「恩馬」フクリュウの思い出

昭和30年の秋、私は稗田敏男調教師から1頭の牝馬への騎乗を依頼された。旧年齢表記で4歳馬だった牝馬は、父クモハタ、母十九照、母の父セフトという血統。依頼を受けたときのフクリュウは3勝馬。オークスにも出走したが、札幌記念、条件戦と2回続けて惨敗していた。

稗田調教師から騎乗依頼があったのは、競馬でバリアーが上がっても、しばらくスタートしなかったために、出走停止となった直後のことだった。

「いっぺん乗ってみて」

と稗田調教師から言われて調教にまたがってみたら、フクリュウは怖い馬だった。

感受性が異常に強すぎ、少しでも自分が気に入らないことがあると暴れまわるのだ。また、鞍上が馬の意に沿わないことをさせようとすると意地を張り、体を硬直させ、押そうが引こうがムチを入れようが、テコでも動こうとしなくなる。まさに、ヒステリーを絵に描いたような馬だった。

さらに、フクリュウの顔色を見て怖くなった。

私がまたがると、顔色が紫色に変わったのだ。もしかすると、なにかをきっかけに人間との信頼関係が崩れてしまい、人間不信に陥っていたのかもしれない。

それからの私は、フクリュウと心を通わせようと、調教であらゆる手段を尽くした。

(中略)

フクリュウとのコミュニケーションは、父、野平省三から聞かされた、馬に乗る極意と同じだった。

「乗り手は、馬のリズムを会得して、初めて馬に乗ったといえる」

から始まり、

「風に稲穂のゆれる如く馬に乗れ」

と言われたほか、

「鞍上に人なく、鞍下に馬なし」や「人馬一如」

という言葉を何度も聞かされた。

(中略)

フクリュウとのコンビでやってきた積み重ねが、他人から見離された馬たちを、私にとっては最も得意な馬にしたのである。

欠点の多い馬。
どこかいじけて、走る気を失ってしまった馬。
素質はあるのに、人間を信頼できず、拒絶する馬。

なにかがきっかけとなって頑張れなくなり、力を出し切れないという馬たちが、好きでしょうがない。私がなんとかしよう、という気持ちになって真摯に向かい合えるからだ。

そんな馬たちから100%の力を引き出してやるのが、騎手の本当の仕事だと私は思う。クセ馬という言葉があるが、私は、生まれつきクセのある馬など1頭もいないと思っている。

要は人と馬の心の問題。ムチで叩けばなんでもいい、という考えだけはしてはいけない。それでは、臆病で繊細な馬たちは決して心を開こうとしない。

優しく馬に接し、馬が自分から走ろうとする気持ちにさせるのが、乗り役の役割なのである。
(「口笛吹きながら」)

Nohirayuuji

跨った数々の名馬の中で、決して1流とは言えないフクリュウを、祐ちゃんは恩馬として挙げる。人と馬の呼吸が少しでも合わないと、硬直してしまって、前にも後にもどうにも動かないフクリュウ。外見は貧弱で神経質な牝馬が、ジョッキーとしての野平祐二を開眼させ、リーディングジョッキーにまで育ててくれたという想いが、そこには込められている。名騎手は名馬によって育てられるというが、祐ちゃんは凡馬によっても育てられたのである。

祐ちゃんがフクリュウにしたことは、調教で跨る前に、まず手のひらでフクリュウの首をなでてやりながら、「怖い人間じゃないよ」と語りかけることであった。母親が赤ん坊をそうするように、フクリュウとスキンシップを取った。語りかけながら首を撫でると、ほとんどの馬は目を細めて安心するという。そうなれば、馬はだんだんと人間に対して心を開いてくれるようになる。フクリュウの顔色は見る見るうちに変わり、祐ちゃんが乗っても普段の顔色と同じになっていったのである。

祐ちゃんとの呼吸が合ったフクリュウは、オープン馬を相手に逃げ切り勝ちを収めた。そこから11連勝することになった。ジョッキーが何もしなくても走るような強い馬であれば、背中に誰が乗っても結果はほとんど同じだろう。しかし、そういった強い馬はごく一握りであり、弱い馬の方が圧倒的に多い。臆病で繊細な馬と真摯に向かい合ってゆくことこそが、馬を作るということなのである。

馬とコミュニケーションを取り、信頼関係を築き、同化すること。レースでは、スタートからゴールまで、ジョッキーの心と体はサラブレッドと一体となり、人馬が同じリズムを刻んで走る。それを祐ちゃんはフクリュウに教えてもらったのである。

今年のダービーを、エイシンフラッシュと共に制した内田博幸騎手は、競馬の魅力についてこう語っていた。

「騎手もそうですけど、競馬では馬もアスリートですから。鍛えられた馬に乗って、呼吸を合わせてライバルと戦って勝たなければならない。生きものと呼吸を合わせるというのはスポーツの中でも特殊ですよ。それは美しいスポーツのひとつじゃないかと思います」

競馬というスポーツの美しさを、これほどまで的確に表した言葉も少ない。自分とは異なる肉体や心を持った生きものと、呼吸を合わせてゴールを目指す。2者の身体と心がひとつになり、勝利した瞬間の喜びは計り知れない。それがダービーであれば、どれだけの幸福と一体感だろう。有力馬に跨ったジョッキーたちが揃って馬群に沈む中、閃光の如く直線を駆け抜けたエイシンフラッシュと内田博幸騎手は、まさに「鞍上に人なく、鞍下に馬なし」、「人馬一如」の美しさであった。


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騎手・岡部幸雄の本質

岡部幸雄の本質を私の中で改めて浮き彫りにさせたのはスティンガーという4歳牝馬だった。それも彼が手綱を取っていないときのスティンガーの姿やレースを見てのことだ。

武豊が騎乗して鮮やかな直線一気の圧勝を演じた京王杯スプリングCと、田中勝春が騎乗して4着に敗れた安田記念。この2戦に出走したスティンガーの背景に岡部の姿が鮮明に浮かび上がっていたのである。

というのも、世界に出しても恥ずかしくない現在のスティンガーを見事に作り上げたのは、彼という存在なしにはありえないからだ。

一流のレースで勝ち負けのできる馬は生まれつきの素質、資質が必要なのは当然。スティンガーはマイラーの資質があった。だが、それだけでは単なるマイラーで終わっていただろう。

いまのスティンガーは、資質に「好位で揉み合って抜け出せる強さ」というプラスαを身につけている。関係者と岡部が「スティンガーを単なるマイラーにしたくない。2000mでも勝てる馬にしたい」と願って、レースや調教でじっくり教え込んだからにほかならない。

