
「いっぺん乗ってみて」
と稗田調教師から言われて調教にまたがってみたら、フクリュウは怖い馬だった。
感受性が異常に強すぎ、少しでも自分が気に入らないことがあると暴れまわるのだ。また、鞍上が馬の意に沿わないことをさせようとすると意地を張り、体を硬直させ、押そうが引こうがムチを入れようが、テコでも動こうとしなくなる。まさに、ヒステリーを絵に描いたような馬だった。
さらに、フクリュウの顔色を見て怖くなった。
私がまたがると、顔色が紫色に変わったのだ。もしかすると、なにかをきっかけに人間との信頼関係が崩れてしまい、人間不信に陥っていたのかもしれない。
それからの私は、フクリュウと心を通わせようと、調教であらゆる手段を尽くした。
(中略)
フクリュウとのコミュニケーションは、父、野平省三から聞かされた、馬に乗る極意と同じだった。
「乗り手は、馬のリズムを会得して、初めて馬に乗ったといえる」
から始まり、
「風に稲穂のゆれる如く馬に乗れ」
と言われたほか、
「鞍上に人なく、鞍下に馬なし」や「人馬一如」
という言葉を何度も聞かされた。
(中略)
フクリュウとのコンビでやってきた積み重ねが、他人から見離された馬たちを、私にとっては最も得意な馬にしたのである。
欠点の多い馬。
どこかいじけて、走る気を失ってしまった馬。
素質はあるのに、人間を信頼できず、拒絶する馬。なにかがきっかけとなって頑張れなくなり、力を出し切れないという馬たちが、好きでしょうがない。私がなんとかしよう、という気持ちになって真摯に向かい合えるからだ。
そんな馬たちから100%の力を引き出してやるのが、騎手の本当の仕事だと私は思う。クセ馬という言葉があるが、私は、生まれつきクセのある馬など1頭もいないと思っている。
要は人と馬の心の問題。ムチで叩けばなんでもいい、という考えだけはしてはいけない。それでは、臆病で繊細な馬たちは決して心を開こうとしない。
優しく馬に接し、馬が自分から走ろうとする気持ちにさせるのが、乗り役の役割なのである。
(「口笛吹きながら」)
跨った数々の名馬の中で、決して1流とは言えないフクリュウを、祐ちゃんは恩馬として挙げる。人と馬の呼吸が少しでも合わないと、硬直してしまって、前にも後にもどうにも動かないフクリュウ。外見は貧弱で神経質な牝馬が、ジョッキーとしての野平祐二を開眼させ、リーディングジョッキーにまで育ててくれたという想いが、そこには込められている。名騎手は名馬によって育てられるというが、祐ちゃんは凡馬によっても育てられたのである。
祐ちゃんがフクリュウにしたことは、調教で跨る前に、まず手のひらでフクリュウの首をなでてやりながら、「怖い人間じゃないよ」と語りかけることであった。母親が赤ん坊をそうするように、フクリュウとスキンシップを取った。語りかけながら首を撫でると、ほとんどの馬は目を細めて安心するという。そうなれば、馬はだんだんと人間に対して心を開いてくれるようになる。フクリュウの顔色は見る見るうちに変わり、祐ちゃんが乗っても普段の顔色と同じになっていったのである。
祐ちゃんとの呼吸が合ったフクリュウは、オープン馬を相手に逃げ切り勝ちを収めた。そこから11連勝することになった。ジョッキーが何もしなくても走るような強い馬であれば、背中に誰が乗っても結果はほとんど同じだろう。しかし、そういった強い馬はごく一握りであり、弱い馬の方が圧倒的に多い。臆病で繊細な馬と真摯に向かい合ってゆくことこそが、馬を作るということなのである。
馬とコミュニケーションを取り、信頼関係を築き、同化すること。レースでは、スタートからゴールまで、ジョッキーの心と体はサラブレッドと一体となり、人馬が同じリズムを刻んで走る。それを祐ちゃんはフクリュウに教えてもらったのである。
今年のダービーを、エイシンフラッシュと共に制した内田博幸騎手は、競馬の魅力についてこう語っていた。
「騎手もそうですけど、競馬では馬もアスリートですから。鍛えられた馬に乗って、呼吸を合わせてライバルと戦って勝たなければならない。生きものと呼吸を合わせるというのはスポーツの中でも特殊ですよ。それは美しいスポーツのひとつじゃないかと思います」
競馬というスポーツの美しさを、これほどまで的確に表した言葉も少ない。自分とは異なる肉体や心を持った生きものと、呼吸を合わせてゴールを目指す。2者の身体と心がひとつになり、勝利した瞬間の喜びは計り知れない。それがダービーであれば、どれだけの幸福と一体感だろう。有力馬に跨ったジョッキーたちが揃って馬群に沈む中、閃光の如く直線を駆け抜けたエイシンフラッシュと内田博幸騎手は、まさに「鞍上に人なく、鞍下に馬なし」、「人馬一如」の美しさであった。
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