武豊騎手の米国競馬本格参戦

武豊が安田記念後にも米国競馬に長期にわたって滞在し、本格参戦するという。

彼がその表明記者会見をした記事を読んだとき、思わず本人に電話を掛けてしまったほどうれしかった。もちろん、彼の決断にももろ手を挙げて大賛成し、大歓迎しているからだ。

私はかつてフランスに長期滞在したことがある。当時、欧州は私の競馬の原点だった。スピードシンボリとともに三度戦った欧州競馬を経て、ヨーロッパ競馬への渇望が胸のうちに広がっていった。

あれだけの戦いでは、まだ欧州の競馬を知り尽くしたとはいえない。まだ、欧州にはやり残したことがある。もっと深く本場の競馬で勉強したい。

日本騎手クラブ会長という公的な立場にありながら、その思いが日増しに強く、抗しがたいものとなった昭和47年4月、私は再びヨーロッパへ渡った。シャンティー競馬場の近隣に自宅を構え、過ごした日々は1年半ばかりであった。

私の後に続く騎手がようやく現れてくれた、なんて大それたことは思っていないが、米国長期滞在を決めた武豊の気持ちはわかるつもりだ。

しかも、いまや日本の競馬は賞金面では世界一であり、レベル的にも欧州に並ぼうとしている。国内にいればいくらでも稼げるし、確固たる不動の地位にいつまでも立っていられる。

にもかかわらず、それらを差し置いてまでも、彼にとっての原点に身を置きたい、と考えて行動に移す姿には、敬意という言葉を使いたくなる。

実行に移すなら、いまをおいてない、と思えるほどタイミングもいい。

いまの武豊は「冴えている」などというものではない。「技を超えている」と表現していいほど最高潮にある。

そうでなくては、どんなにうまく乗ってもあれほど勝てるものではない。いまの彼は、言葉では形容できないほどだ。まさに脂の乗り切っているときなのだ。

私が欧州滞在を始めたのは44歳のときである。残り少ない騎手人生の最後のチャンスと思い、異国の地に腰を落ち着かせたわけだが、肉体的、精神的にこの年齢ではキツいと感じ、「もっと早くに行くべきだったかな」と思ったこともあった。

31歳の充実期に新天地へ向かう武豊が、アメリカ競馬に本格参戦してどう感じるかは彼自身の問題である。

豪州からヨーロッパに渡り名を馳せたゲイリー・ムーアやW・ピアス(名牝ダリアの主戦)ですら、大レースを勝つまでに1~2年を要した。

英国の名手レスター・ピゴットは、アメリカで、新大陸の名手シューメイカーと対戦して敗れたことで新たなライディングスタイルを生み出し、欧州競馬を席巻して大きな変革をもたらした。

武豊が、日米の違いを身を持って感じたとき、彼にどのような変化が見られるのだろうか。「苦労してこい」とは言わない。私がやったときとは時代が違うのだから。
「勝ってこい」とも言わない。
しかし、「負けないでくれ」とは言いたい。
成功しなければ帰らない、という気持ちでやってほしい。いや、成功したら帰ってこなくてもいい。向こうでなら、殿堂入りの名誉があるのだから。
(「口笛吹きながら」より)

Nohirayuuji

池添謙一騎手がフランス遠征を打ち切ったニュースを聞いて、心底残念に思ったのは私だけではないだろう。野平祐二先生が武豊騎手の米国参戦の表明を受け、思わず電話してしまったほど嬉しかったのとは正反対の気持ちである。昨年の凱旋門賞におけるC・スミヨン騎手への乗り替わりの悔しさをバネにして、自分に足りないものを得るべく海を渡った池添騎手の行動力は素晴らしいと考えていたが、どうやら大きな勘違いをしていたらしい。

凱旋門賞でオルフェーヴルに跨るために必要だったものは、欧州の競馬場でレースに出走した経験そのものではなく、欧州競馬のレースに騎乗する経験を積むことによって得られるはずの騎乗技術や判断力、そして自信である。オルフェーヴルの手綱を任されるかどうかは別にして、てっきり騎手としてひと回りもふた回りも成長するために、長期の遠征を予定しているのかと考えていたが、そうではなかった。池添騎手の欧州遠征の目的はただひとつ、凱旋門賞でオルフェーヴルに乗ること(良く言えばオルフェーヴルを勝たせること)であったのだ。

それが叶わないとなるや遠征を打ち切ったのだから、結果的には、オルフェーヴルの手綱を今年もスミヨン騎手に委ねた社台グループの判断が正しかったことが証明されたことになる。池添騎手の遠征はオルフェーヴルに乗せてくれという振りでしかなく、騎手として自らを本質的な意味で成長させようと新天地に赴いたのではなかったということ。そんな付け焼刃の経験で、向こうのトップジョッキーであるスミヨン騎手と同等になれるはずがなく、それで勝てるほど凱旋門賞は甘くない。

なぜこんなことを書くかというと、日本の競馬や騎手が生き残っていくためには、日本人騎手が海外へ長期遠征しなくてはならないと思うからだ。ディープインパクトやオルフェーヴルの凱旋門賞出走やその他の馬たちの海外挑戦を振り返ると、そのことで日本の競馬が盛り上がることに気づく。競馬ファンだけではなく、ときには一般の人々も巻き込むことができる。それが日本の競馬がグローバルなスポーツであることのアピールにもなる。野球やサッカー、テニスなど、他のスポーツを見てもそれが分かるだろう。

しかし、1頭の馬の単発的な海外遠征では所詮、一過性の打ち上げ花火でしかなく、継続性がない。サラブレッドの海外遠征のコストやリスクを考えれば考えるほど、仕方のないことではある。だとすれば、人が長期的に、継続して挑戦をするしかない。たとえば浜中俊騎手のように身体能力が高く、日本の競馬で実績のある若手騎手が、無期限で海外の競馬に挑戦するのだ。そうすることでマスコミに対する継続的なアピールにもつながり、もちろん結果も出やすくなるだろう。そして何よりも、いつしか本物の経験を日本に持ち帰ってくることができる。

この提案が現実離れしているのは百も承知である。中央競馬の賞金が他国の競馬に比べて圧倒的に高いという歪な構造になっているからである。日本の競馬を差し置いて無期限で海外に挑戦するのは、豊かな生活を捨てて、騎手道を追求することの体現である。残りの騎手人生を賭けた野平祐二騎手や、全てをなげうって高みを目指した武豊騎手や蛯名正義騎手のような崇高なジョッキーが現れるのはごく稀である。もしそういう勇敢な日本人ジョッキーが再び現れたとしたら、そのとき私は「苦労してこい」とも言わず、「勝ってこい」とも言わない。しかし、「帰ってくるな」とは言いたい。

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勝負師・蛯名武五郎

蛯名武五郎さんという人は、ふだんは100しかない自分の力を、勝負のときには120までに高められる騎手だった。追ってからのギアの入れ方が鋭く、馬を前に出す技術が卓越していたうえに、歯を食いしばってでも勝負に勝ってみせるという執念が、本番で120の力を引き出していた。

当時、保田隆芳さんや高橋英夫さんといった、個性豊かな騎手が数多くそろっていたが、そのなかでも、蛯名さんの個性は群を抜いていた。あきらめのいい人でもあったが、勝ち負けに持ち込んだときの勝負強さは実に際立っていた。

蛯名さんは、いざレースになると人間が一変した。

隣の枠に入り、あの人の顔つきをみたときは、怖くなるほどだった。ふだんの人相とはまるで違い、顔に青筋が走っているのだ。それほど、これから始まるレースに集中し、気持ちを高めていったのである。蛯名さんの全身からは「勝ちたい。勝つんだ」という気迫が充満していた。

吉川英治の小説『宮本武蔵』に、佐々木小次郎が宮本武蔵の後ろ姿を見て、「白刃のやいばが行くようだ」とつぶやくシーンがあるが、レース中の蛯名さんの後ろ姿を見ていると、同じような印象を受けたものだ。

そう、蛯名さんの背中が「寄らば切るぞ」と言っているように感じた。

勝負に対する執念や気迫だけで勝っていたとは言わないが、蛯名さんが正真正銘の勝負師であったのは、疑いようもない事実だ。

残念ながら、私は最後まで蛯名さんのような勝負師にはなれなかった。100の力を、気迫で120にまで高めることはできなかった。自分の持っている技術や知恵を振り絞って勝負に向かっていったが、「何がなんでも勝ってやる」という気迫が、体の奥底から湧いてくるという経験はしたことがなかった。

勝負師にはなれなかった私にとって、蛯名さんは、私がまったく持っていないものを持ち合わせていたからこそ、よけいに強い印象を受け、魅力的に感じられたのである。
(「口笛吹きながら」より)

Nohirayuuji


かつて日本にもこのような騎手がいたと思うと、なぜか安心する。私が競馬を始めた頃には、すでに華麗に美しく乗って勝つことが騎手にとっての至上命題であった。たしかに、仕事人と呼ばれた田島良保騎手や穴男・安田富男騎手といった個性的な騎手もいるにはいたが、中央競馬の競馬学校を卒業してくる若手が増えるにつれ、良く言えば模範的な、悪く言えば金太郎飴的な騎乗ばかりが目立つようになり、そこには良く勝つ騎手とそうでない騎手しかいなかった。だから、正直に告白すると、私はある時期まで、特定の騎手のファンになったことはなかった。

でも今は違う。安藤勝己騎手やオリビエ・ペリエ騎手を起点として、地方競馬や海外の競馬から個性的でしかも腕の立つジョッキーが集い、中央の競馬場で騎乗する姿を観ることができるようになった。どの騎手を応援しようか迷ってしまうぐらい、魅力的なジョッキーばかりである。様々な問題は生じたのかもしれないが、それでも昔の鎖国のような時代に比べ、日本で見られるジョッキーの騎乗技術は格段に上がり、アスリートたちによる激しい勝負が見られるようになってきたのは、競馬ファンにとって嬉しいことだ。

その中でも、勝負師という点において、岩田康誠騎手は群を抜いている。ひと言で定義するならば、勝負師とは100しかない力を気迫で120まで高められる騎手のことである。自身の力を120まで高めることによって、馬の力も120まで引き出すことができる。追ってからのギアの入れ方が鋭く、馬を前に出す技術が優れていることはもちろん、レースに行っての「何がなんでも勝ってやる」という勝負に対する執念や気迫が圧倒的なのである。

馬は人のために走る。鞍の上の人間の勝ちたいという想いはダイレクトに馬に伝わって、馬はその気持ちに応えようと最後まで力を尽くすのである。人と馬の間に深い信頼関係が築かれていることが前提ではあるが、馬が動くかどうかは人の気持ちによるところが大きい。最後の最後に馬を一歩前に出すことができるのは、騎乗技術以上に、勝ちたい、何としてでも勝つのだという人間の強い気持ちなのである。

2012年の日本ダービーにおいて、ディープブリランテの背中に私は勝負師の姿を観た。前が止まらない高速馬場を味方につけたとはいえ、どう考えても2400mの距離は長いディープブリランテをゴールまで持たせてみせたのだ。第1コーナーを回るときのポジショニングが完璧であり、道中の馬とのコンタクトも抜群であった。そして最後の直線において、馬上で立ち上がらんばかりに馬を叱咤激励する岩田騎手の気持ちに、距離の限界を越えて脚が止まりかけたディープブリランテが死力を振り絞って応えたのである。人馬共に、リミッターを振り切ったレースであった。もう1度レースをしたら、結果は違うだろうと思う。

岩田騎手のスタイルを批判する人もいる。乗馬の基本には決して忠実ではないのだから、岩田騎手が勝つことで自分を否定されたと感じてしまう人もいる。あの乗り方では勝てないという論理が通じなくなれば、次はあの乗り方では馬を壊してしまうと論理をすり替えるだろう。もちろん事実無根であり、岩田騎手には自分の信じたスタイルを貫いてほしい。目の前で結果を出すことで、馬を動かすのは技術であり気持ちなのだということを示してほしい。100の力を出すこと自体は難しいが、いつも100の力しか出せない騎手や馬ばかりでもつまらない。いつの時代にも、120の力を出して私たちの想像を超えてゆく、勝負師という名のアスリートが必要なのだ。

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ロバーツが見せる「勝負への厳しさ」

オリビエ・ペリエ、ミルコ・デムーロ、クリストフ・スミヨンと、外国人騎手を連続して取り上げてきた当コラム。ちょうどいい機会なので、今回は私なりのマイケル・ロバーツ観を披露してみたい。

ペリエ同様、短期免許による初来日以来、毎年必ず日本の競馬シーンに加わり、さまざまな影響を与えていってくれる元英国リーディングジョッキーは、私にとって不思議な騎手である。

一見すると、どこにでもいそうな騎手なのだが、実はまったくそうではない。向こう正面では、いつも馬を激しく追ったり、どぎつく抑える格好をするので、見る側に「もうダメか…」と思わせる。

ところが、ロバーツが手綱を取った馬は、直線でまた伸びてくる。強引すぎるきらいはあるが、なぜ彼の乗った馬が、最後まで動くのか不思議だ、と思わせる騎手なのだ。

見た目と、彼が現実に馬に与えている影響が違うのだ。

実際は、その格好ほど無理して追っていたり、抑えたりしているわけではなく、ハミによるギアの切り替えをちゃんとしているのだ。つまり、われわれは彼のアクションにだまされているのである。