私から見れば、「何もそこまで苦しめなくていいだろう」と思うほど道中でためることを教え込み、脚力と精神力の強さを作り上げていったのである。地のままでは昨秋の天皇賞で見せたような粘りはできなかったはず。

(中略)

スティンガーは、人間が理想の形に見事に作り上げた最近の一例である。

これは厩舎スタッフの考え方も絶対に必要だが、サレブレッドを完璧に仕上げようとする岡部の思想も大きい。いまのスティンガーを作り上げたのは、彼の思い込みである。

「自分の乗った馬を、力で相手をねじ伏せる馬にしたい。そのためにはもう少しこうなればいい」という激しい思い込みが、彼を理想の馬作りへと導くのだ。「思い込み」を「愛」という言葉に言い換えてもいい。

彼は愛ゆえに、どんな馬も、完璧な馬にしようと乗り尽くしている。それが、むしろ痛々しく感じられることもあるのだけれど…。
(「口笛吹きながら」より)

Nohirayuuji

岡部幸雄元騎手は、最も私の競馬観に影響を与えたジョッキーかもしれない。彼の語った言葉を聞き、彼の騎乗するレースを眺めて私は育った。彼の唱えた「馬優先主義」という考え方は、ホースマンなら誰しもが共感するところだろうが、第一人者がメッセージとして発し、実践したことで、改めて私たちの心の深い部分に染み入ったのである。同じレースに騎乗したことのあるジョッキーであれば、少し大袈裟に言うと、それはもう遺伝子のレベルにまで影響を与えたのではないだろうかとさえ思えるのだ。

騎手が馬を作る。作るという表現がしっくり来なければ、育てると言い換えてもよい。そんな当然のことが、当然のこととして行われた時代があった。今となっては、調教師を筆頭する厩舎全体は、アウトソーシングをしながら馬房を効率良く回すことが第一優先で(これを「馬房優先主義」という)、時間を掛けて1頭の馬を作り上げてゆくことが極めて少なくなった。

ではレースで育てようと思っても、乗り替わりが激しいため、まずは目先の勝利にこだわらざるを得ない。負けてもいいから色々なことを教えようなんて考えていると、次は外国人ジョッキーに手綱を持って行かれたなんてことになってしまう。もしかすると、岡部幸雄元騎手は、ジョッキーが馬を作ることが出来た最後の世代だったのかもしれない。いつの間にか、ジョッキーは強い馬に跨って、先頭でゴールを駆け抜けてさえいれば良くなった。

そんな時代の中でも、懸命に馬を作らんとするジョッキーもいる。

たとえば、安藤勝己騎手はレースよりも調教が上手いと言われているジョッキーである。彼の騎乗した数々の名馬の中でも、ダイワスカーレットという名牝がいるが、この馬は安藤勝己騎手が作り上げた馬と言っても過言ではないだろう。レースだけではなく、調教でもその背に跨り、ジョッキーと呼吸を合わせながら競馬で最も速く走ることを教えていった。底知れぬ能力を秘めた牝馬であったが、安藤勝己騎手でなければ、果たしてその素質が開花していたかどうか。単なるマイラーで終わっていた可能性も十分すぎるほどある。

また、最近で言うと、佐藤哲三騎手とエスポワールシチーのコンビもそうだろう。高い能力はあっても、レースでは自分にブレーキをかけるようなところがあった同馬を、佐藤哲三騎手は普通の馬の何倍もの時間をかけてG1馬へと育てていった。速く走ることを強要してくる人間に対して不信感を持っていたエスポワールシチーの心を、佐藤哲三騎手は散歩に連れ出したり、付きっ切りで調教をつけたりして解きほぐしていった。レースでも様々な課題を課しながら、勝ったり負けたりを繰り返しつつ、どんなレースにでも対応できるよう教えていった。エスポワールシチーも佐藤哲三騎手の期待に応えるべく、いや、期待以上の成長を遂げたのだ。

馬を作るのは「思い込み」である。馬は既製品ではない。もっとこうなれば良いという「愛情」がなければ、馬は育たない。そんな当たり前の、馬とジョッキーの信頼関係が希薄になって久しい。日本を代表するトレーナーである藤沢和雄調教師が、“ジョッキー”と呼んだのは岡部幸雄元騎手だけだそうである。馬に対する「思い込み」や「愛情」がなければ“ジョッキー”ではない、という強烈なメッセージがそこには込められている気がするのだ。人間が馬を作り、その過程の中で人間が育てられてゆく。そこに競馬というスポーツの本質であり原点がある。

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ミルリーフとの衝撃的出会い

初めてテイエムオペラオーの強さを認識したのは皐月賞だった。

1頭だけヨーロッパの競馬をしている、と思ったほどだ。以来、この世代のなかではテイエムオペラオーが最も強い、と言い続けてきた。

「研ぎ澄まされた鋭敏な鋼」

今年の春の天皇賞を見ていると、そんな表現が浮かんでくる。

あの脚力は日本の馬にはないタイプだ。四肢のつき方もそうだし、走法も珍しい。強い馬はフワーッと前脚がゆったり出るものだが、テイエムオペラオーの場合はピッチ走法なのだ。

乗っている側からすれば違うのかもしれないが、脚にしっかりと力を入れて走っているように見える。これは日本の強い馬としては型破りの走法といえる。それだけパワーと弾力が備わっており、だからこそ競馬で無類の強さを発揮できるのだろう。

体に余分なものは一切ついていないが、彼の体型は、決して頭抜けて素晴らしいわけではなく、派手に見せない。しかし、四肢が強健で、レースで驚くばかりの強さを発揮する。そんなテイエムオペラオーのイメージと合致する馬と、かつてヨーロッパで対戦したことがある。

その馬の名前はミルリーフ。

歴史的名馬と対戦したレースはフランスのガネー賞だった。私はロンバードという馬に騎乗していた。

ミルリーフは決して立派に見せる馬ではない。この程度の馬だったらわれわれでも作ることができると思ったほどだ。ところが、いざ競馬をしたらまるで違った。レースでの強さといったらなかった。乗っていた騎手には失礼かもしれないが、誰が乗っても勝てる、と思えるほどだった。

ミルリーフとの対戦によって、「強い」と「勝つ」の意味の違いを真剣に考えざるを得なくなった。いくらか力が劣っていても騎乗技術によって勝たせる、というのが当時の私のスタンスであった。ミルリーフとの出会いは、それを根本から覆されるほど衝撃的だったのだ。
「これまで日本でやってきた競馬はごまかしの競馬ではないか」と思い悩むほどに。
「勝ったから強い」ではなく、「強いから勝つ」。そうした馬を作らなければダメ。

