騎手・岡部幸雄の本質
岡部幸雄の本質を私の中で改めて浮き彫りにさせたのはスティンガーという4歳牝馬だった。それも彼が手綱を取っていないときのスティンガーの姿やレースを見てのことだ。武豊が騎乗して鮮やかな直線一気の圧勝を演じた京王杯スプリングCと、田中勝春が騎乗して4着に敗れた安田記念。この2戦に出走したスティンガーの背景に岡部の姿が鮮明に浮かび上がっていたのである。
というのも、世界に出しても恥ずかしくない現在のスティンガーを見事に作り上げたのは、彼という存在なしにはありえないからだ。
一流のレースで勝ち負けのできる馬は生まれつきの素質、資質が必要なのは当然。スティンガーはマイラーの資質があった。だが、それだけでは単なるマイラーで終わっていただろう。
いまのスティンガーは、資質に「好位で揉み合って抜け出せる強さ」というプラスαを身につけている。関係者と岡部が「スティンガーを単なるマイラーにしたくない。2000mでも勝てる馬にしたい」と願って、レースや調教でじっくり教え込んだからにほかならない。
私から見れば、「何もそこまで苦しめなくていいだろう」と思うほど道中でためることを教え込み、脚力と精神力の強さを作り上げていったのである。地のままでは昨秋の天皇賞で見せたような粘りはできなかったはず。
(中略)
スティンガーは、人間が理想の形に見事に作り上げた最近の一例である。
これは厩舎スタッフの考え方も絶対に必要だが、サレブレッドを完璧に仕上げようとする岡部の思想も大きい。いまのスティンガーを作り上げたのは、彼の思い込みである。
「自分の乗った馬を、力で相手をねじ伏せる馬にしたい。そのためにはもう少しこうなればいい」という激しい思い込みが、彼を理想の馬作りへと導くのだ。「思い込み」を「愛」という言葉に言い換えてもいい。
彼は愛ゆえに、どんな馬も、完璧な馬にしようと乗り尽くしている。それが、むしろ痛々しく感じられることもあるのだけれど…。
(「口笛吹きながら」より)
岡部幸雄元騎手は、最も私の競馬観に影響を与えたジョッキーかもしれない。彼の語った言葉を聞き、彼の騎乗するレースを眺めて私は育った。彼の唱えた「馬優先主義」という考え方は、ホースマンなら誰しもが共感するところだろうが、第一人者がメッセージとして発し、実践したことで、改めて私たちの心の深い部分に染み入ったのである。同じレースに騎乗したことのあるジョッキーであれば、少し大袈裟に言うと、それはもう遺伝子のレベルにまで影響を与えたのではないだろうかとさえ思えるのだ。
騎手が馬を作る。作るという表現がしっくり来なければ、育てると言い換えてもよい。そんな当然のことが、当然のこととして行われた時代があった。今となっては、調教師を筆頭する厩舎全体は、アウトソーシングをしながら馬房を効率良く回すことが第一優先で(これを「馬房優先主義」という)、時間を掛けて1頭の馬を作り上げてゆくことが極めて少なくなった。
ではレースで育てようと思っても、乗り替わりが激しいため、まずは目先の勝利にこだわらざるを得ない。負けてもいいから色々なことを教えようなんて考えていると、次は外国人ジョッキーに手綱を持って行かれたなんてことになってしまう。もしかすると、岡部幸雄元騎手は、ジョッキーが馬を作ることが出来た最後の世代だったのかもしれない。いつの間にか、ジョッキーは強い馬に跨って、先頭でゴールを駆け抜けてさえいれば良くなった。
そんな時代の中でも、懸命に馬を作らんとするジョッキーもいる。
たとえば、安藤勝己騎手はレースよりも調教が上手いと言われているジョッキーである。彼の騎乗した数々の名馬の中でも、ダイワスカーレットという名牝がいるが、この馬は安藤勝己騎手が作り上げた馬と言っても過言ではないだろう。レースだけではなく、調教でもその背に跨り、ジョッキーと呼吸を合わせながら競馬で最も速く走ることを教えていった。底知れぬ能力を秘めた牝馬であったが、安藤勝己騎手でなければ、果たしてその素質が開花していたかどうか。単なるマイラーで終わっていた可能性も十分すぎるほどある。
また、最近で言うと、佐藤哲三騎手とエスポワールシチーのコンビもそうだろう。高い能力はあっても、レースでは自分にブレーキをかけるようなところがあった同馬を、佐藤哲三騎手は普通の馬の何倍もの時間をかけてG1馬へと育てていった。速く走ることを強要してくる人間に対して不信感を持っていたエスポワールシチーの心を、佐藤哲三騎手は散歩に連れ出したり、付きっ切りで調教をつけたりして解きほぐしていった。レースでも様々な課題を課しながら、勝ったり負けたりを繰り返しつつ、どんなレースにでも対応できるよう教えていった。エスポワールシチーも佐藤哲三騎手の期待に応えるべく、いや、期待以上の成長を遂げたのだ。
馬を作るのは「思い込み」である。馬は既製品ではない。もっとこうなれば良いという「愛情」がなければ、馬は育たない。そんな当たり前の、馬とジョッキーの信頼関係が希薄になって久しい。日本を代表するトレーナーである藤沢和雄調教師が、“ジョッキー”と呼んだのは岡部幸雄元騎手だけだそうである。馬に対する「思い込み」や「愛情」がなければ“ジョッキー”ではない、という強烈なメッセージがそこには込められている気がするのだ。人間が馬を作り、その過程の中で人間が育てられてゆく。そこに競馬というスポーツの本質であり原点がある。








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