手綱の長さ、こぶしの位置、あぶみの踏み方は、ヨーロッパのスタイルとはまた違う、ロバーツ独特のもの。その騎乗は「鮮やかな」という感じではなく、あか抜けしないものなのだが、馬を前に出すことに関しては卓越しているわけだ。

おそらく、下半身がしっかりしており、騎座の抱え方が上手なのだろう。私の目指してきたスタイルとは異なり、好きな形ではないが、彼を見ていると、問題は見た目ではなく中身だ、ということを思うときがある。彼のあか抜けなさは、中身のないものでなく、内容をきちっと持ったあか抜けなさなのだ。

ロバーツを見ていると、蛯名武五郎という騎手を思い出す。

深く腰を入れて馬を押し出す感じと、騎乗の構えがよく似ている。何よりも、蛯名さんもまた、勝負に厳しい人だった。

彼とロバーツは勝負師である。ふたりに共通するのは、強烈にアグレッシブな姿。蛯名さんがレースに向かうとき、「勝ちたい、勝つんだ」と全身で叫んでいるように感じた。同じように、ロバーツからも身体からにじみ出ている精神がある。その精神を一言で言い表すとしたら「闘魂」という言葉がふさわしい。

何とか勝たせよう、という気持ちが騎乗している姿からあふれ出ているのだ。

気迫あふれる闘魂。そして、見た目にはわからないが、実は基本に忠実な技術を持っていることに加え、ロバーツには、生まれ故郷の南アフリカから英国に移り、世界中の競馬をムチ一本携えて渡り歩いた経験がある。その経験によって、彼は各国のレースに対応できる順応性を身につけているのだ。

最近は、体に衰えがきているのか、以前ほどの冴えを見せなくなっているのは寂しいが、いまでも、ロバーツは日本の騎手とは異質な、しかし、強靭な精神とスタイルを持っている騎手である。

(「口笛ふきながら」より)

Nohirayuuji

マイケル・ロバーツという名を聞くと、競馬が熱かったあの頃を思い出す。今の日本の競馬が冷え切っているとか、私が競馬に対する情熱を失ってしまったということでは決してない。それでも、ロバーツ騎手が日本に来て騎乗していた時代は、あらゆることが熱かった。東京であろうと、中山であろうと、競馬場に駆けつけては、人ごみをかき分けて自分の賭けた馬を応援した。どうしても競馬場に行けないときには、新宿のウインズで長蛇の列に並んで馬券を買い、アルタ前で大型テレビに釘付けになって声援を送った。そんな熱き競馬ファンの目に、ロバーツ騎手の闘魂はしかと焼きつけられた。

私にとって、最も記憶に鮮明に残っているロバーツ騎手のレースは、アドマイヤコジーンに騎乗して勝った1998年の朝日杯3歳Sである。アドマイヤコジーンの単勝に賭けていたということもあって、直線で武豊騎手が乗るエイシンキャメロンを競り落としたときには、声が枯れるほどにロバーツ騎手の名を連呼したのを覚えている。上体を起こして馬を追うロバーツ騎手のスタンディングスタイルと、馬の背に張り付くように馬を推進する武豊騎手のスタイルは実に対照的であった。私にとってロバーツ騎手のスタイルは新鮮に映り、こんな馬の追い方もあるのだと初めて知らされた。

それまでに私が見てきたのは、できるだけ鐙を短く踏んで、馬の背にピタリと上体を付けて、小さなアクションで流れるように馬を動かすアメリカンスタイルであった。祐ちゃん先生らによって取り入れられたアメリカンスタイルは、その騎乗フォームの美しさと競馬のスピード化と共に、もはや日本の競馬にとっても主流なスタイルとして継承されることになった。日本を代表する武豊騎手などは典型的なアメリカンスタイルであり、祐ちゃん先生が彼の騎乗フォームを絶賛してやまなかったのはここにも理由がある。美しいこと、ファンに魅せること、そして勝つことは祐ちゃん先生や武豊騎手らの一流ジョッキーにとっての使命であった。ムチ一本持って、海の向こうからやってきたロバーツ騎手は、こうした流れに一石を投じたのである。

自分たちが貫いてきたスタイルとは異なるものを感じたとき、人々には様々な反応がある。それを拒絶する者、否定する者、受け入れる者、そこから学ぼうとする者。どれが正しいということではなく、全体としてはレベルアップしていけるチャンスなのだ。祐ちゃん先生は、ロバーツ騎手のスタイルを指して、あか抜けない、自分が目指してきたそれとは異なるとはしながらも、馬を前に出すことに関しては卓越していると断じている。問題は見た目ではなく、中身なのだと。さらにはロバーツ騎手の勝負への厳しさを、自分になかったものとして自省しつつ、あるべき姿として賞賛しているのだ。祐ちゃん先生のジョッキーとしての矜持がそうさせるのだろう。

最近では、あの時代とは比べものにならないぐらい、海外や地方競馬からあらゆるバックグラウンドを持った騎手たちがやって来る。彼らは独特のスタイルを日本(中央)の競馬に持ち込み、進化させる。たとえば、園田競馬場から中央入りした岩田康誠騎手は最も分かりやすい例だろう。彼の出自である地方のダート競馬では、動かない馬をどれだけ動かすか、またバテた馬をどこまで粘らせるかという技術がジョッキーに問われる。そのため、どうしても彼らは強引と見えるほどの大きなアクションで馬を叱咤激励する。必要に迫られて、馬を御する技術や馬を動かすコツ、馬を追う肉体を、日々の実戦を通して築き上げるのだ。もちろん、全く同じスタイルでは中央の競馬では通用しないため、芝のレースや緩急のあるレースにも対応できるよう、自分を適応させながら進化していかなければならない。そうしていく中で、彼ら独特のスタイルがさらに磨き上げられてゆくのだ。それは美しくないとか、世界の主流ではないとか、馬主へのアピールしか考えていないとか、批判の対象になることは多いが、そこにどれだけの意味があろうか。彼らの騎乗フォームが美しくないとは思わないし、勝つことに対する厳しさを彼らからは感じることができる。そして実際に彼らは勝つのだから、問題は見た目ではなく、やはり中身なのである。

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あえて苦言を呈する

半年間の米国滞在を決めたとき、彼はまだ勝ち鞍も通算100勝に満たない、若手騎手のひとりだった。大リーグを例に取れば、高校中退後、すぐにメジャーリーグを目指して米国に移り住んだ、鈴木誠投手に似ているかもしれない。

後藤はなぜ、あのとき米国競馬に飛び込んでいったのか。

その理由を本人から聞いたことがないのでわからないが、日本では得られないものを米国で得よう、という気持ちだったのだろうか。

それにしても、デビュー5年目にして単身で米国へ渡ったのだから、勇気があるというか、たいしたものだ。しかも、彼は米国競馬を吸収し、かなり大きくなって、アメリカをそのまま全部もって帰ってきた。その姿は完全なアメリカンスタイルといえる。

そう簡単に騎乗スタイルを変えられるものではないので、天性の素質が高かったのだろう。日本では見つけられなかった素質を、アメリカで発掘してきた、といえる。また、帰国後の彼の大きさを見ていると、それなりのことを米国でしてきたことがわかる。

気になることもある。あまりにも米国流をやりすぎているように見えるのだ。

3コーナーから一気に押し切るアメリカ型競馬を日本でやり、後ろの馬に差されるケースが目につく。

「あまりアメリカ一辺倒でもまずいよ」と話したこともあるのだが、いまでも彼はステッキの使い方、姿勢、勝つレースなど「これぞアメリカ」という競馬を貫いている。

日本の競馬は欧州と米国の中間といえる特殊なスタイルであり、そこでアメリカ一辺倒の競馬をしても限界がある。日本にあった騎乗を頭の中に入れて、もう少し柔軟になってもいいのではないか。

彼ならさらに飛躍できる、と信じているからこそ、あえて苦言を呈する。

(「口笛吹きながら」より)

Nohirayuuji

今、こうしてしっかりと騎手の乗り方について苦言を呈することができる人はほとんどいない。いや、昔からいなかったのだが、祐ちゃん先生だけは例外だったと言うべきか。祐ちゃん先生がかつて騎手であり、実績があったからではない。日本の競馬の中で、騎手の乗り方に表立って口をはさむことは、ある種タブーであったのだ(今もそうありつづけている)。他のスポーツでは当たり前に行われているような指摘も、それが騎手に向けられると批判や非難となってしまう。日本の競馬の世界では、ジャーナリズムが機能しにくいのだ。そこには競馬村の閉塞感があり、日本の競馬は文化であり、スポーツであると胸を張って言えない状況がある。

祐ちゃん先生が苦言を呈したのは、後藤浩輝騎手ではなく、後藤浩輝騎手の乗り方に対してである。あまりにもアメリカ流をやろうとしすぎて、仕掛け(動き出し)が早くなってしまいがちな点を指摘したのだ。アメリカの競馬ならばそれで押し切れても、日本の競馬はアメリカ型とヨーロッパ型のレースが玉虫色的に混在しているため、ひとつの型ばかりだとどうしても勝ち切れないレースが出てくる。もしどんなレースにも対応したいと望むなら、日本に合ったスタイルに柔軟に変化させてゆく必要があるということだ。後藤騎手にとっては厳しい指摘かもしれないが、そこには日本競馬の将来を担うべき後藤騎手への期待と愛情が込められている。

もっとはっきりと言うと、後藤騎手に足りなかったのは、道中で脚をためて、最後の直線で爆発させる力である。これは完全にヨーロッパ流の乗り方であり、実は祐ちゃん先生も欧州の競馬に長期滞在したときにぶつかった壁であった。あのスピードシンボリをして、最終コーナーまで抜群の手応えで回ってきたにもかかわらず、勝ったと思ったその瞬間に、並ぶ間もなく抜き去られた。静と動のギアチェンジにおける、日本とヨーロッパの騎手の技術の違いを肌で感じた瞬間であったという。道中で同じように馬に乗っているように見えても、ヨーロッパの騎手が“溜める”だとしたら、日本の騎手は“抑える”だとも語った。

京成杯で1番人気のアドマイヤブルーに跨った後藤騎手の騎乗を見て、祐ちゃん先生のそんな話をふと思い出した。後藤騎手がアメリカ流をやりすぎているとは思わないが、道中で脚をためて、最後の直線で爆発させるのが不得手だとどこかで感じているからこそ、意識的にもしくは無意識的に早めから動いてしまう、または馬が察して動いてしまうのだろう。じっくりと脚を溜めて、びっしりと追った方が良いタイプのアドマイヤブルーとは、馬が合わなかったということだ。もちろん一方で、そうして積極的に動いて、ゴールまで我慢させて勝ちを拾ってきたレースがたくさんあることも事実である。そして、おそらく、当時まだデビュー5年目であった後藤騎手が、単身でアメリカに渡った理由もここにある。アメリカ競馬に対する単なるあこがれだけではなく、静と動のギアチェンジにおいて分が悪い騎手としての自分を冷静に見極めて、早めに動いて我慢させるアメリカ流に賭けてみたのではないか。その試みは見事に成功したといえる。自分の弱点を補って余りある強みを身につけて、後藤騎手は日本に戻ってきた。それからさらに強みを磨き、通算1300勝(2012年1月17日時点)を積み上げて、一流と呼ばれる騎手に成長したのだ。祐ちゃん先生の目は確かであった。

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憂慮される日本競馬の未来

「変な馬でも腕で勝たせた」という自信がある騎手が、調教師になってもそのようなプライドを携えているようでは、成績は思うように上がらない。マネーゲームの側にもいないと、いまの競馬はやっていけない。

名騎手だった調教師たちにそう言って聞かせるのだが、彼らはおしなべて、
「俺たちはそんなことできない。マネーゲームをやって、いい馬を入れれば数字は上げられる。でも、成績を上げたから名調教師、ではないと思う」
と突っ張る。それでこそ名騎手であったわけだが、私にとっては、勝てばいいのに勝たない彼らに、腹が立ってしょうがない。なぜ、私がやったことを真似しようとしているのか、悪いところまで真似しなくていいのに、と。

ただ、彼らの気持ちが私にはよくわかる。いい馬を入れないと勝てないと説教をしながら、彼らには「ゼニさえ出せばなんでも走る馬を買ってこられる」という言い方はしてほしくないと思う。そういう考え方は、競馬をマネーゲーム一辺倒にさせてしまうから。

ビジネスだけで成り立つ競馬になったら、競馬は終わってしまう。

私は、マネーゲームに巻き込まれたヨーロッパの競馬の繁栄と衰退を、この目で見てきたからこそ、それがはっきりと言える。日本の競馬にはそうなってほしくない。競馬でマネーゲームをやることを悪いとはいわない。だが、それだけでは競馬は終わっていく。何事も偏ってはいけない。片側だけが勝ちすぎてはいけない。

ところが、ビジネスの面から競馬を見ている人は増え続けている。一部の人たちだけのマネーに左右され、競馬がそれだけで動かされているように思うとき、私は純粋な競馬人として不安を感じ、日本競馬の行く末が心配になってしまう。

競馬とはみんなで楽しむものである、という思いが私にはある。競馬がマネーゲームになると、みんなで楽しむものではなくなってしまう。

競馬には歴史がある。

また、それを重んじる人がいなければならないと思う。

歴史を重んじ、語り続けながら競馬を楽しめる競馬人がどれだけいるのだろう。残念ながら、そうした競馬人、厩(うまや)人は減ってしまった。いまの競馬に歴史はない。そう思ってしまうのは、競馬とは縁のない、よそから競馬の世界に入ってきて調教師になった人たちが増えてきたからだ。