そういう気持ちを抱いて調教師となり、出会ったのがシンボリルドルフだった。ヨーロッパでの経験があったから、初めてルドルフにまたがった瞬間、これは海の外へ出る馬だ、という確信をつかめたと胸を張って言える。

テイエムオペラオーも本当の意味で強い馬だ。正攻法の競馬にこだわらなくたっていい。「強い」とはこういうものだ、というものを見せつけてほしい。

日本で大レースを制して賞金を稼ぐのもいいだろうが、あの馬の強さや価値は、もっとほかにあるはず。

海外に言ってほしいとはいわないが、いずれ日本に相手がいなくなるときがくるだろう。そのとき、いやでも海の外を考えざるを得なくなるはずだ。それまで余裕を持って無事に勝ち続けてほしい。
(「口笛吹きながら」)

Nohirayuuji

このコラムが祐ちゃん先生によって書かれたのが2000年の5月。その後、テイエムオペラオーは、同年の有馬記念まで負け知らずの5連勝をすることになる。それまで3連勝してきていたので、あわせて8連勝、しかもそのうちの5勝がG1レースだったのだから、テイエムオペラオーという馬がどれだけ強かったか分かる。この馬の相手は日本にはいなかった。

皐月賞での走りを見て、祐ちゃん先生がテイエムオペラオーの強さについて熱く語った時には、正直に言うと、私にはその強さが分からなかった。この世代にはアドマイヤベガとナリタトップロードがいて、3強と称されていたのだが、私はその時点ではナリタトップロードが一番強いと思っていた。結局、アドマイヤベガがダービーを、ナリタトップロードが菊花賞を勝ち、クラシックの3冠を分け合った形となったが、祐ちゃん先生の見る目が正しかったのはその後のテイエムオペラオーの活躍を見れば明らかである。皐月賞の走りだけを見て、テイエムオペラオーの強さをあそこまで掴んでしまうのだから、さすが祐ちゃん先生だなと感じたことを覚えている。

今となっては、テイエムオペラオーの強さが私にもよく分かる。日本の馬場は軽いので、日本で強い馬たちは脚捌きが軽いことがほとんどだが、テイエムオペラオーの四肢は力強く、ピッチ走法で一完歩一完歩を弾けるように走るのだ。3歳時までは重さが残っていたが、4歳を迎えて古馬に成長してからのテイエムオペラオーは軽ささえも兼備するようになっていた。特に4歳時の天皇賞春と秋の2レースにおける、テイエムオペラオーの強さは桁違いで、同じサラブレッド同士が走っているとは到底思えなかった。ジャパンカップでの叩き合いに敗れたファンタスティックフライトに騎乗していたデットーリ騎手も、テイエムオペラオーの強さに驚愕し、「クレイジーストロング!」と言い残した。メイショウドトウしかライバルがいなかったことで評価を下げる向きもあるが、テイエムオペラオーの強さは今もって別格である。

惜しむらくは、一歩も海の外に出ることなく競走生活を終えてしまったということだろう。日本に相手がいなくなった後も、テイエムオペラオーは国内で戦い続けることを選んだ。あらゆる絡みがあったのだろうから、その是非についてここで問うことはしない。また、翌年(2001年)のテイエムオペラオーには目に見えない疲労の影が忍び寄っていたことも確かである。天皇賞秋とジャパンカップは2着と踏ん張ったが、最後の有馬記念では盟友メイショウドトウと共に力尽きた。天皇賞秋→ジャパンカップ→有馬記念と古馬G1を3連勝することの厳しさを、テイエムオペラオーは教えてくれたのだ。それでも、もしテイエムオペラオーが全盛期にヨーロッパのG1レースに挑戦していたら、G1のひとつかふたつは勝っていたのではないかと私は思う。

その後、ディープインパクトという21世紀の最強馬が出現することになるのだが、祐ちゃん先生はすでに他界されてしまっていた。もし祐ちゃん先生がディープインパクトの衝撃的な強さに出会っていたならば、何とおっしゃっただろう。テイエムオペラオーがミルリーフならば、ディープインパクトはニジンスキーもしくはダンシングブレーヴだろうか。テイエムオペラオーとは全く異なるタイプではあるが、海外に行くべきだと主張されたことは確かである。そして、ディープインパクトの凱旋門賞への挑戦に誰よりも胸を躍らせ、敗北に誰よりも胸を痛めたことだろう。「強いから勝つ」という馬を作らなければダメ、という祐ちゃん先生の言葉を、私たちは心のどこかに留めておきたい。



大外一気の強靭な末脚を見よ!

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調教師の苦悩と決断

フサイチゼノンが皐月賞を回避した。

出走すれば人気になる馬だけに、田原成貴調教師は「やめるべきか、行くべきか」と回避を決めるまで悩んだはずだ。これだけの馬の出否を決めるのは大変なことである。

3歳クラシックは、個々の馬たちにとってたった一度のチャンス。しかも、決められた日程の中で戦線に乗っていく厳しさが求められるだけに、体中きれいな馬などいない。

運よく、何事もなくいく場合もまれにあるが、「何らかのアクシデントが起こる」という悲運は、しばしば訪れるのだ。

それに直面して出否の決断を下すのは、調教師という立場として避けて通れない道。元同業者として、田原調教師の無念はいかばかりだったかと思う。

フサイチゼノンのような馬には、どんなにお金を積んでも、そうそう巡り合えるものではない。もしかすると、彼は生涯一度のチャンスを逃したかもしれない。だが、今回の決断を見ると、彼は「次がある」という考え方を選んだようだ。

田原調教師はフサイチゼノンに相当な思い入れがあるのだろう。それだけに「大レースを勝てるチャンスはこれから何度もある」と、ちょっとでも不安があるのならやめる、と決断したと想像できる。

関口房朗オーナーへ報告せずに回避を決めたのはいかがなものかとは思うが、万全の状態でない馬を出走させることはできない、という考え方に異論はない。しかし、彼の記者会見のコメントにひとつだけ気に掛かるところがあった。

それは「ダービーは当初から使う予定がない」と語ったことだ。

右トウ骨円位端骨膜炎は重症ならば意外と治りにくい部位であるのだが、回避を決めたその日の調教も行っていることから、致命傷を負ったというわけではなさそう。それならば、万全の状態に再度もっていけるのなら、ぜひ「次はダービー」と考えるべきである。

生産者はダービー制覇を夢に描いて配合を考え、種付けをして出産を待つ。牡馬が生まれたのにダービー出走を考えない生産者はいない。

ましてや、フサイチゼノンはサンデーサイレンス産駒で、弥生賞を勝っているのだ。特に馬主はフサイチゼノンの価値をダービー制覇に求めているはずである。

それを「血統や距離適性などから判断してダービーは考えていない」という考え方は改めるべき。人間の判断はすべて正しいといえるだろうか。

フサイチゼノンは中山2000mのG2戦を横綱相撲で堂々と勝っている。クラシックは同じ三歳馬同士の戦いである。皐月賞はもちろんのこと、400m延長するダービーだって問題はない。それでも距離適性に問題があるなら、それを補おう、という考え方があってもいい。

その努力をしないで「ダービーは出ない」というのは、戦いから逃げているといってもいいだろう。戦わずに道は拓けず、ビクトリーはない。

フサイチゼノンにとってダービー出走は無謀な挑戦ではない。イチかバチか。男だったら、勝負に出てほしい。
(「口笛吹きながら」)

Nohirayuuji


この事件のことは今でも生々と思い出す。クラシック最有力候補のフサイチゼノンが突然、皐月賞を回避したことだけではなく、その後の田原成貴調教師と関口房朗オーナーの間でのひと悶着が印象に残っている。「またやってくれたか」と「またやったか」というアンビバレントな想いが交錯して、何とも言えぬ複雑な心境であった。これまでに田原成貴という人物が競馬界に巻き起こしてきたセンセーショナルな事件の数々が、私の脳裏に鮮やかに浮かんでは消えた。

とはいえ、私の心中で答えは明らかであった。フサイチゼノンの出走回避は正しい決断である。オーナーに報告なしに回避を決めたのは常識外だとしても、その決断自体は正しい。万全の状態でない馬を出走させることはできない、という考え方に異論はない。のちに骨膜炎が発覚して、田原調教師の見立ての正しさは証明されたが、たとえ何も悪いところが見つからなかったとしても、おかしいと思ったのなら出走を回避するのが調教師としては常に正しい決断である。

言葉を話せないサラブレッドを守ることが出来るのは、人間をおいて他にいない。競馬にたずさわる人間が、サラブレッドの心の声に耳を傾けて、彼らの訴えているところを察してあげなければならない。そうしなければ、彼らは競馬場という名の戦場で深い傷を負い、最悪の場合、声もなく命を落とすことになるだろう。ダービーを勝つために生まれてきたのがサラブレッドだとしても、ダービーが終わっても彼らの一生は終わらない。Life goes on.

これはジョッキーにも同じことが当てはまる。少しでも危ないと感じたら、すぐその場で止めるべきである。たとえ何もなかったとしても、おかしいと思ったのなら馬を止めるのもジョッキーの正しい役割のひとつである。数々の馬たちの背中に跨り、心の声を聴いてきた田原成貴騎手だからこそ、サンエイサンキューやフサイチゼノンの異常に気づくことが出来たのだろう。馬を走らせるだけがジョッキーではないのだ。

という前置をしたのち、それでも出来る限りのことをしてダービーに出走させるべき、という祐ちゃん先生の意見には同感である。血統や距離適性が合わないと思うのなら、そこを人間が調教でカバーしてあげるべき。また、本調子になくとも、なんとかして調子を取り戻そうとするのが調教師としての務めだろう。たとえば、ロジユニヴァースは皐月賞でまさかの惨敗を喫し、ダービーへ向けて黄色信号が灯ったが、萩原調教師を中心とした陣営があらゆる手段を講じ、起死回生の勝利をダービーで飾った。最後の最後まで、馬の生命力と回復力を信じ続けた陣営の勝利である。あきらめていたら勝利はなかった。No guts, no victory.

これは余談になるが、ロジユニヴァースの皐月賞の敗因は社台グループの陰謀という説が流れたらしい。ロジユニヴァースの馬主はまだ1年目の新参者であり、いきなりクラシックを獲ってしまえば、長年、社台から馬を買ってくれる古株の馬主に申し訳が立たない。そのため、短期放牧で戻ってきたロジユニヴァースをあえて悪くして厩舎に戻したのだと。人づてにそんな話を聞いて、私は悲しかった。自分の商品に毒を入れるようなことするわけがない。競馬ファンの想像力をかき立てるようなファンタジーならば大いに結構だが、無垢な競馬ファンをもて遊ぶのはやめてもらいたい。面白いことを言ったと悦に入るのはその瞬間だけで、長い目で見れば、競馬に携わる自分たちの首を絞めていることに気が付かないのだろうか。私の予想は当たらなかったが、ロジユニヴァースがダービーを勝ってくれて本当に良かったと思う。


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騎手を育てる「強い馬」での経験

今週の桜花賞で最有力候補といわれるサイコーキララ。

浜田調教師は桜の女王を目指している管理馬に、弟子の石山繁を乗せ続けている。ある意味、これはすごいことである。

昨年、同じようにというか、もっと「すごいな」と思って見続けていたことがある。

テイエムオペラオーとナリタトップロードが、ずっと同じ騎手のままで出走していたことだ。ふつうなら馬の成績が良くなれば、もっといい騎手へと替わるもの。いまの日本の競馬社会では、それが日常といえる。

ところが、テイエムオペラオーの岩元市三調教師もナリタトップロードの沖芳夫調教師も、自分が育てた騎手の和田竜二と渡辺薫彦を替えないで乗せ続けた。それをやってのけて、成功させたことのすごさったらない。

一昨年、石山が本番で降ろされたのは、前哨戦を自分のミスで負けたのだから仕方ないだろう。乗り変わった武豊がファレノプシスの能力をあれだけ見事に引き出して2冠馬に輝かせたのだから、やむを得ない。あれがあったからサイコーキララに出会った、と思えばいい。

強い馬をつくることも大切だが、いかに素晴らしい人材を育て上げるかということも大事なこと。強い馬が出てきたら、弟子に乗せて経験させるべきだと思う。

次代を担う人材を立派にきちっと育てるには、彼らを見守り、教育する関係者の度量や人間性が必要だ。私が若手騎手だった時代は、いい馬に乗れなかった、というより、いい馬に乗ってはいけなかった。私より巧い先輩がいっぱいおり、そこには序列というものがあったからだ。

子供の頃から、父親の管理する小さな厩舎で、騎手たちのトラブルを見てきただけに、尾形藤吉厩舎という大厩舎にお世話になったとき、「ずうずうしく乗ってはいけないんだ」と思っていた。大げさに聞こえるかもしれないが、当時の私に「馬に乗れる喜び」は少なかったのだ。

(中略)

フリー全盛となったいま、自分のところの騎手を、いい馬に乗せよう、という傾向が目立つようになったのは、大久保洋吉調教師がメジロドーベルを弟子の吉田豊に乗せ続けたころからだろうか。