そういう人たちは、背負ってきた過去が競馬の世界にはないから、歴史を伝える必要はなく、ビジネスだけで競馬を見ることができるのだろう。

競馬がマネーオンリー、ビジネスオンリーになってしまったら終わりだ。悲しい結末を迎えないためにも、日本競馬全体の底上げをしなくてはならない。

日高の中小生産者もみんな、底上げをして頑張ってほしい。手づくりの安い馬で高い馬を負かす。そういう時代にならないといけない。

先日、久しぶりに馬産地を訪れたとき(日高に行くと元気が出る!)、そのような思いにとらわれた。
(「口笛吹きながら」より)

Nohirayuuji

社台グループのひとり勝ちについてどう思いますか?という質問をある読者からいただいた。私もこの件については思うところがあるので、この場を借りて答えさせていただくと、ひとり勝ちの状況は良くないが、社台グループが悪いわけではないということだ。社台グループが日本の馬産を独占して、間違った方向に進めているわけではなく、むしろグループの中で競争をして切磋琢磨している。現在の社台グループには、血統の素晴らしさ、人材の豊富さ、最新の設備など、あらゆる面における卓越さがある。ただ単純にお金をかけただけではなしえない、時間と情熱を傾けてきた結果としての実りがあるのだ。

サンデーサイレンスの影響力は計り知れない。サンデーサイレンスがいなければ、ここまで社台グループのひとり勝ちの状況が進むことはなかったかもしれない。と同時に、サンデーサイレンスが日本に来なかったとしたら、日本馬のここまでのレベルアップは考えにくいし、国際化の波に飲まれてしまっていたかもしれない。サンデーサイレンスの直仔であるディープインパクトやハーツクライ、ステイゴールド、ハットトリックらが海外の大レースでその能力の高さを示し、孫たちのヴィクトワールピサやブエナビスタらも国際レベルの活躍を見せた。さらに母の父としてもアドマイヤムーンらの大物を輩出し、キングカメハメハをリーディングサイヤーの座に押し上げた。世界の競馬地図を大きく書き換えたのである。

もちろん、サンデーサイレンスの遺伝力の強さの弊害もないわけではない。どうしても日本で走る馬たちの血統に偏りが出てしまうのは否めないだろう。昨年のダービーは、出走馬18頭全てがサンデーサイレンスの孫であった(サンデーサイレンス直仔の種牡馬の産駒が16頭、サンデーサイレンスが母父に入った産駒が2頭)という象徴的なレースであり、社台の運動会などと揶揄された。レース自体は素晴らしいものだったが、どの馬も似たような血統構成になってしまっている。

ビジネスの面から売れることを考えて配合されたものだけに、ワンパターンな血統構成の馬ばかりで、いわゆる多様性に欠けるのだ。世界の競馬がボーダレスになってきている今、サンデーサイレンスの血が広がりすぎて生産活動が行き詰ってしまうことはないが、父がサンデーサイレンスの孫の誰かである馬、もしくは父はキングカメハメハだが母父にサンデーサイレンスが入っているという馬ばかりになってしまう。

そうして詰まるところ、買い手(馬主)も預かり先(調教師)も乗り手(騎手)も多様性を欠いてしまうことになるだろう。ひと握りのお金を出すことのできる人々と、その周辺にいるつながりのある人々だけが楽しめる競馬になってしまうのだ。誰しもが楽しむチャンスすらない状況では、競馬は内部からジワジワと崩壊してゆく。つまり、競馬から手を引く(引かざるをえない)人が増えてゆくということだ。これがマネーゲームとしての競馬の終着駅である。祐ちゃん先生はそれを危惧した。何ごとも偏ってはいけない。片方だけが勝ちすぎてはいけないということだ。しかし、繰り返しになるが、その状況は良くないことだが、社台グループが悪いのではないのだ。


昨年末、私はとある厩舎の忘年会に参加させてもらった。かつてジョッキーとしてならした大御所とされる調教師が切り盛りするこの厩舎は、今年不振を極めていて、年間でひと桁の勝利数しか収めることができなかったのだ。それでも、その調教師の人徳の賜物なのだろう、たくさんのジョッキーや関係者が集い、終始なごやかなムードで会は終盤を迎えた(ように私には思えた)。そして、最後に、社台グループの吉田照哉氏が壇上に登場して、締めの挨拶を行なった。

「社台グループはうまいことやっていると思われているようだけど、「私たちにもいつどうなるか分からないという時期があった。それもつい最近まで」という前提から始まり、「だから今は、爪の先まで、厩舎のためにという想いを持って、皆で頑張ってほしい」というエールが送られ、最後はジャンピング1本締めで会はお開きとなった。

誰もが思い思いにその場から離れようとしていると、とある馬主さんが助け舟を出そうと、「来年は社台の馬を4、5頭入れてくれるってよ、ねえ」と吉田照哉氏にけしかけた。吉田氏は他の人から話しかけられていて、聞いているのか聞いていないのか分からない様子であったが、当のその調教師は「いやー、そんなに入れてもらっても馬房が一杯になっちゃうなあ」などと茶化すようなことしか言わない(照れ隠しだったのだろう)。傍から見ていても、じれったい空気が数秒続いたその時、ある女性がきっぱりとした声で調教師に告げた。

「頭をさげなさい!」

私だけではなく、その場にいた、その声を聞いた誰もが驚いたに違いない。その女性は奥様なのだろうか、調教師と近い距離にいる人に違いはないのだが、皆の前でそこまで言ってしまうなんて…。ところが、その声を聞いて、その調教師は我に返ったように、頭を下げた。斜め30度ぐらいと、いささか不慣れでぎこちない傾斜ではあったが。吉田氏はそれを見ていたかどうか分からず、結局、その場でしっかりとした約束には至らないまま、場は流れてしまった。

私は良いシーンを見たと感じた。これまで鞭一本で身を立ててきた騎手が引退したのち、調教師として全く別の道を歩み始め、上手く行っていた時期もあったが、いよいよ厩舎経営に行き詰まってしまう。頭を下げたことのない人間が頭を下げなければならない、プライドを打ち砕かれるような状況に陥ったのだ。それでも、一家の長として、経営者として、どんなことをしてでも再建しようという決意していたのだろう。今は栄華を誇る社台グループの吉田一族でさえも、かつてどれだけ人に頭を下げてきたのだろう。苦しいとき、私たちには、頭を下げることも必要だろう。それさえできないのであれば、日本の底上げなど夢物語にすぎないどころか、もはや自分たちを救うことさえできない。たとえ頭を下げてでも再建しよう、成し遂げようという強い決意とそれを支える地道な努力が私たちに問われているのだ。自分のプライドと戦いながらも頭を垂れた調教師の姿に、私は暗さや哀しさではなく、未来への明るさと希望を見た。

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再掲:高地競馬の廃止は許されない

私がなぜ高知競馬に対してこれだけ関心を寄せているかを説明する必要があるだろう。はっきり言えば、日本の競馬全体を思ってのことである。これは高知競馬ひとつの問題ではなく、日本の競馬全体に影響する大きな問題としてとらえているのだ。

存続の危機に立たされているのは、いまのところ高知競馬だけだが、それと同じような状況にいつなってもおかしくないとおもわれる、危ない競馬場はほかにもある。

たとえば、ホッカイドウ競馬の累積赤字は高知競馬を上回っている(私の実感では、北海道の関係者にはその危機感はないようだが)。高知の廃止が決まれば、他の地方競馬場に連鎖的に波及する危惧があるのだ。

日本の競馬場がひとつ減ることは、競走馬の流通経路がひとつなくなることを意味する。流通がなくなれば競走馬生産土壌にも影響してくるのは必至だろう。そのなかで最も大きな影響を受けるのが中小の生産者たちである。

競馬の歴史を見てもわかるように、強い馬は大牧場だけから出てくるわけでもないし、良血とされる血統だけから出るわけでもない。

思いもかけない血統からも、素晴らしい馬が出てくる。それがサレブレッド血統の神秘であって、競馬の面白さだろう。

ところが、地方競馬がひとつ減るだけで、生産した馬が競走馬としてデビューするチャンスすら与えられない牧場が増えることになる。いまでも苦しい状況にある、良血を持たない中小生産者の立場はさらに悪くなり、購入される馬が減り続けていけば、牧場経営をやめていく人たちの数は、いまよりも増えるだろう。

地方競馬がひとつなくなるだけで、少数の大牧場にいい馬が集中する傾向がさらに加速していくことは、容易に想像がつく。血統、出自などバラエティに富んだ馬たちによる競走が競馬の理想であり、特定の大牧場だけによる競馬では面白みが半減してしまう、と思っているのは私だけではないはず。

競馬場で走ることさえできれば、もしかすると素晴らしい走りをするかもしれない中小牧場の生産馬が、そのチャンスさえ与えられず、人知れず消えていく。

競馬場がひとつ消えることで、こうした現実がさらに増えていく。

私は日本の競馬を愛していることにかけては、誰にも負けないつもりだ。それだけに、こうした現実を、これからさらに見続けねばならないとしたら、寂しく、悲しくてしようがない。

日本競馬の将来を考えるなら、高知競馬がなくなっては困る。

そのために私の経験を生かすことができるのなら、できる限りお手伝いしたい。日本競馬全体のためにも、「高知競馬ひとつくらい廃止してもいいんだ」では絶対にダメなのだ。
(「口笛吹きながら」より)

Nohirayuuji

正直に言うと、かつて私は「競馬場ひとつくらい廃止してもいいのでは」と思っていた。利益を生まず、赤字を垂れ流しているのであれば、存続が危ぶまれるのは当然であり、主催者側(行政)のあらゆる癒着構造を断ち切らなければさらなる負の連鎖が生まれるに違いない。利益の出ないビジネスは、むしろ廃止すべきではないかとさえ考えていた。今から思えば、なんと単純な、派遣社員を簡単にリストラする企業の経営者たちのような発想であった。

日本の競馬のことを考えるのならば、高知競馬だけではなく、ばんえい競馬も荒尾競馬も、なくなっては困るのだ。日本の競馬場がひとつ減ることは、競走馬の流通経路がひとつなくなることを意味する。地方競馬がひとつ減るだけで、生産した馬が競走馬としてデビューするチャンスすら与えられない牧場が増えることになる。競馬場で走ることさえできれば、もしかすると素晴らしい走りをするかもしれない中小牧場の生産馬が、そのチャンスさえ与えられず、人知れず消えていくのだ。まさに祐ちゃん先生の言うとおりで、私はそんな当たり前のことさえ分からずにいた。

たとえば、古いところでいうと、オグリキャップという馬は笠松という小さな競馬場でデビューした。笠松競馬場がなければ、もしかするとオグリキャップは競走馬としてデビューしていなかったかもしれない。そうなると、オグリキャップが演じた数々の感動のレースを私たちは味わうこともなく、オグリブームなどあるはずもなく、日本の競馬は今日のような陽の目を見ていなかったかもしれない。オグリキャップの感動のラストランを見て競馬にのめり込んだ私が、「ガラスの競馬場」を始めることもなかったかもしれない。もちろんオグリキャップだけではなく、テイエムオペラオーやメイショウサムソンなど、数々の名馬たちが中小牧場から生まれ、日本の競馬を盛り上げた。

さらに言うと、競馬場で働く人々や馬たちはどうなるのか。ひとつの競馬場にはおよそ1000人以上の関係者らが働いている。調教師、厩務員、騎手、装蹄師など、馬を速く走らせることに情熱を注いで生きてきた人々は、どこに行けば良いのだろうか。他の競馬場に移籍して、今までどおりの生活を送れるのはごく僅かな人たちだけである。かつて新潟競馬場が廃止されてしまった時にも、その関係者らは家族と共に全国各地に散り散りにならざるを得なかった。ジョッキーを続けられたのは、およそ半分にしかすぎなかったという。走る場所を失ったサラブレッドたちは食肉処分にされた。

毎年、高知競馬場では3月に黒船賞が行われる。今年は震災のため開催中止となってしまったが、来年こそは行ってみたいと思う。2007年の黒船賞には私も実際に足を運び、高知競馬の魅力を堪能させてもらった。高知の知己にも大変お世話になった。福永洋一騎手の出身地でもあり、高知の競馬ファンはそのことを大変誇りに思っている。息子の祐一騎手にも熱い声援が送られていて、胸が熱くなった。高知は気候だけではなく、人の心も温かい。こんな素晴らしい場所がなくなってしまうなんて、私には考えられない。

競馬場の廃止は絶対に許されないのである。


関連リンク
高知新聞HP:「高知競馬という仕事」
ガラスの競馬場:「岩手競馬廃止とかいばおけ支援金と」

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トゥザヴィクトリーの快挙

ドバイワールドカップデーの夜、グリーンチャンネルで、ステイゴールドがドバイシーマクラシックを制したシーンを見て、眠気を覚えるどころかすっかり興奮してしまった。

しかし、ドバイワールドカップは、日本馬では苦しいだろうな、という気持ちでレースを迎えた。

レギュラーメンバーがジャパンカップダートのときのように先手争いをし、トゥザヴィクトリーがフェブラリーSのように、2~3番手の好位で、うまくだましだまし進めても、日本馬が好勝負に持ち込むのは難しいだろう、と思っていた。