「自分のところで、なんとか、しっかりした騎手を育てよう」という考えを持つ調教師が増えてきたのは本当に嬉しい。いい時代になったな、と思う。

(「口笛吹きながら」より)

Nohirayuuji

このコラムの最後の一文を読んだとき、なぜか涙が溢れ出た。私の人生の個人的な状況に、ピッタリと符合してしまったのだろう。どういう状況かは思い出せないが、祐ちゃん先生の優しさが心まで染み入ってきたことは今でも覚えている。なんと素晴らしい人間が競馬界にもいるのだろう。そう思って、ますます競馬が好きになった。

野平祐二氏が感心したように、和田竜二騎手と渡辺薫彦騎手の起用法については、今から振り返ってみても、よくぞと思わせられる。当時もさんざん批判があったが、正直に言って、テイエムオペラオーの菊花賞は仕掛け遅れ、ナリタトップロードのダービーは早仕掛けだったと思う。それでも、岩元市三、沖芳夫の両調教師からは、誰が何と言おうと乗せ続けるという強い意志が感じられた。結局、和田竜二騎手はテイエムオペラオーの生涯全てのレースの手綱を握り、一方の渡辺薫彦騎手もナリタトップロードの引退レースまでその背に跨った。

「騎手は馬に育てられる」と言われるが、走る馬に乗ってこそ、ジョッキーは技術的にも精神的にも大きな成長を遂げる。走る馬ほど人間の指示に対して敏感であるため、わずかな動作の失敗が致命傷となる。また、走る馬の基準を知っていれば、他の馬のどこが足りず補わなければならないかも分かる。走る馬に跨って、大きなレースに臨んで得た経験も貴重である。

たとえば、野平祐二はスピードシンボリ、岡部幸雄はシンボリルドルフ、柴田政人はミホシンザンという名馬に出会ったことで、ひとつ上の次元で勝負が出来るように成長した。名馬たちの手綱や背から学んだものは、何ものにも代えがたい彼らの宝物なのである。だからこそ、「強い馬をつくることも大切だが、いかに素晴らしい人材を育て上げるかということも大事なこと。強い馬が出てきたら、弟子に乗せて経験させるべきだと思う」という言葉が生まれてくるのだ。

ちなみに、祐ちゃん先生が若き頃、走る馬には乗らせてもらえなかったのは、尾形藤吉厩舎の大先輩に保田隆芳という大ジョッキーがいたからだ。尾形藤吉厩舎は8頭のダービー馬を育て、クラシックレースを26勝もしたように、数え切れないほどの名馬を管理していた。その中でも走る馬は保田隆芳騎手が主戦を務めた。保田隆芳騎手からこぼれ落ちた馬は八木沢勝美、森安重勝という名手の手に渡った。見習い騎手であった野平祐二に走る馬が回ってこなかったのは、当時としては自然な序列というものでもあった。

かといって、尾形藤吉厩舎から人材が育たなかったかというと、そうではない。前述した保田隆芳や八木沢勝美、森安重勝というジョッキーに加え、戦死してしまったが前田長吉という天才ジョッキーも生んだ。調教師では松山吉三郎、伊藤修司が1000勝を挙げ、大久保亀吉、伊藤正四郎、美馬信次、工藤嘉見など、その後、競馬史に残るファミリーを形成している。走る馬がいるところに、優れた人材が集まり、お互いに切磋琢磨しながら育って行ったのだろう。馬と人が厳しさの中で育ったからこそ、これだけの偉業を成し遂げたともいえる。

それでも、祐ちゃん先生は敢えて主張する。強い馬が出てきたら、たとえ弟子が技術的にも人間的にも未熟であっても、乗せて経験させるべきだと。出来るだけ若いうちに走る馬に乗ることで、ジョッキーとしての成長は早くなるのだ。競争の中に放り込むのもひとつの育成方法だが、強い馬に乗せ続けることには敵わない。特にこれだけジョッキーの世界が市場原理で動いている今、人を育てなければ、中央競馬もしくは日本の競馬の将来は暗い。ポンと来日した外国人ジョッキーに簡単に大きなレースを勝たれてしまう現状を見て、祐ちゃん先生は何とおっしゃるだろうか。


この年のG1レースは今から観ても鳥肌が立つ。
もう10年前になってしまったのですね…

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高知競馬の廃止は許されない

私がなぜ高知競馬に対してこれだけ関心を寄せているかを説明する必要があるだろう。はっきり言えば、日本の競馬全体を思ってのことである。これは高知競馬ひとつの問題ではなく、日本の競馬全体に影響する大きな問題としてとらえているのだ。

存続の危機に立たされているのは、いまのところ高知競馬だけだが、それと同じような状況にいつなってもおかしくないとおもわれる、危ない競馬場はほかにもある。

たとえば、ホッカイドウ競馬の累積赤字は高知競馬を上回っている(私の実感では、北海道の関係者にはその危機感はないようだが)。高知の廃止が決まれば、他の地方競馬場に連鎖的に波及する危惧があるのだ。

日本の競馬場がひとつ減ることは、競走馬の流通経路がひとつなくなることを意味する。流通がなくなれば競走馬生産土壌にも影響してくるのは必至だろう。そのなかで最も大きな影響を受けるのが中小の生産者たちである。

競馬の歴史を見てもわかるように、強い馬は大牧場だけから出てくるわけでもないし、良血とされる血統だけから出るわけでもない。

思いもかけない血統からも、素晴らしい馬が出てくる。それがサレブレッド血統の神秘であって、競馬の面白さだろう。

ところが、地方競馬がひとつ減るだけで、生産した馬が競走馬としてデビューするチャンスすら与えられない牧場が増えることになる。いまでも苦しい状況にある、良血を持たない中小生産者の立場はさらに悪くなり、購入される馬が減り続けていけば、牧場経営をやめていく人たちの数は、いまよりも増えるだろう。

地方競馬がひとつなくなるだけで、少数の大牧場にいい馬が集中する傾向がさらに加速していくことは、容易に想像がつく。血統、出自などバラエティに富んだ馬たちによる競走が競馬の理想であり、特定の大牧場だけによる競馬では面白みが半減してしまう、と思っているのは私だけではないはず。

競馬場で走ることさえできれば、もしかすると素晴らしい走りをするかもしれない中小牧場の生産馬が、そのチャンスさえ与えられず、人知れず消えていく。

競馬場がひとつ消えることで、こうした現実がさらに増えていく。

私は日本の競馬を愛していることにかけては、誰にも負けないつもりだ。それだけに、こうした現実を、これからさらに見続けねばならないとしたら、寂しく、悲しくてしようがない。

日本競馬の将来を考えるなら、高知競馬がなくなっては困る。

そのために私の経験を生かすことができるのなら、できる限りお手伝いしたい。日本競馬全体のためにも、「高知競馬ひとつくらい廃止してもいいんだ」では絶対にダメなのだ。
(「口笛吹きながら」より)

Nohirayuuji

正直に言うと、かつて私は「競馬場ひとつくらい廃止してもいいのでは」と思っていた。利益を生まず、赤字を垂れ流しているのであれば、存続が危ぶまれるのは当然であり、主催者側(行政)のあらゆる癒着構造を断ち切らなければさらなる負の連鎖が生まれるに違いない。利益の出ないビジネスは、むしろ廃止すべきではないかとさえ考えていた。今から思えば、なんと単純な、派遣社員を簡単にリストラする企業の経営者たちのような発想であった。

日本の競馬のことを考えるのならば、高知競馬だけではなく、ばんえい競馬も岩手競馬も、なくなっては困るのだ。日本の競馬場がひとつ減ることは、競走馬の流通経路がひとつなくなることを意味する。地方競馬がひとつ減るだけで、生産した馬が競走馬としてデビューするチャンスすら与えられない牧場が増えることになる。競馬場で走ることさえできれば、もしかすると素晴らしい走りをするかもしれない中小牧場の生産馬が、そのチャンスさえ与えられず、人知れず消えていくのだ。まさに祐ちゃん先生の言うとおりで、私はそんな当たり前のことさえ分からずにいた。

たとえば、古いところでいうと、オグリキャップという馬は笠松という小さな競馬場でデビューした。笠松競馬場がなければ、もしかするとオグリキャップは競走馬としてデビューしていなかったかもしれない。そうなると、オグリキャップが演じた数々の感動のレースを私たちは味わうこともなく、オグリブームなどあるはずもなく、日本の競馬は今日のような陽の目を見ていなかったかもしれない。オグリキャップの感動のラストランを見て競馬にのめり込んだ私が、「ガラスの競馬場」を始めることもなかったかもしれない。もちろんオグリキャップだけではなく、テイエムオペラオーやメイショウサムソンなど、数々の名馬たちが中小牧場から生まれ、日本の競馬を盛り上げた。

さらに言うと、競馬場で働く人々や馬たちはどうなるのか。ひとつの競馬場にはおよそ1000人以上の関係者らが働いている。調教師、厩務員、騎手、装蹄師など、馬を速く走らせることに情熱を注いで生きてきた人々は、どこに行けば良いのだろうか。他の競馬場に移籍して、今までどおりの生活を送れるのはごく僅かな人たちだけである。かつて新潟競馬場が廃止されてしまった時にも、その関係者らは家族と共に全国各地に散り散りにならざるを得なかった。ジョッキーを続けられたのは、およそ半分にしかすぎなかったという。走る場所を失ったサラブレッドたちは食肉処分にされた。

今週の金曜日(祝日)に高知競馬場で黒船賞が行われる。昨年は開催中止となってしまったが、1年越しの開催の知らせを聞いた時は嬉しかった。一昨年の黒船賞には私も実際に足を運び、高知競馬の魅力を堪能させてもらった。高知の知己にも大変お世話になった。福永洋一騎手の出身地でもあり、高知の競馬ファンはそのことを大変誇りに思っている。息子の祐一騎手にも熱い声援が送られていて、胸が熱くなった。高知は気候だけではなく、人の心も温かい。こんな素晴らしい場所がなくなってしまうなんて、私には考えられない。

競馬場の廃止は絶対に許されないのである。


関連リンク
高知新聞HP:「高知競馬という仕事」
ガラスの競馬場:「岩手競馬廃止とかいばおけ支援金と」

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夢、そして競馬の理想の姿

実は、2月27日の引退記念パーティの前日まで豪州にいた。1ヶ月ほど滞在していたのだが、それは自分の体のケアのためだった。

以前、豪州で受けたある治療で体や頭が驚くほど軽くなったので、再びそれを受けにいったわけ。これで引退後もかくしゃくとして競馬を楽しむことが出来るので、みなさんご安心を。

もちろん、その間も競馬を忘れていたわけではない。オセアニア競馬に肌で触れ、以前の渡豪時にもまして、競馬の世界地図は縮小したと感じた。そのきっかけは、豪州でフジキセキの産駒をじかに見たからだった。

圧倒的な強さを見せつけながらクラシック直前に脚部不安で引退したため、「幻のダービー馬」と呼ばれているフジキセキ。

このサンデーサイレンス直仔は、数年前からシャトル種牡馬として、日本の種付けシーズン終了後に豪州へ渡っている。

すでに南半球産フジキセキ産駒は産声をあげている。その馬体が実に素晴らしい。当歳の仔にしては良すぎるくらいの体で、すでに引退したこの私が手掛けられないのはわかっていながら、欲しくなるような馬だった。

豪州ではいま、サンデーサイレンスの血を切実に求めている。日本からのシャトル種牡馬ではカーネギーも大人気なのだが、それと肩を並べるほどSSの血統が求められているのだ。

豪州の大手生産者、アローフィールド・スタッドは社台グループと契約を交わして南半球の種付けシーズン中に日本へ繁殖牝馬を送り込み、本家・サンデーサイレンスの種付けに来ているほどである。

かつて日本の競馬が欧州からの「名馬の墓場」と揶揄された。

私自身も、昭和50年に初訪日したエリザベス女王から、「ミスター・ノヒラがアスコットでスピードシンボリに乗ったレースを私は見ていますよ」と晩餐会で声を掛けられた際、続けてこう言われた。「たくさんの名馬が英国から来ていますが、(その馬たちを日本の競馬関係者は)どうなさるんでしょうね」

欧米から、どんなに名血が日本に集まったとしても、その血は世界の競馬に還流されることなく袋小路に入って日本で消えてしまう。それを関係者から聞いたエリザベス女王は悲しみ、危惧されていたようだ。

それがいまや、日本で育まれた血が、欧米や豪州で花開こうとしている。数頭の日本産サンデーサイレンス産駒がモハメド殿下らに購入されて欧米へ渡り、SSの血を求める豪州でも、フジキセキら日本産種牡馬が大きな影響を及ぼし始めている。

日本で生まれたヘクタープロテクターの仔(シーヴァ)も去年、アイルランドのG1を制した。日本のG1を制した日本産サラブレッドが欧米の重賞を勝つだけでなく、欧米で種牡馬になる。欧米の名血が日本を経由して再び欧米へ帰る。それが私の夢だ。

血統の交流が支える国際的スポーツという競馬の理想の姿が、日本でも徐々にではあるが見えてきた。

(「口笛吹きながら」より引用)