私の予想は見事に裏切られた。逃げたのはレギュラーメンバーではなく、トゥザヴィクトリーのほうだった。しかも、鞍上の武豊は、迷うことなく世界の強豪相手に先手を奪ったのである。

ペースは速いように見えたが、それば、玉砕覚悟の無謀な逃亡とは明らかに違っていた。たとえハイペースであったとしても、トゥザヴィクトリーはまったくの馬なりで手応えよく進んでいたのだろう。

大本命のキャプテンスティーヴには残り200メートルの時点で交わされてしまったが、直線、もしかしたら粘り込めるかもしれないと一瞬思ったくらい、その粘りは素晴らしいものだった。

トゥザヴィクトリーとステイゴールドのドバイでの戦いぶりをみて、サンデーサイレンス産駒は本当に厳しい競馬を強いられてこそ、真の実力を発揮するのだ、ということを改めて思い知らされた。

これは大きな収穫である。これからサンデーサイレンス産駒にまたがる騎手がどう乗ろうとするかはわからないが、大きなヒントになったはずだ。

もうひとつ、絶対に忘れてはならないことがある。

大健闘といえるドバイワールドカップ2着は、あそこで「逃げを打とう」と決めた騎手の判断力のすごさ以外の何ものでもない。

超一流のメンバーがそろった国際舞台で、武豊はまるでいつもと同じことをしているかのように、ふだんできないことをやってのけ、これまで見せることができなかったトゥザヴィクトリーの新しい魅力を発揮させてしまったのだ。これをすごいと言わずして何と言おう。
(「口笛吹きながら」より)

Nohirayuuji

祐ちゃん先生がこの文章を書いてから、10年の年月を経て、ようやくドバイワールドカップの勝利に手が届いたことになる。1着と2着の間にあった溝を埋めるのに、それだけの時間が必要だったということだ。私はこの夜、眠い目をこすりながら、布団の中でドバイワールドカップを生で観戦した。次の日の朝が早かったので、寝てしまおうかとも思ったが、こういう時だからこそ、なんとなく日本馬が勝ちそうな予感があった。レース後、歴史的瞬間に立ち会えたことを幸せに思い、この勝利について祐ちゃん先生ならどう語るだろうと想像しながら、深い眠りに落ちた。

ヴィクトワールピサの勝利は、まるでいつも同じことをしているように、普段できないことをやってのけた、角居勝彦調教師率いるチームの勝利だと思う。トゥザヴィクトリーを2着に導いた武豊騎手がそうであったように、これだけ超一流のホースマンやサラブレッドが揃った国際舞台において、いつも日本でやっているのと同じように普通でいられたからこそ、普通ではない結果を得ることができたのだ。言うは易し、行うは難し。海外遠征で失敗するほとんどの理由が実はここにあり、角居勝彦調教師でさえ幾度の失敗を経験してきている。

たとえば、ヴィクトワールピサが3歳時に凱旋門賞に挑戦して7着に敗れたのも、馬が仕上がっていなかったことに主な敗因があった。豊穣な自然に囲まれたシャンティイ調教場で調教をすると、馬も人もリラックスしてしまい、意外にも仕上がり切らないことが多い。ディープインパクトの時もそうであった(そんな状態で3着に粘ったディープインパクトの強さが分かる)。だからこそ、シャンティイで仕上がり切らなかった馬は、日本に戻ってから、まるで休養明けのごとく、充実した馬体を示し、叩かれて良化していくのである。私の感覚では、ディープインパクトもヴィクトワールピサも、ジャパンカップはやや余裕残し、ひと叩きされた有馬記念こそが完調であった。

話を戻すと、角居勝彦調教師も武豊騎手もそれなりの場数を踏んで、経験をしているからこそ、普通でいられるのだろう。初めての環境や体験では、普通でいるのは難しい。そして、矛盾するようではあるが、この世で起こる全てのことは、今までにあったそのままではなく、新しい形で現れるため、その時、その場で普通に振舞える資質のようなものも必要となってくる。角居勝彦調教師は著書「勝利の競馬、仕事の極意」の中で、こう語っている。

「劇的な効果を挙げる特別なノウハウを追い求める必要はない。ただコツコツと、当たり前のことを普通に、日常の作業として継続していけばいい。ただし、それでは、その「普通」とは何か、というところがまた、なかなかやっかいではある。普通とは何か。当たり前とは何なのか。極めて平凡なはずの私が、そんなことに頭を悩ましているのは、本当に不思議な話なのだが、「角居流」と呼ばれるものがもしあるとしたら、何が普通なのかを一生懸命考え、当たり前と思えることをていねいに実行していくことかもしれない」

先日お会いしたハイランド真理子さんに教えてもらった話だが、角居勝彦調教師はデルタブルースでメルボルンカップを勝った時も、エコノミークラスで窮屈そうにお子様たちと座って、日本にトンボ帰りしたという。ハイランド真理子さんが、向こうの空港の係の方に、「この方はメルボルンカップを勝ったのよ」と紹介しても、係の方は「おっ、どれぐらい馬券で儲けたのかな」と笑って、誰も信じてくれなかったという(笑)。また、栗東トレーニングセンターの角居勝彦厩舎に行き、竹箒で厩舎の掃除をしているスタッフがいると思い、声を掛けると、なんと角居勝彦調教師本人だった!こんなちょっとしたエピソードからも、角居勝彦調教師がいかに意識的に、また無意識的に、普通に振舞っているかが伝わってくる。これぞ、世界の頂点を極めた「角居流」なのである。


関連リンク
ドバイワールドカップを勝った角居調教師のこと

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真の競馬人とは

いまの調教師にとって必要なのは、JRAの管理を甘んじて受け入れているだけでいいのか、という気構えである。

勝つためには、高額の良血馬を預かることも必要だが、そうした馬たちをJRAから貸し付けられた馬房に入れ、数多く出走させるために管理馬の入退厩を繰り返して、競馬に出走させるだけが調教師の仕事であっていいのだろうか。

小さな牧場から生まれた、地味な種牡馬の産駒を、自分の足と目で探し出し、G1馬に作り上げることに、調教師としての生きがいや醍醐味を感じてほしい。

サンデーサイレンスのような人気種牡馬を否定するつもりはないが、サンデーサイレンスの仔であっても、「実はこうだったんだよ」というエピソードを披露できるような、手作りの馬なのだと堂々と言えるような馬に育ててほしいのだ。

こうした意識の強い人たちに、これからどんどん出てきてほしい、と願わずにはいられない。競馬をマネーゲームだと思っている人たちに、自分はホースマンだと簡単に言ってほしくない。

日本の伝統を担い、なおかつ日本の競馬をよくしていこう、という気概を強く持った人こそ、競馬人と呼ぶにふさわしいと私は思っている。そうした競馬人がたくさん集まって、これからの日本の競馬はどうあるべきかを考え、将来の展望が開けるような会があったらいいな、と夢想してしまう。

そうした会に集うのは、調教師だけでなくてもいい。生産者も、馬主も、騎手も、厩務員も、マスコミや文化人も、ファンだっていい。

競馬を愛し、どうすれば日本の競馬がよくなるのかを、真剣に考えている人なら、だれでもいいのである。そういう人を競馬人と呼ぶのである。

そうした会がすぐにできるとは思っていない。これはもちろん夢想である。しかし、私のことを言わせてもらえば、自宅を訪れた新聞記者や、作家の人たちを、私はだれひとりとして拒否せずに受け入れ、競馬の話をして、彼らに競馬を愛してもらえるように頑張ってきた。

作家の人たちが、競馬とは縁のない雑誌などで、競馬の話題を書いてくれるようになったときは、本当にうれしかった。

いま、競馬人としての誇りを、みんなで話し合えるような会を作っていけたら、こんな素晴らしいことはない。
(「口笛吹きながら」)

Nohirayuuji


佑ちゃん先生は大切なことしか言わなかったが、大切なことは何度でも言った。競馬は文化であり、スポーツである。単なるギャンブルではない。ギャンブルだけでは競馬は滅びてしまう。競馬をマネーゲームにしてはならない。祐ちゃん先生はそう語り続けた。ギャンブル一辺倒からの脱却の実現のために、またマネーゲームに陥りがちな日本の競馬に警鐘を鳴らすために、人生の大半を捧げてきた祐ちゃん先生にとって、果たして真の競馬人とはどういう人を指すのだろうか。

その答えがここにある。日本の伝統を担い、なおかつ日本の競馬をよくしていこう、という気概を強く持った人こそ、競馬人と呼ぶにふさわしいと。どんな形でも、誰であってもよい。馬券だって、必勝法だって、サンデーサイレンスへの傾倒だって、どれもが日本の競馬の文化であり伝統である限り、否定することは全くないし、それらがなければ日本の競馬がここまで発展することなく、滅びてしまっていたかもしれない。むしろ肯定すべきなのである。

たとえば、サンデーサイレンスが日本馬を国際レベルに押し上げ、外国産馬の流入を防いだことは事実である。サンデーサイレンスの革命的な血がなければ、私たちは海外への挑戦から目を逸らし、もっと閉鎖的な競馬を粛々と営んでいた可能性だってある。そうこうしているうちに、内国産馬は強い外国産馬に駆逐され、現在の香港のように、自国でサラブレッドを生産することすらなくなっていたかもしれない。

一方で、サンデーサイレンスは持てる者と持たざる者との間に大きな溝を生み出した。G1レースの顔ぶれを見れば分かるように、今の日本の競馬で夢を見ることができるのは、ごく一握りの人たちだけなのである。あまりにもハンデ差が大きい市場において、競争原理を求めることは難しい。サンデーサイレンス亡き今でも、その後継種牡馬たちやサンデーを母父に持つ馬たちが大手を振って活躍する状況は変わらない。

つまりはバランスの問題なのである。どちらかに傾きすぎると、競馬が本来持っている美しい形が壊れてしまう。ともすると、私たちは分かりやすいマネーゲームやギャンブルに加担してしまう傾向がある。だからこそ、数字や記号だけに目を奪われていないか常に意識しておくべきだし、誰かが声を上げて、マネーゲームやギャンブルではない方向に揺り戻しをかけるべきなのだ。祐ちゃん先生が「競馬は文化でありスポーツである」と語り続けたのは、流されやすい人間の性質をよく知っていたからであろう。

それは真の競馬人に対する激励でもあった。祐ちゃん先生は、中山競馬場近くの自宅にあらゆる人々を招きいれ、多くの競馬人を輩出し、競馬人の輪を大きく広げた。祐ちゃん先生の日本の競馬に対する功績は果てしなく大きい。現に私も祐ちゃん先生に育てられたひとりである。私の競馬観のほとんどの部分は野平祐二によって形づくられた。調教師や生産者、馬主、騎手、厩務員、マスコミ、文化人、そして競馬ファン。競馬を愛し、どうすれば日本の競馬がよくなるのかを、真剣に考えている人たちが集い、祐ちゃん先生に教えてもらった競馬人としての誇りを、みんなで語り合えるような場があればと心から思う。そんな場を私も夢想している。


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「半熟卵の冒険」:ギャンブルとしての競馬を肯定するには

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スミヨンに教えられた「競馬人の教育」

来日しているクリストフ・スミヨンと初めて会ったのは、1999年10月、場所はフランス・シャンティー調教場だった。

そのとき、私はエルコンドルパサーが参戦する凱旋門賞に合わせて、NHK衛星放送の「世界・わが心の旅」の収録をするため、フランスへ行っていた。彼と会ったのもドキュメンタリーのためだった。番組をご覧になった方ならアッと思うかもしれないが、あのとき、私と話していた見習い騎手こそ、スミヨンなのである。

フランスの若手ナンバーワンであるというご推奨をいただいて会ったのだが、なるほど、当時からスミヨンは自分の将来のビジョンをしっかりと持っていた。

私が「オリビエ・ペリエは日本に来て活躍している」と話すと、「ぜひ、そのような騎手になりたい」と答えていたのを、つい先日のように思い出す。

しかも、彼はそのときから、日本での騎乗を熱望していたのである。いま、その希望が現実となり、彼が日本の競馬場で活躍している姿を見ると、感慨にふけってしまう。

1年半ほど前のスミヨンと、小倉で騎乗しているいまの彼をオーバーラップさせると、2年も経たないうちにこうも進歩できるものなのか、と驚いてしまう。

当時、彼が馬に乗っている姿を見て、長身のジョッキーにありがちな、馬から体が少しはみ出る欠点が目に付き、見習い騎手ではナンバーワンというが、即、トップジョッキーになれるかどうか、と思っていた。

私の予想は見事に覆された。彼は短期間のうちに素晴らしいジョッキーに成長したのだ。一見して「これは!」と感嘆させるものこそないのだが、追ってからの鋭さと激しさには「おお、すごい騎手だな」と感心させられるジョッキーへと変貌を遂げた。

それにしても、デビューして間もない騎手が、どうしてあそこまできちっとまとまった騎乗ができるのだろう。

日本人とは闘争本能が違うのだろうか、あれがヨーロッパのナイトの精神(騎士道)なのか。

あれこれ考えてみたところ、私が最終的にたどりついた結論は、教育の違いだった。純粋な騎手養成所ではないフランスの競馬学校は、ただうまく騎乗するための技術を教えるだけではなく、競馬のあり方、見方、考え方、騎手とはどうあるべきか、競馬人とはどうあるべきか、というところまで含めて教育しているのだと思う。