かつて日本の競馬が「名馬の墓場」と呼ばれた時代があった。グランディ、ジェネラス、クリスタルパレス、ファーディナンドなどなど、欧米の大レースを制し、鳴り物入りで日本に輸入されたものの、全くと言ってよいほど血を残すことなく、ひっそりとその生涯を閉じた名馬たちは枚挙に暇がない。最後は食肉にされてしまったファーディナンド事件などを見ても、欧米の競馬人にとって、ジャパンマネーで名馬を消費する日本の競馬が眉をひそめられる存在であったことは否めない。エリザベス女王の問いに対し、答えに窮してしまった祐ちゃん先生のお気持ちは察して余りある。

そういう経緯があったからこそ、祐ちゃん先生がオーストラリアでフジキセキの産駒を見たときの感慨はさぞ大きかったろう。療養中の異国で、自分の孫やひ孫にバッタリと出会ったような喜びがあったに違いない。「幻のダービー馬」と呼ばれたフジキセキが、日本初のシャトル種牡馬として、その偉大な血を豪州の地に残さんとしている。そして、その産駒たちは、祐ちゃん先生が日本に連れて帰りたいほど、立派な馬体を誇っていたのだから。

結果から言うと、フジキセキの豪州での産駒はさほど振るわなかった。105頭の牝馬、しかも一流牝馬を集めてもらっていただけに、オーストラリアの競馬関係者らの失望は深かった。向こうの競馬は短距離が中心で、しかもスタートしてからすぐにトップスピードに乗り、どこまでバテずに走り続けられるかを問われる典型的なスプリント戦になりやすい。道中はスタミナを温存しながらゆったりと走り、最後の直線で瞬発力が問われる日本の競馬に適性を見せたフジキセキの産駒は、オーストラリアの競馬には合わなかったのである。さらに日本での初年度産駒も、勝ち星は挙げるものの伸び悩み、偉大な父サンデーサイレンスに比べると、早熟で大レースに弱い血統との評価は固まりつつあった。

しかし、フジキセキは死ななかった。祐ちゃん先生のお眼鏡どおりと言おうか、2006年にはフジサイレンス(東京新聞杯)、タマモホットプレイ(シルクロードS)、ドリームパスポート(きさらぎ賞)、コイウタ(クイーンS)、そしてカネヒキリがG1フェブラリーSを制して、フジキセキ産駒が4週連続の重賞制覇を成し遂げたのだ。マッチョなフジキセキに対し、スマートな仔を出しやすい繁殖牝馬を配合するようになったこと、また調教技術が進化したことで、脚元に不安の出やすいフジキセキ産駒を壊さないように仕上げることが出来るようになったことなど。理由はひとつではないが、確かにフジキセキの血が爆発したのである。

その勢いは世界的に進行していった。オーストラリア産のサンクラシークが、2007年に南アフリカのG1レースを勝利し、2008年3月にはドバイシーマクラシックを制した。そして、ちょうどその同日、ファイングレインとキンシャサノキセキが高松宮記念でワンツーフィニッシュを決めた。

フジキセキだけではない。同じくシャトル種牡馬としてオーストラリアに供用されたタヤスツヨシやバブルガムフェローも、現地でG1馬を見事に輩出した。ローゼンカバリーやディヴァインライトもフランスへと旅立った。フサイチゼノンはアメリカへ。今年に入っては、ハットトリックがアルゼンチンに渡り、新たなゴールを決めようとしている。アメリカからやってきて日本で花開いたサンデーサイレンスの血は、再び海を越えて、世界へと血を還元されてゆく。そういう意味では、アドマイヤムーンがゴドルフィンに買われてしまったことも、むしろ喜ばしいことと考えるべきなのだろう。サンデーサイレンスの血だけではなく、フォーティナイナーの血を引くユートピアのトレードも同じだ。

欧米の名血が日本を経由して再び欧米へ帰る、という祐ちゃん先生の夢は、たとえビジネスという形を取ったとしても、少しずつではあるが実現している。少しずつではあるが。血統の交流が支える国際的スポーツ、これこそ競馬の理想の姿なのだ。

Nohirayuuji
この表紙の写真を撮影された今井寿恵さんがお亡くなりになったそうです。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

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競馬は文化であり、スポーツである。

Nohirayuuji

2000年2月29日。400年に一度という特異な「うるう日」に私はJRA調教師を定年引退した。自宅に贈られてきた多数の美しい花たちを見るにつけ、なぜか涙ぐんでしまう。愛してやまない競馬に、現役という立場ではもう二度と戻れないんだ、という事実が私をセンチメンタルにさせる。

愛する競馬のために尽くしてきた。昭和17年、中学2年で中退して競馬の世界に飛び込み、騎手そして調教師として歩んできたこれまでの58年間を、私は胸を張ってそう言える。

競馬は文化であり、スポーツである。単なるギャンブルではない。「競馬とばく」と呼ばれていた時代から「ギャンブル一辺倒からの脱却」、その実現のために苦しんできた。ギャンブルだけでは競馬は滅びてしまう。そういう恐怖におびえていたからだった。

愛すべき競馬を滅びさせないためにはどうしたらいいか。若手騎手だった私は真剣に考えた。その答えが「ファンに見せる競馬、ファンを魅せる競馬」をモットーに騎乗することだった。

騎手にファンの焦点が合えば、競馬のスポーツ性にも目が向くはず。私が「演技力」というところの騎乗法が注目を浴びればしめたもの。競馬は、単に数字が走っているというものから、騎手が操る馬たちが競い合うスポーツに昇華するはずだ。

だからこそ、私はパドックで騎乗し、馬場に入り、レースに臨み、馬を止めて下馬するまで、常にファンの視線を意識しながら乗ってきた。フェアに華麗に勝つ。いつもファンのために騎乗してきた。

職人ばかりの当時の競馬サークル内から、「キザ」「格好つけ」などと、冷ややかな視線を投げかけられた。しかし、そのなかでも、私のやっていることを許してくれる人たちがいたから、ファンのための競馬を続けることができた。

私に対するファンの視線が変わってきた、と感じ始めたのは昭和20年代後半から30年代前半にかけてだった。

レースを終えた私への罵声がだんだん少なくなってきたのだ。勝負師にはなれなかったが、ファンのための競馬をしようという、競馬場で見せる私の姿勢が、ファンに伝わってきたのだろう。競馬をスポーツとしてとらえるファンが生まれてきたことに大きな喜びを感じた。