学校内にとどまらず、さまざまな視線が欧州の競馬人を教育しているのである。

欧州の競馬関係者の目は厳しい。オーナーや調教師は当然のこと、ファンやマスコミの目もシビアで、ミスをした騎手が、新聞に名指しで非難されるのは日常茶飯事。騎手たちはシビアな目によって、よりうまい騎手へと鍛え上げられているのだろう。

賞金が高く、JRAの保護下で大目に見られている日本の騎手とはわけが違う。

突き詰めると、欧州の騎手が持っているのは、いまの日本の騎手が忘れてしまったマイナー精神である。ただ技術を教えるだけが、学校や厩舎の仕事ではない。競馬にとっていい時代が過ぎたいまこそ、お客さんに見(魅)せることの意味をもっと深く考えなくてはならない。教育の場にそれが出てこなかったら、進歩もない。
(「口笛吹きながら」)

Nohirayuuji

競馬はスポーツであり、騎手はスターである。だからこそ、ただ馬に跨って勝つだけではなく、競馬ファンを凄いと思わせる、魅せる騎乗をしなければならない。そして、当然のことながら、その言動は周知にされる以上、マスコミやファンを含む、競馬関係者の厳しい批判にも耐えなければならないこともあるだろう。だからこそ、競馬のあり方、見方、考え方、騎手とはどうあるべきか、競馬人とはどうあるべきかを常に意識して生きなければならない。危険な職業だから高額の報酬を手にしているわけではなく、その影響が多くの人々に及ぶからこそである。

クリストフ・スミヨン騎手は、あらゆる意味においてスターなのだと思う。言動が行き過ぎて、関係者の怒りを買ってしまうのはたまにキズだが、それでも競馬ファンをレースで魅せ、馬から下りても楽しませようという気持ちに満ち溢れている。厳格なフランス競馬の中でヒールを演じられるのは、彼がベルギー人であることにも由来するのかもしれない。ライバル関係にあるルメール騎手とは対極の、そう、あのデットーリ騎手のような天真爛漫さで私たちを魅了するのである。本人もそれを意識してやっているのだから素晴らしい。

スミヨン騎手の魅力を物語るエピソードをひとつ。2009年にアガ・カーン4世の契約を解除され、さらにその後のレース中に落馬して後続の馬に蹴られ、肘を骨折してしまった。まさに踏んだり蹴ったりの状況の中で、ある競馬番組に登場した時のこと。療養中だった彼はゲストとして番組に招かれていたのだが、突如、ファンの前で腕にはめていたギブスを外し、そのままジョッキールームに行き、勝負服に着替え始めたのだ。

驚くファンを横目に、スミヨンはその日の午後のG2レースで見事な勝利を収めた。そして、翌日のG1マルセルブサック賞では、アガ・カーン殿下のロザナラで勝って、殿下に恩返し(見返し?)をしただけではなく、自らの復帰戦を飾ってみせたのだ。予想以上に怪我の回復が早く、ギブスをしていたのはパフォーマンスのひとつであったのだが、絶対的な騎乗技術と競馬ファンに対するサービス精神がなければ、こんな芸当はできないだろう。さすがにここまでしろとは言わないが、スミヨン騎手は競馬界のスターとしてのあり方を知っているのである。

難しいことは言わない。日本の競馬人の教育をする前に、まずはジョッキーのインタビューの受け方の教育を行ってはどうだろうか。競馬を始めた頃から、私がずっと違和感を抱いていたのは、勝利ジョッキーインタビューにおける受け答えである。無表情、朴訥ではなくぶっきらぼう、インタビュアーの目を見ない、時にはインタビュアーやファンに食って掛かったりする。興奮冷めやらぬ中、インタビュアーの質問があまりにもつまらなかったり、競馬ファンの態度がなっていなかったり、ということもあるだろう。

それでも、その言葉や態度は、メディアを通してたちまち不特定多数の人々に届けられる。競馬ファンではない人々も目にして、競馬のイメージが形成されてしまう可能性だってある。自分たちが身に余る報酬を手にしているのは、その影響力の大きさだと知ってほしい。そこがしっかりと教育されているジョッキーとそうでないジョッキーの違いは果てしなく大きい。ヒーローになってくれなくてもいい。私たち競馬ファンに冷や汗をかかせたり、テレビの前で赤面させないでほしいのだ。

祐ちゃん先生がスミヨンを見初めてから10年の時が流れ、彼は再び日本にやってきた。スミヨン騎手は日本が誇る看板馬であるブエナビスタに跨り、今までの勝ちきれなさがウソのような勝ち方で伝統ある天皇賞秋を制した。勝利ジョッキーインタビューでは、日本語で「ありがとうございます」と感謝を伝え、日本のG1レースを勝てた喜びを全身で表してみせた。また、勝利騎手会見では、落馬してブエナビスタに乗れなかった横山典弘騎手に対する気遣いもみせたという。ブエナビスタの乗り味は、彼のベストパートナーであったザルカヴァと似ているとも言ってくれた。日本の競馬ファンである私は誇らしい。

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デムーロ、卓越した騎乗技術

2月3~4日に、イタリアから来日中のミルコ・デムーロが、小倉競馬場で2日間で8勝の固め打ちを演じた。土曜日の1日5勝は、オリビエ・ペリエの4勝を抜く、外国人騎手の新記録だという。

デムーロの騎乗を見ていちばん驚くのは、彼が22歳という若さでヨーロッパのスタイルを完璧に身につけているところである。ムチの使い方、体や腕のしなり方、騎座から連携している動きが、一貫した流れの中で実にスムーズに行われているのだ。

初来日のときの騎乗を見て、騎座がきっちりとしており、馬をいつも楽に走らせている姿に目を見張ったものだ。デムーロがどこにいようが、彼がどの馬に乗っているかがすぐにわかる。追ってからも下半身がブレることなく、しっかり馬を動かせている技術も卓越していると感心した。

武豊がそうであるように、デムーロも、みんなにわかるようなことをしてみせて、それでしっかり勝たせてしまのだ。

いい馬ばかりに乗っているから、という陰口も出てくるだろうがそればかりではない。ほかの日本人騎手が、同じ馬を同じ位置どりで競馬をさせてみても、おそらくデムーロや武豊騎手(ここにペリエを加えてもいい)のように勝たせることは難しいだろう。

あの若さで、こうしたことを平気でやってのけてしまうことには驚くばかりだ。現状でこれほど素晴らしいのだから、将来はどうなってしまうのだろう、という末恐ろしさを感じてしまう。どういう形で成熟していくか興味深い。

デムーロで受けた驚きは、1981年の第1回ジャパンカップでキャッシュ・アスムッセンから受けた衝撃と似ている。

メアジードーツを駆って日本で初の国際招待レースを制したとき、アスムッセンは、その2年前にデビューしたばかりの19歳だったのだ。

競馬は見るスポーツであり、騎手はスターでもある。土壇場の勝負になったとき、苦し紛れにリズムを崩したり、追うアクションに乱れがあっては見苦しい。

あのときのアスムッセンは、切羽詰まっていたはずにもかかわらず、それを表に出さずにリズムを持続させ、乱れのないフォームで追い続けたのだ。なぜ19歳の若者が、こんなにも華やかで、ときには優雅とさえ感じられる騎乗ができるものかと驚き、ため息をついたものだ。

あれと同じような驚嘆をいま、22歳のイタリア人騎手に覚えている。

そんな折も折、今度はベルギー出身のフランス人騎手、クリストフ・スミヨンが来日して騎乗するようになった。彼も19歳という若さながら、ちゃんとした騎乗をしているのだ。

欧州から参戦してきた彼ら2人を見ていると、彼らと日本人騎手との違いは何だろう、どこにあるのだろうと考え込んでしまう。これは教育の違いではなかろうか、という思いが、私のなかで日増しに強くなっている。
(「口笛吹きながら」より)

Nohirayuuji

いつの間にかやって来て、気が付くと勝っている。もはや風物詩ともなってしまったミルコ・デムーロ騎手の来日だが、今年もまたやってくれた。初日の土曜日のいきなり1レースから、挨拶代わりに3番人気の馬を勝利に導き、さらにその日のメインレースとなる京王杯2歳Sで7番人気のグランプリボスで重賞を制してしまった。ムチ1本を携えて、国境を越えやって来るイタリア人騎手を、卓越した騎乗技術を持ったアスリートとして認めない競馬関係者はもはやいない。

祐ちゃん先生がこのコラムを書いたのは2001年のことだから、今から9年前のことである。当時、若くしてすでにイタリアのリーディングジョッキーであったミルコ・デムーロ騎手だが、彼の騎乗を良く言う日本の競馬関係者は少なかった。どちらかと言うと、騎乗が乱暴、狭いところに入ってきて危険、目先の勝利のことしか考えていない等の批判の声の方が多く聞こえてきた。それでも、見るべき人が見れば分かったのだろう。いや、澄んだ心の目で見れば、彼の騎乗技術の高さは一目瞭然だったのである。

総合的な技術が高いからこそ、馬を我が思うがままにコントロールできる。距離ロスを避けようと、隣の馬との間隔を異常なまでに詰めるのも当然のこと。わずかでも隙間があれば、瞬時に移動して、ひとつでも良いポジションを確保する。彼を危ないと感じるのは、大袈裟に言うと、一般道でF1レーサーが運転しているようなものだからだ。まるで自分の体の一部のように車を操ることができるレーサーと一般のドライバーとでは、距離(幅)感覚も全く違う。危ないと思っている側の方が実は危険だったりもする。ミルコ・デムーロ騎手は見切っているのである。そして、馬を追い出してからは、下半身が全くブレることなく、馬に掛ける負担も少なく、最後まで真っ直ぐに走らせることができる。

これらはごく当たり前のことだが、当たり前のことをいつも当たり前にできる騎手は数少ない。野球のイチローは、「僕は天才ではない。なぜなら自分がヒットを打ったときなぜ打てたのかを説明できるからだ」と言っているが、そういう意味においては、ミルコ・デムーロ騎手も天才ではない。彼の飄々とした性格やパフォーマンスに惑わされてはいけない。彼ばかりが良い馬に乗っているわけでもない。彼の騎乗技術は、全てにおいて説明可能なものなのだ。他のジョッキーが見れば、こうしたから勝てたということが分かる。でも、分かっていても真似できないジョッキーの方が多いのだから、彼が嫉妬されるのは当たり前なのである。

ミルコ・デムーロ騎手から受けた衝撃を、祐ちゃん先生はキャッシュ・アスムッセン騎手のそれと重ね合わせている。第1回ジャパンカップにおいて、外国馬に上位を独占されたとき、日本の競馬関係者はこぞって肩を落とし絶望した。ところが、幾人かの日本人ジョッキーだけは違った。メアジードーツに跨って勝利したキャッシュ・アスムッセン騎手を見て、岡部幸雄、柴田政人、的場均、加藤和宏らは、強烈な対抗心を燃やし始めたのだ。彼らはそこから生まれ変わり、スターダムへとのし上がった。デムーロがアスムッセンだとすれば、今の日本のジョッキーたちにとってはまたとないチャンスである。同じレースに乗ることで多くの学びがあるだろう。嫉妬している場合ではない。強烈な対抗心を燃やせばいいのだ。

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「いい経験」では情けない

日本から駆けつけた多くのファンが見守るなか、キングジョージに挑戦したエアシャカールが、勝ったモンジューから8馬身以上も離されて5着に敗れた姿をテレビで見て、私は勝ち負けは別にして、ある種の情けなさを抱くことを禁じ得なかった。

というのも、この結果に、関係者が口を揃えるように「いい経験だった」と言っているからである。

1969年にスピードシンボリでキングジョージに参戦した私には、今さら「いい経験ができた」なんて言われちゃ困る、という意識があるからだ。

31年前と違い、日本産サラブレッドの質は、想像もしなかったほど向上していると言っていい。

日本の調教施設の充実も、目を見張るものがある。競馬に携わる人たちの考え方や姿勢も隔世の感がある。海外で競馬をさせることを念頭に馬作りをしている人たちが増えてきている。海外競馬の情報も、瞬時に詳細が日本に入ってくる。

そんな恵まれた時代になり、以前とは比べ物にならないほど優秀な頭脳とノウハウを持ってしても、通用しなかったのだ。

勝つとか、負けるとかではなく、世界の社台グループ生産馬をもってしても「いい経験ができた」というレベルまでしかできなかったと思うと、情けなくなってしまう。

エアシャカールが辿った軌跡は、私とスピードシンボリが辿ったそれと、ほとんど変わることがなかたのだから。

31年前、スピードシンボリは4コーナーを抜群の手応えで回って先頭に立った。馬上の私は「こんなに簡単に勝っていいのかな」と思ったほどだった。ところが、残りの1ハロンで、あっという間に数頭の馬が我々を交わしていった。

勝ったのは、歴史的名牝の1頭に数えられる英国のパークトップ。名手レスター・ピゴットが騎乗した勝ち馬から、8馬身差の5着で入線したのがスピードシンボリだった。

当時、私はヨーロッパの競馬も小手先でごまかせると思って乗り込んでいった。だが、そんな日本的な安易な発想は、レースに臨むと同時に一瞬にして否定された。

「勝つから強い」ではなく「強いから勝つ」

それを思い知らされ、打ちひしがれた。

エアシャカールはキングジョージで3、4番手を追走し、4コーナーではいったん最後方まで下がった。

これを見て私は「武豊は最後の脚を生かすことを考え、格好よくやろう、としているな」と思った。ところが、ヨーロッパの最高峰のレースは、そういう小手先の競馬だけでは勝てないのである。

レースを見る限り、武豊は私と同じ轍を踏んでしまった、といえる。彼は、道中で「ためる」のがうまい騎手であるが、日本人はまだ、本当の我慢のさせ方はできないのかな、と思った瞬間でもあった。

日本の競馬のレベルは相当なところまで達している。しかし、本当の意味で強い弱いという尺度からいえば、まだ本当の強さは身につけていないのである。

日本の競馬人はエアシャカールの結果を深刻に受け止め、「何が足りなかったのか」を真剣に考えないといけない。

「何が足りないか」

抽象的で申し訳ないが、すべての面で蓄積が足りない、と私は思う。
(「口笛吹きながら」より)

Nohirayuuji

今日の凱旋門賞を観て、祐ちゃん先生は何とおっしゃるだろうか。ひと言、「まずはよく頑張った」と褒めてくれるのではないかと私は思う。二ノ宮敬宇調教師も蛯名正義騎手も、「いい経験だった」とは決して言わないだろう。それぐらい、凱旋門賞制覇に近づいた瞬間であった。エルコンドルパサーやディープインパクトの時よりも、ずっと近くの、すぐ手の届くところまで来ていた。いや、それどころか、勝っていたレースだったと言っても過言ではない。

レースを見れば、誰だってナカヤマフェスタの方が強かったことが分かるだろう。スローペースの中、勝ったワークフォースが中団の内々で脚を溜めていたのに対し、ナカヤマフェスタはやや外目を追走して、脚を溜めることができないでいた。さらに勝負どころのフォルスストレートの辺りから、ナカヤマフェスタは早めに動き始め、最後の直線に向いた時には、もうすでに先頭に立とうという勢いで飛び出した。結果的には、これが少し早仕掛けとなり、内からワークフォースに足元をすくわれてしまったのだ。最後は同じ脚色だっただけに、コース取りと仕掛けのタイミングが明暗を分けたレースであった。

果たして、蛯名正義騎手に何が足りなかったのか。それは「経験」だと思う。ヨーロッパの競馬における「経験」の蓄積が足りないのだ。「経験」が足りないからこそ、勝負どころで馬群が密集した時、気が焦ってしまった。「経験」が足りないからこそ、その後、前が開いた瞬間に、行かなければという誘惑に勝てなかった。ナカヤマフェスタにあれだけ手応えが残っていれば、どこかで必ず抜け出してこられたはず。「経験」があれば、待てたはずなのである。武豊騎手に至っては、道中で全て行きたいポジションを相手に先に取られてしまっていた。

いくら日本産馬のレベルが飛躍的に上がり、調教設備が整い、海外遠征のノウハウが培われたとしても、最後のアンカーであるジョッキーに「経験」が足りないのである。日本馬に日本のジョッキーが跨って勝てれば最高だが、もうそんなことは言っていられない。蛯名正義騎手や武豊騎手が長期的にヨーロッパで「経験」を積むことなど現実的ではないからだ。そうなると、日本馬が凱旋門賞を勝つためにすべきはひとつ。「経験」の蓄積のある、向こうのジョッキーに騎乗を依頼することだ。

実は、今からおよそ10年前、蛯名正義騎手や武豊騎手は共に、長期で欧米に遠征したことがある。しかし、祐ちゃん先生の「日本には帰ってくるな」というエールに応えることなく、1年そこらで日本に戻ってきてしまった。色々な事情があったことも分かるが、今日、こうして日本馬の敗戦を受け、もしあのとき蛯名正義騎手や武豊騎手が日本に帰ってくることなく、野球のイチロー選手や松井選手のように、海の向こうで戦いつづけていたとしたら、どうなっていただろう、と今になって思う。

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オペラオーよ、海外へ目を。

久しぶりに強い競馬を見ると安心する。やっぱり強い馬がしっかり勝つ競馬はいいな、と天皇賞を見て思った。

日本の競馬は、どうしても「何とかしよう」と小手先に頼る競馬になりがちなだけに、テイエムオペラオーのような真に強い馬がいると本当の競馬を堪能でき、競馬を見る楽しみも増える。

日本競馬は、極端に言えばこのオペラハウス産駒の現役最強馬の双肩にかかっている、といっていいかもしれない。競馬を盛り上げるためにも、テイエムオペラオーにはジャパンカップと有馬記念を、余裕をもって勝ってほしい。そして今年が終わったら、視線を海外に向けてほしい。

そう思っていたら、天皇賞春秋連覇の直後に、竹園正継オーナーは「来年も現役を続行する予定はあるが、海外遠征は考えていない」と明言したという。競馬場で取材した記者によると、竹園オーナーは、日本産サラブレッドと日本競馬を愛するゆえ海外に行かない、という信念を持っているという。だから、竹園オーナーは1頭も外国産馬を所有したことがないそうだ。

外国産馬に押されつつある日本の生産界の一助になれば、と国産馬を買い続け、オーナー自身も生まれ故郷の鹿児島に生産牧場をつくった。竹園オーナーのそうした考え方は非常に素晴らしい、と私も深く共鳴する。

日本の生産界のため、という大義には賛同するが、だからテイエムオペラオーを日本でしか走らせない、という考え方に関しては、「ちょっと視点を変えてみてください」と申し上げたい気持ちだ。

というのも、テイエムオペラオーが日本産サラブレッドだからこそ、日本代表として海外の大レースに参戦することが、日本の生産界、そして日本競馬のためになる、という考え方も成り立つからである。

最近の海外遠征は外国産馬が目立つが、私はマル外を外国のレースに挑戦させてもあまり価値はないと思っている。それよりも、国産馬を挑戦させることのほうが、どれだけ大きな意義があるか計り知れない。

テイエムオペラオーが海外挑戦すれば、日本はこんなに強い馬を作れるんだ、と世界の競馬人にアピールできるのである。来年も、相手がいなくなった日本で走るよりも、日本競馬のために多大な功績を残すことになるのではないか。

また、海外に目を向けることは、テイエムオペラオーのためにもいいことである。来年も日本で走り続けるとしたら、オペラオーと陣営は、「絶対に負けるわけにはいかな」と追い詰められるだろう。
これまで目いっぱいの競馬を続けてきたオペラオーにとっても、精神的プレッシャーがさらに増すスタッフにとっても、苦しいはずだ。そんなとき、海外へ挑戦するために、いったん気持ちをちょっと緩めるだけでプレッシャーから逃げられ、もっとのびのびと走れるかもしれない、と私は思う。

有馬記念後、オーナーがいやでも海の外を考えざるを得なくなるときが訪れることが、私の望みだ。
(「口笛吹きながら」より)

Nohirayuuji

祐ちゃん先生がこのコラムを書いてから、10年の歳月が流れた。その間に、数多くの日本馬が海外の競馬に挑戦し、ある馬は勝利を手にし、ある馬は敗北を味わった。何度も挑戦した馬もいたし、わずか1度きりのチャンスしかなかった馬もいた。その中でも、ハーツクライ、デルタブルース、シーザリオ、ステイゴールドなど、日本産馬が海外のG1タイトルを獲得した価値は大きい。いや、最近では海外の挑戦する馬のほとんどは日本産馬である。それほどに日本の馬は強くなり、10年前には考えられなかったくらい、世界のホースマンたちにも認められつつある。

それでは、今、日本馬が海外へ挑戦することの意義はどこにあるのか。日本はこんなに強い馬を作れるんだ、と世界の競馬人にアピールするためではなく(もちろんそれも必要だが)、なぜ何のために私たちは海外へ挑戦すべきなのだろうか。日本に留まって走り続けた方が、よほど賞金は高く、コストは少なく、日本の競馬ファンへのサービスにもなる。また、環境が変わることによって起こる事故や馬に対するダメージも圧倒的に少ない。にもかかわらず、なぜ私たちは常に海外へ目を向けておくべきなのか。

私なりの答えは、日本競馬の無痛化への警鐘である。「無痛化」とは、森岡正博氏(生命学者)によって提唱された概念であるが、今あるつらさや苦しみから、我々がどこまでも逃げ続けていけるような仕組みが、社会の中に張り巡らされていくことである。たとえば今、私はこの文章を、冷房が利いて26度ぐらいの心地よい温度に保たれた部屋で、氷の入ったアイスコーヒーを片手に書いている。そして、この文章を読んでいるあなたも同じ。ほんの1世紀も前であれば考えられない光景である。我々が苦しみから次々と逃げ続けるために、テクノロジーは発展し、文明が進歩したのは紛れもない事実である。文明の進歩とは「無痛化」の歴史に他ならない。

しかし、競馬の世界で優劣を競う段になると、話は違ってくる。過度に「無痛化」された環境で育てられたサラブレッドは、粗野な環境に対する適応力を失ってしまい、同時に競争力さえも失ってしまう。日本のトレセンの施設は世界一充実していると言っても過言ではない。サラブレッドを仕上げるための、ありとあらゆる設備が整っている。それ自体は非常に良いことだが、あまりに過保護に育てられすぎても、環境が変わってしまうと脆さを露呈してしまう。血統的にも能力的にも海外の馬と引けをとらない日本の一流馬が、あと一歩のところで及ばないのは、このあたりに問題があるのではないだろうか。

たとえば、日本の馬場には凹凸が少ない。窪みに脚を取られてしまって、ウン億、ウン千万もするサラブレッドが故障でもしようものなら大変な騒ぎになる。極端に言うと、石ころひとつ落ちていたら、先回りして取り除いてしまうようなお坊ちゃま、お嬢様扱いをしてしまうことになる。対して、ヨーロッパの競馬場や調教場は野原そのものである。凸凹があるのはもちろん、石ころだってたくさん落ちている。そんな中を当たり前のように、厩舎から調教場まで歩き、調教を施され、競馬場でもボコボコの馬場に脚を取られたりしながら、それでも最後まで走りきる。ちょっとやそっとのことでは馬が動じないし、人も馬をコントロールできなくなったりはしない。皮肉なことではあるが、粗悪な環境こそが、馬と人を鍛えているのだ。

莫大な資金を設備や施設に投じた結果、私たちは安心と安全を手に入れ、かつ日本の競走馬はここまで強くなった。が、その反面、たくましさという点では見劣りしてしまう。もはや後戻りはできないところまで来てしまった。これだけ高額なサラブレッドを原野で調教することなど、日本では考えられないだろう。ただ、ひとつだけ、ぬるま湯のような競馬に安住してしまうのではなく、困難がつきまとう海外の競馬に挑戦することでこそ、「無痛化」された日本の競馬に警鐘を鳴らすことができるのではないだろうか。たとえ負けて帰ってきたとしても、その過程で得た馬と人のたくましさは、かけがえのない財産として、これからの日本の競馬を支えていくはずである。


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「恩馬」フクリュウの思い出

昭和30年の秋、私は稗田敏男調教師から1頭の牝馬への騎乗を依頼された。旧年齢表記で4歳馬だった牝馬は、父クモハタ、母十九照、母の父セフトという血統。依頼を受けたときのフクリュウは3勝馬。オークスにも出走したが、札幌記念、条件戦と2回続けて惨敗していた。

稗田調教師から騎乗依頼があったのは、競馬でバリアーが上がっても、しばらくスタートしなかったために、出走停止となった直後のことだった。

「いっぺん乗ってみて」

と稗田調教師から言われて調教にまたがってみたら、フクリュウは怖い馬だった。

感受性が異常に強すぎ、少しでも自分が気に入らないことがあると暴れまわるのだ。また、鞍上が馬の意に沿わないことをさせようとすると意地を張り、体を硬直させ、押そうが引こうがムチを入れようが、テコでも動こうとしなくなる。まさに、ヒステリーを絵に描いたような馬だった。

さらに、フクリュウの顔色を見て怖くなった。

私がまたがると、顔色が紫色に変わったのだ。もしかすると、なにかをきっかけに人間との信頼関係が崩れてしまい、人間不信に陥っていたのかもしれない。

それからの私は、フクリュウと心を通わせようと、調教であらゆる手段を尽くした。

(中略)

フクリュウとのコミュニケーションは、父、野平省三から聞かされた、馬に乗る極意と同じだった。

「乗り手は、馬のリズムを会得して、初めて馬に乗ったといえる」

から始まり、

「風に稲穂のゆれる如く馬に乗れ」

と言われたほか、

「鞍上に人なく、鞍下に馬なし」や「人馬一如」

という言葉を何度も聞かされた。

(中略)

フクリュウとのコンビでやってきた積み重ねが、他人から見離された馬たちを、私にとっては最も得意な馬にしたのである。

欠点の多い馬。
どこかいじけて、走る気を失ってしまった馬。
素質はあるのに、人間を信頼できず、拒絶する馬。

なにかがきっかけとなって頑張れなくなり、力を出し切れないという馬たちが、好きでしょうがない。私がなんとかしよう、という気持ちになって真摯に向かい合えるからだ。

そんな馬たちから100%の力を引き出してやるのが、騎手の本当の仕事だと私は思う。クセ馬という言葉があるが、私は、生まれつきクセのある馬など1頭もいないと思っている。