調教師として最後の競馬となった27日の夜、引退記念パーティの壇上で、溢れんばかりに込み上げてくるものがあった。

足を運んでくれた400人ものファンのすべてが、競馬を文化、スポーツとして楽しんでいることを肌で感じることができたからだ。

「ファンのためにやってきた自分は間違っていなかった。いま目の前にいる彼らこそ、競馬の人気を支えてくれる人たちだ」

さんざん苦労をかけた妻、嘉代子の横でそう思うと、不覚にもみんなの顔が涙でぼやけてしまった。

私が去っても競馬は続く。それが永遠であってほしい。これからも、競馬に対して私が力を尽くせるものがあるならば、日本の競馬のためにバックアップしていきたい。

口笛を吹きながら…。

これを競馬界での第3の人生を歩み始めるにあたっての所信表明としたい。

「58年間の競馬人生を改めて思う」より


この所信表明を読むだけで、私も涙ぐんでしまう。祐ちゃん先生が中学校を中退して飛び込んだ当時、競馬はセピア色の世界だった。生活費までを賭さんとする男たちが集まる賭博場であり、サラブレッドやジョッキーはギャンブルの駒であり、レースが終われば怒声や罵声が飛び交った。そこには文化やスポーツとしての感動や華やかさはない。まさに祐ちゃん先生の言うギャンブル一辺倒の時代であった。

誤解しないで欲しいのは、祐ちゃん先生はただ単に競馬にロマンだけを求めたわけではないということだ。競馬にはギャンブルという側面がある、いや半分はギャンブルであるということを誰よりも痛感していた。馬券が売られなくなった時代に、競馬がどれほど急速に衰えていったかを身をもって知っているからだ。競馬からギャンブルがなくなれば滅びてしまう。しかし、ギャンブルだけでも滅びてしまう。ギャンブル一辺倒から脱却しなければならない。そう感じていたのだ。

私が競馬を始めたのはオグリキャップが引退した年だから、競馬がカラーの世界になっていた時代だ。祐ちゃん先生が競馬の世界に入った時とは比べようもないほど、感動やロマンや華やかさが溢れていた時代。競馬が滅びてしまうという恐怖感はさすがになかったが、私は競馬を楽しむことにある種の罪悪感を覚えざるを得なかった。罪悪感というよりも、恥ずかしさといった方が適切かもしれない。いわゆるギャンブルというものに手を染めている恥じらい。それは今でも続いている。

「好きなことはなんですか?」と初対面の人に尋ねられると、私はいつも「競馬が好きです」と答えるべきかどうか逡巡し、葛藤し、「野球です」「ビリヤードです」「映画です」などと決まってごまかす。その0.1秒の逡巡や葛藤を数え切れないほど積み重ねてきた。野球もビリヤードも映画も好きなのでウソではないのだが、どうしても「競馬」とは答えられない。おそらく、その後に続く、「えっ、競馬?で、儲かってるの?」という質問に私は耐えられないからだろう。儲かっていないからではない。私が儲かっていないと答えれば、「ほらね、やっぱり儲からないよね」と相手は納得してくれるかもしれないが、そうではなく、たとえ儲かっていたとしても、そのたったひとつの質問で私の大好きな競馬が、単なるギャンブルに帰せられてしまうことに傷つくである。

それでも私は競馬の魅力について語りたい。大切なのはバランスであって、ギャンブル一辺倒ではなく、もう半分の文化やスポーツとしての競馬についても語らねばならない。たとえ偏見や差別があったとしても、私は語り続けなければならない。いや、偏見や差別があるからこそ、私は語るのをやめない。これが私の原動力でもある。もちろんそれだけではなく、競馬を愛してやまない人たちに、私の大好きな競馬についてもっと深く語りたい。祐ちゃん先生が筆を置いてから7年が経った。その間、私は「ガラスの競馬場」を立ち上げ、こうして駄文を書き連ねてきた。そしてこれからも、誰に何と言われようと、私の命の続く限り、大好きな競馬について語り続けるだろう。あなたと競馬が、100年続くことを願って。

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野平祐二の競馬観、私の競馬観

会ったことも話したこともないのに、敬愛してやまない人が誰にでも一人や二人はいるだろう。私にとって野平祐二氏はその一人である。お会いする前にお亡くなりになった。いつかどこかで必ずや巡り会う運命にあった。そう私は信じている。だからこそ、私は野平祐二氏を“祐ちゃん先生”と心の中で呼び、敬愛してやまない。

競馬を始めた頃の私の月曜日は、祐ちゃん先生の観戦記を読むことから始まった。レースの全体像から各馬の走り、各ジョッキーのわずかな動きに至るまで、祐ちゃん先生の観戦記には競馬に対するありとあらゆる見識が埋め込まれていて、示唆に富んでいた。自分の抱いた見解(当時は感想にすぎなかったが)と祐ちゃん先生のそれが一致していれば秘かに喜び、ズレていればその溝を埋めようと幾度も再読した。そんなやりとりを何年も繰り返すうちに、祐ちゃん先生のひと言ひと言が私の血となり骨となっていった。

余談になるが、競馬をどれぐらい知っているかは、その人の書く観戦記を読めばおよそ分かる(と私は思う)。競馬は未来を占う要素がどうしても前面に押し出されてしまいがちだが、知れば知るほど、現実をどう解釈するかの方が大切だと知るようになる。どの馬が勝つのかという予想はうちの家内でも出来るが、さすがに観戦記は書けない。しかも真っ当な観戦記ともなると、競馬を少しかじっているぐらいの人では書けない。あの祐ちゃん先生の観戦記を精読できた経験は、私にとって貴重な財産である。

祐ちゃん先生の観戦記が読めなくなった年の秋、私は「ガラスの競馬場」を立ち上げた。競馬を教わる人がいなくなったという喪失感を乗り越え、今度は自分が競馬について書いていこうと思った。観戦記が読めなくなったのならば、自分で書けばいい(到底及ばないにしても)。祐ちゃん先生に競馬について書くことを許されたような気もした。それが祐ちゃん先生に対する、私にできる唯一の恩返しであった。

あれから7年間、競馬についてありとあらゆることを書いてきたつもりだが、ひとつ大切なことを忘れていたことに最近気が付いた。祐ちゃん先生から教えてもらった競馬観をひとりでも多くの競馬ファンに伝えるということ。これは競馬の神様から私に与えられた使命だろう。残念ながら観戦記ではないが、私がバイブルとして愛読している「口笛吹きながら」が幸いにして今手元にある。その中の言葉を引用しながら、私なりの解釈も加えて、今年ここに復刻させてみたい。

Nohirayuuji


関連エントリ
「ガラスの競馬場」:君は野平祐二を見たか?
「ガラスの競馬場」:口笛吹きながら


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