要は人と馬の心の問題。ムチで叩けばなんでもいい、という考えだけはしてはいけない。それでは、臆病で繊細な馬たちは決して心を開こうとしない。

優しく馬に接し、馬が自分から走ろうとする気持ちにさせるのが、乗り役の役割なのである。
(「口笛吹きながら」)

Nohirayuuji

跨った数々の名馬の中で、決して1流とは言えないフクリュウを、祐ちゃんは恩馬として挙げる。人と馬の呼吸が少しでも合わないと、硬直してしまって、前にも後にもどうにも動かないフクリュウ。外見は貧弱で神経質な牝馬が、ジョッキーとしての野平祐二を開眼させ、リーディングジョッキーにまで育ててくれたという想いが、そこには込められている。名騎手は名馬によって育てられるというが、祐ちゃんは凡馬によっても育てられたのである。

祐ちゃんがフクリュウにしたことは、調教で跨る前に、まず手のひらでフクリュウの首をなでてやりながら、「怖い人間じゃないよ」と語りかけることであった。母親が赤ん坊をそうするように、フクリュウとスキンシップを取った。語りかけながら首を撫でると、ほとんどの馬は目を細めて安心するという。そうなれば、馬はだんだんと人間に対して心を開いてくれるようになる。フクリュウの顔色は見る見るうちに変わり、祐ちゃんが乗っても普段の顔色と同じになっていったのである。

祐ちゃんとの呼吸が合ったフクリュウは、オープン馬を相手に逃げ切り勝ちを収めた。そこから11連勝することになった。ジョッキーが何もしなくても走るような強い馬であれば、背中に誰が乗っても結果はほとんど同じだろう。しかし、そういった強い馬はごく一握りであり、弱い馬の方が圧倒的に多い。臆病で繊細な馬と真摯に向かい合ってゆくことこそが、馬を作るということなのである。

馬とコミュニケーションを取り、信頼関係を築き、同化すること。レースでは、スタートからゴールまで、ジョッキーの心と体はサラブレッドと一体となり、人馬が同じリズムを刻んで走る。それを祐ちゃんはフクリュウに教えてもらったのである。

今年のダービーを、エイシンフラッシュと共に制した内田博幸騎手は、競馬の魅力についてこう語っていた。

「騎手もそうですけど、競馬では馬もアスリートですから。鍛えられた馬に乗って、呼吸を合わせてライバルと戦って勝たなければならない。生きものと呼吸を合わせるというのはスポーツの中でも特殊ですよ。それは美しいスポーツのひとつじゃないかと思います」

競馬というスポーツの美しさを、これほどまで的確に表した言葉も少ない。自分とは異なる肉体や心を持った生きものと、呼吸を合わせてゴールを目指す。2者の身体と心がひとつになり、勝利した瞬間の喜びは計り知れない。それがダービーであれば、どれだけの幸福と一体感だろう。有力馬に跨ったジョッキーたちが揃って馬群に沈む中、閃光の如く直線を駆け抜けたエイシンフラッシュと内田博幸騎手は、まさに「鞍上に人なく、鞍下に馬なし」、「人馬一如」の美しさであった。


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騎手・岡部幸雄の本質

岡部幸雄の本質を私の中で改めて浮き彫りにさせたのはスティンガーという4歳牝馬だった。それも彼が手綱を取っていないときのスティンガーの姿やレースを見てのことだ。

武豊が騎乗して鮮やかな直線一気の圧勝を演じた京王杯スプリングCと、田中勝春が騎乗して4着に敗れた安田記念。この2戦に出走したスティンガーの背景に岡部の姿が鮮明に浮かび上がっていたのである。

というのも、世界に出しても恥ずかしくない現在のスティンガーを見事に作り上げたのは、彼という存在なしにはありえないからだ。

一流のレースで勝ち負けのできる馬は生まれつきの素質、資質が必要なのは当然。スティンガーはマイラーの資質があった。だが、それだけでは単なるマイラーで終わっていただろう。

いまのスティンガーは、資質に「好位で揉み合って抜け出せる強さ」というプラスαを身につけている。関係者と岡部が「スティンガーを単なるマイラーにしたくない。2000mでも勝てる馬にしたい」と願って、レースや調教でじっくり教え込んだからにほかならない。

私から見れば、「何もそこまで苦しめなくていいだろう」と思うほど道中でためることを教え込み、脚力と精神力の強さを作り上げていったのである。地のままでは昨秋の天皇賞で見せたような粘りはできなかったはず。

(中略)

スティンガーは、人間が理想の形に見事に作り上げた最近の一例である。

これは厩舎スタッフの考え方も絶対に必要だが、サレブレッドを完璧に仕上げようとする岡部の思想も大きい。いまのスティンガーを作り上げたのは、彼の思い込みである。

「自分の乗った馬を、力で相手をねじ伏せる馬にしたい。そのためにはもう少しこうなればいい」という激しい思い込みが、彼を理想の馬作りへと導くのだ。「思い込み」を「愛」という言葉に言い換えてもいい。

彼は愛ゆえに、どんな馬も、完璧な馬にしようと乗り尽くしている。それが、むしろ痛々しく感じられることもあるのだけれど…。
(「口笛吹きながら」より)

Nohirayuuji

岡部幸雄元騎手は、最も私の競馬観に影響を与えたジョッキーかもしれない。彼の語った言葉を聞き、彼の騎乗するレースを眺めて私は育った。彼の唱えた「馬優先主義」という考え方は、ホースマンなら誰しもが共感するところだろうが、第一人者がメッセージとして発し、実践したことで、改めて私たちの心の深い部分に染み入ったのである。同じレースに騎乗したことのあるジョッキーであれば、少し大袈裟に言うと、それはもう遺伝子のレベルにまで影響を与えたのではないだろうかとさえ思えるのだ。

騎手が馬を作る。作るという表現がしっくり来なければ、育てると言い換えてもよい。そんな当然のことが、当然のこととして行われた時代があった。今となっては、調教師を筆頭する厩舎全体は、アウトソーシングをしながら馬房を効率良く回すことが第一優先で(これを「馬房優先主義」という)、時間を掛けて1頭の馬を作り上げてゆくことが極めて少なくなった。

ではレースで育てようと思っても、乗り替わりが激しいため、まずは目先の勝利にこだわらざるを得ない。負けてもいいから色々なことを教えようなんて考えていると、次は外国人ジョッキーに手綱を持って行かれたなんてことになってしまう。もしかすると、岡部幸雄元騎手は、ジョッキーが馬を作ることが出来た最後の世代だったのかもしれない。いつの間にか、ジョッキーは強い馬に跨って、先頭でゴールを駆け抜けてさえいれば良くなった。

そんな時代の中でも、懸命に馬を作らんとするジョッキーもいる。

たとえば、安藤勝己騎手はレースよりも調教が上手いと言われているジョッキーである。彼の騎乗した数々の名馬の中でも、ダイワスカーレットという名牝がいるが、この馬は安藤勝己騎手が作り上げた馬と言っても過言ではないだろう。レースだけではなく、調教でもその背に跨り、ジョッキーと呼吸を合わせながら競馬で最も速く走ることを教えていった。底知れぬ能力を秘めた牝馬であったが、安藤勝己騎手でなければ、果たしてその素質が開花していたかどうか。単なるマイラーで終わっていた可能性も十分すぎるほどある。

また、最近で言うと、佐藤哲三騎手とエスポワールシチーのコンビもそうだろう。高い能力はあっても、レースでは自分にブレーキをかけるようなところがあった同馬を、佐藤哲三騎手は普通の馬の何倍もの時間をかけてG1馬へと育てていった。速く走ることを強要してくる人間に対して不信感を持っていたエスポワールシチーの心を、佐藤哲三騎手は散歩に連れ出したり、付きっ切りで調教をつけたりして解きほぐしていった。レースでも様々な課題を課しながら、勝ったり負けたりを繰り返しつつ、どんなレースにでも対応できるよう教えていった。エスポワールシチーも佐藤哲三騎手の期待に応えるべく、いや、期待以上の成長を遂げたのだ。

馬を作るのは「思い込み」である。馬は既製品ではない。もっとこうなれば良いという「愛情」がなければ、馬は育たない。そんな当たり前の、馬とジョッキーの信頼関係が希薄になって久しい。日本を代表するトレーナーである藤沢和雄調教師が、“ジョッキー”と呼んだのは岡部幸雄元騎手だけだそうである。馬に対する「思い込み」や「愛情」がなければ“ジョッキー”ではない、という強烈なメッセージがそこには込められている気がするのだ。人間が馬を作り、その過程の中で人間が育てられてゆく。そこに競馬というスポーツの本質であり原点がある。

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ミルリーフとの衝撃的出会い

初めてテイエムオペラオーの強さを認識したのは皐月賞だった。

1頭だけヨーロッパの競馬をしている、と思ったほどだ。以来、この世代のなかではテイエムオペラオーが最も強い、と言い続けてきた。

「研ぎ澄まされた鋭敏な鋼」

今年の春の天皇賞を見ていると、そんな表現が浮かんでくる。

あの脚力は日本の馬にはないタイプだ。四肢のつき方もそうだし、走法も珍しい。強い馬はフワーッと前脚がゆったり出るものだが、テイエムオペラオーの場合はピッチ走法なのだ。

乗っている側からすれば違うのかもしれないが、脚にしっかりと力を入れて走っているように見える。これは日本の強い馬としては型破りの走法といえる。それだけパワーと弾力が備わっており、だからこそ競馬で無類の強さを発揮できるのだろう。

体に余分なものは一切ついていないが、彼の体型は、決して頭抜けて素晴らしいわけではなく、派手に見せない。しかし、四肢が強健で、レースで驚くばかりの強さを発揮する。そんなテイエムオペラオーのイメージと合致する馬と、かつてヨーロッパで対戦したことがある。

その馬の名前はミルリーフ。

歴史的名馬と対戦したレースはフランスのガネー賞だった。私はロンバードという馬に騎乗していた。

ミルリーフは決して立派に見せる馬ではない。この程度の馬だったらわれわれでも作ることができると思ったほどだ。ところが、いざ競馬をしたらまるで違った。レースでの強さといったらなかった。乗っていた騎手には失礼かもしれないが、誰が乗っても勝てる、と思えるほどだった。

ミルリーフとの対戦によって、「強い」と「勝つ」の意味の違いを真剣に考えざるを得なくなった。いくらか力が劣っていても騎乗技術によって勝たせる、というのが当時の私のスタンスであった。ミルリーフとの出会いは、それを根本から覆されるほど衝撃的だったのだ。
「これまで日本でやってきた競馬はごまかしの競馬ではないか」と思い悩むほどに。
「勝ったから強い」ではなく、「強いから勝つ」。そうした馬を作らなければダメ。

そういう気持ちを抱いて調教師となり、出会ったのがシンボリルドルフだった。ヨーロッパでの経験があったから、初めてルドルフにまたがった瞬間、これは海の外へ出る馬だ、という確信をつかめたと胸を張って言える。

テイエムオペラオーも本当の意味で強い馬だ。正攻法の競馬にこだわらなくたっていい。「強い」とはこういうものだ、というものを見せつけてほしい。

日本で大レースを制して賞金を稼ぐのもいいだろうが、あの馬の強さや価値は、もっとほかにあるはず。

海外に言ってほしいとはいわないが、いずれ日本に相手がいなくなるときがくるだろう。そのとき、いやでも海の外を考えざるを得なくなるはずだ。それまで余裕を持って無事に勝ち続けてほしい。
(「口笛吹きながら」)

Nohirayuuji

このコラムが祐ちゃん先生によって書かれたのが2000年の5月。その後、テイエムオペラオーは、同年の有馬記念まで負け知らずの5連勝をすることになる。それまで3連勝してきていたので、あわせて8連勝、しかもそのうちの5勝がG1レースだったのだから、テイエムオペラオーという馬がどれだけ強かったか分かる。この馬の相手は日本にはいなかった。

皐月賞での走りを見て、祐ちゃん先生がテイエムオペラオーの強さについて熱く語った時には、正直に言うと、私にはその強さが分からなかった。この世代にはアドマイヤベガとナリタトップロードがいて、3強と称されていたのだが、私はその時点ではナリタトップロードが一番強いと思っていた。結局、アドマイヤベガがダービーを、ナリタトップロードが菊花賞を勝ち、クラシックの3冠を分け合った形となったが、祐ちゃん先生の見る目が正しかったのはその後のテイエムオペラオーの活躍を見れば明らかである。皐月賞の走りだけを見て、テイエムオペラオーの強さをあそこまで掴んでしまうのだから、さすが祐ちゃん先生だなと感じたことを覚えている。

今となっては、テイエムオペラオーの強さが私にもよく分かる。日本の馬場は軽いので、日本で強い馬たちは脚捌きが軽いことがほとんどだが、テイエムオペラオーの四肢は力強く、ピッチ走法で一完歩一完歩を弾けるように走るのだ。3歳時までは重さが残っていたが、4歳を迎えて古馬に成長してからのテイエムオペラオーは軽ささえも兼備するようになっていた。特に4歳時の天皇賞春と秋の2レースにおける、テイエムオペラオーの強さは桁違いで、同じサラブレッド同士が走っているとは到底思えなかった。ジャパンカップでの叩き合いに敗れたファンタスティックフライトに騎乗していたデットーリ騎手も、テイエムオペラオーの強さに驚愕し、「クレイジーストロング!」と言い残した。メイショウドトウしかライバルがいなかったことで評価を下げる向きもあるが、テイエムオペラオーの強さは今もって別格である。

惜しむらくは、一歩も海の外に出ることなく競走生活を終えてしまったということだろう。日本に相手がいなくなった後も、テイエムオペラオーは国内で戦い続けることを選んだ。あらゆる絡みがあったのだろうから、その是非についてここで問うことはしない。また、翌年(2001年)のテイエムオペラオーには目に見えない疲労の影が忍び寄っていたことも確かである。天皇賞秋とジャパンカップは2着と踏ん張ったが、最後の有馬記念では盟友メイショウドトウと共に力尽きた。天皇賞秋→ジャパンカップ→有馬記念と古馬G1を3連勝することの厳しさを、テイエムオペラオーは教えてくれたのだ。それでも、もしテイエムオペラオーが全盛期にヨーロッパのG1レースに挑戦していたら、G1のひとつかふたつは勝っていたのではないかと私は思う。

その後、ディープインパクトという21世紀の最強馬が出現することになるのだが、祐ちゃん先生はすでに他界されてしまっていた。もし祐ちゃん先生がディープインパクトの衝撃的な強さに出会っていたならば、何とおっしゃっただろう。テイエムオペラオーがミルリーフならば、ディープインパクトはニジンスキーもしくはダンシングブレーヴだろうか。テイエムオペラオーとは全く異なるタイプではあるが、海外に行くべきだと主張されたことは確かである。そして、ディープインパクトの凱旋門賞への挑戦に誰よりも胸を躍らせ、敗北に誰よりも胸を痛めたことだろう。「強いから勝つ」という馬を作らなければダメ、という祐ちゃん先生の言葉を、私たちは心のどこかに留めておきたい。



大外一気の強靭な末脚を見よ!

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調教師の苦悩と決断

フサイチゼノンが皐月賞を回避した。

出走すれば人気になる馬だけに、田原成貴調教師は「やめるべきか、行くべきか」と回避を決めるまで悩んだはずだ。これだけの馬の出否を決めるのは大変なことである。

3歳クラシックは、個々の馬たちにとってたった一度のチャンス。しかも、決められた日程の中で戦線に乗っていく厳しさが求められるだけに、体中きれいな馬などいない。

運よく、何事もなくいく場合もまれにあるが、「何らかのアクシデントが起こる」という悲運は、しばしば訪れるのだ。

それに直面して出否の決断を下すのは、調教師という立場として避けて通れない道。元同業者として、田原調教師の無念はいかばかりだったかと思う。

フサイチゼノンのような馬には、どんなにお金を積んでも、そうそう巡り合えるものではない。もしかすると、彼は生涯一度のチャンスを逃したかもしれない。だが、今回の決断を見ると、彼は「次がある」という考え方を選んだようだ。

田原調教師はフサイチゼノンに相当な思い入れがあるのだろう。それだけに「大レースを勝てるチャンスはこれから何度もある」と、ちょっとでも不安があるのならやめる、と決断したと想像できる。

関口房朗オーナーへ報告せずに回避を決めたのはいかがなものかとは思うが、万全の状態でない馬を出走させることはできない、という考え方に異論はない。しかし、彼の記者会見のコメントにひとつだけ気に掛かるところがあった。

それは「ダービーは当初から使う予定がない」と語ったことだ。

右トウ骨円位端骨膜炎は重症ならば意外と治りにくい部位であるのだが、回避を決めたその日の調教も行っていることから、致命傷を負ったというわけではなさそう。それならば、万全の状態に再度もっていけるのなら、ぜひ「次はダービー」と考えるべきである。

生産者はダービー制覇を夢に描いて配合を考え、種付けをして出産を待つ。牡馬が生まれたのにダービー出走を考えない生産者はいない。

ましてや、フサイチゼノンはサンデーサイレンス産駒で、弥生賞を勝っているのだ。特に馬主はフサイチゼノンの価値をダービー制覇に求めているはずである。

それを「血統や距離適性などから判断してダービーは考えていない」という考え方は改めるべき。人間の判断はすべて正しいといえるだろうか。

フサイチゼノンは中山2000mのG2戦を横綱相撲で堂々と勝っている。クラシックは同じ三歳馬同士の戦いである。皐月賞はもちろんのこと、400m延長するダービーだって問題はない。それでも距離適性に問題があるなら、それを補おう、という考え方があってもいい。

その努力をしないで「ダービーは出ない」というのは、戦いから逃げているといってもいいだろう。戦わずに道は拓けず、ビクトリーはない。

フサイチゼノンにとってダービー出走は無謀な挑戦ではない。イチかバチか。男だったら、勝負に出てほしい。
(「口笛吹きながら」)

Nohirayuuji


この事件のことは今でも生々と思い出す。クラシック最有力候補のフサイチゼノンが突然、皐月賞を回避したことだけではなく、その後の田原成貴調教師と関口房朗オーナーの間でのひと悶着が印象に残っている。「またやってくれたか」と「またやったか」というアンビバレントな想いが交錯して、何とも言えぬ複雑な心境であった。これまでに田原成貴という人物が競馬界に巻き起こしてきたセンセーショナルな事件の数々が、私の脳裏に鮮やかに浮かんでは消えた。

とはいえ、私の心中で答えは明らかであった。フサイチゼノンの出走回避は正しい決断である。オーナーに報告なしに回避を決めたのは常識外だとしても、その決断自体は正しい。万全の状態でない馬を出走させることはできない、という考え方に異論はない。のちに骨膜炎が発覚して、田原調教師の見立ての正しさは証明されたが、たとえ何も悪いところが見つからなかったとしても、おかしいと思ったのなら出走を回避するのが調教師としては常に正しい決断である。

言葉を話せないサラブレッドを守ることが出来るのは、人間をおいて他にいない。競馬にたずさわる人間が、サラブレッドの心の声に耳を傾けて、彼らの訴えているところを察してあげなければならない。そうしなければ、彼らは競馬場という名の戦場で深い傷を負い、最悪の場合、声もなく命を落とすことになるだろう。ダービーを勝つために生まれてきたのがサラブレッドだとしても、ダービーが終わっても彼らの一生は終わらない。Life goes on.

これはジョッキーにも同じことが当てはまる。少しでも危ないと感じたら、すぐその場で止めるべきである。たとえ何もなかったとしても、おかしいと思ったのなら馬を止めるのもジョッキーの正しい役割のひとつである。数々の馬たちの背中に跨り、心の声を聴いてきた田原成貴騎手だからこそ、サンエイサンキューやフサイチゼノンの異常に気づくことが出来たのだろう。馬を走らせるだけがジョッキーではないのだ。

という前置をしたのち、それでも出来る限りのことをしてダービーに出走させるべき、という祐ちゃん先生の意見には同感である。血統や距離適性が合わないと思うのなら、そこを人間が調教でカバーしてあげるべき。また、本調子になくとも、なんとかして調子を取り戻そうとするのが調教師としての務めだろう。たとえば、ロジユニヴァースは皐月賞でまさかの惨敗を喫し、ダービーへ向けて黄色信号が灯ったが、萩原調教師を中心とした陣営があらゆる手段を講じ、起死回生の勝利をダービーで飾った。最後の最後まで、馬の生命力と回復力を信じ続けた陣営の勝利である。あきらめていたら勝利はなかった。No guts, no victory.

これは余談になるが、ロジユニヴァースの皐月賞の敗因は社台グループの陰謀という説が流れたらしい。ロジユニヴァースの馬主はまだ1年目の新参者であり、いきなりクラシックを獲ってしまえば、長年、社台から馬を買ってくれる古株の馬主に申し訳が立たない。そのため、短期放牧で戻ってきたロジユニヴァースをあえて悪くして厩舎に戻したのだと。人づてにそんな話を聞いて、私は悲しかった。自分の商品に毒を入れるようなことするわけがない。競馬ファンの想像力をかき立てるようなファンタジーならば大いに結構だが、無垢な競馬ファンをもて遊ぶのはやめてもらいたい。面白いことを言ったと悦に入るのはその瞬間だけで、長い目で見れば、競馬に携わる自分たちの首を絞めていることに気が付かないのだろうか。私の予想は当たらなかったが、ロジユニヴァースがダービーを勝ってくれて本当に良かったと思う。


関連リンク
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騎手を育てる「強い馬」での経験

今週の桜花賞で最有力候補といわれるサイコーキララ。

浜田調教師は桜の女王を目指している管理馬に、弟子の石山繁を乗せ続けている。ある意味、これはすごいことである。

昨年、同じようにというか、もっと「すごいな」と思って見続けていたことがある。

テイエムオペラオーとナリタトップロードが、ずっと同じ騎手のままで出走していたことだ。ふつうなら馬の成績が良くなれば、もっといい騎手へと替わるもの。いまの日本の競馬社会では、それが日常といえる。

ところが、テイエムオペラオーの岩元市三調教師もナリタトップロードの沖芳夫調教師も、自分が育てた騎手の和田竜二と渡辺薫彦を替えないで乗せ続けた。それをやってのけて、成功させたことのすごさったらない。

一昨年、石山が本番で降ろされたのは、前哨戦を自分のミスで負けたのだから仕方ないだろう。乗り変わった武豊がファレノプシスの能力をあれだけ見事に引き出して2冠馬に輝かせたのだから、やむを得ない。あれがあったからサイコーキララに出会った、と思えばいい。

強い馬をつくることも大切だが、いかに素晴らしい人材を育て上げるかということも大事なこと。強い馬が出てきたら、弟子に乗せて経験させるべきだと思う。

次代を担う人材を立派にきちっと育てるには、彼らを見守り、教育する関係者の度量や人間性が必要だ。私が若手騎手だった時代は、いい馬に乗れなかった、というより、いい馬に乗ってはいけなかった。私より巧い先輩がいっぱいおり、そこには序列というものがあったからだ。

子供の頃から、父親の管理する小さな厩舎で、騎手たちのトラブルを見てきただけに、尾形藤吉厩舎という大厩舎にお世話になったとき、「ずうずうしく乗ってはいけないんだ」と思っていた。大げさに聞こえるかもしれないが、当時の私に「馬に乗れる喜び」は少なかったのだ。

(中略)

フリー全盛となったいま、自分のところの騎手を、いい馬に乗せよう、という傾向が目立つようになったのは、大久保洋吉調教師がメジロドーベルを弟子の吉田豊に乗せ続けたころからだろうか。

「自分のところで、なんとか、しっかりした騎手を育てよう」という考えを持つ調教師が増えてきたのは本当に嬉しい。いい時代になったな、と思う。

(「口笛吹きながら」より)

Nohirayuuji

このコラムの最後の一文を読んだとき、なぜか涙が溢れ出た。私の人生の個人的な状況に、ピッタリと符合してしまったのだろう。どういう状況かは思い出せないが、祐ちゃん先生の優しさが心まで染み入ってきたことは今でも覚えている。なんと素晴らしい人間が競馬界にもいるのだろう。そう思って、ますます競馬が好きになった。

野平祐二氏が感心したように、和田竜二騎手と渡辺薫彦騎手の起用法については、今から振り返ってみても、よくぞと思わせられる。当時もさんざん批判があったが、正直に言って、テイエムオペラオーの菊花賞は仕掛け遅れ、ナリタトップロードのダービーは早仕掛けだったと思う。それでも、岩元市三、沖芳夫の両調教師からは、誰が何と言おうと乗せ続けるという強い意志が感じられた。結局、和田竜二騎手はテイエムオペラオーの生涯全てのレースの手綱を握り、一方の渡辺薫彦騎手もナリタトップロードの引退レースまでその背に跨った。

「騎手は馬に育てられる」と言われるが、走る馬に乗ってこそ、ジョッキーは技術的にも精神的にも大きな成長を遂げる。走る馬ほど人間の指示に対して敏感であるため、わずかな動作の失敗が致命傷となる。また、走る馬の基準を知っていれば、他の馬のどこが足りず補わなければならないかも分かる。走る馬に跨って、大きなレースに臨んで得た経験も貴重である。

たとえば、野平祐二はスピードシンボリ、岡部幸雄はシンボリルドルフ、柴田政人はミホシンザンという名馬に出会ったことで、ひとつ上の次元で勝負が出来るように成長した。名馬たちの手綱や背から学んだものは、何ものにも代えがたい彼らの宝物なのである。だからこそ、「強い馬をつくることも大切だが、いかに素晴らしい人材を育て上げるかということも大事なこと。強い馬が出てきたら、弟子に乗せて経験させるべきだと思う」という言葉が生まれてくるのだ。

ちなみに、祐ちゃん先生が若き頃、走る馬には乗らせてもらえなかったのは、尾形藤吉厩舎の大先輩に保田隆芳という大ジョッキーがいたからだ。尾形藤吉厩舎は8頭のダービー馬を育て、クラシックレースを26勝もしたように、数え切れないほどの名馬を管理していた。その中でも走る馬は保田隆芳騎手が主戦を務めた。保田隆芳騎手からこぼれ落ちた馬は八木沢勝美、森安重勝という名手の手に渡った。見習い騎手であった野平祐二に走る馬が回ってこなかったのは、当時としては自然な序列というものでもあった。

かといって、尾形藤吉厩舎から人材が育たなかったかというと、そうではない。前述した保田隆芳や八木沢勝美、森安重勝というジョッキーに加え、戦死してしまったが前田長吉という天才ジョッキーも生んだ。調教師では松山吉三郎、伊藤修司が1000勝を挙げ、大久保亀吉、伊藤正四郎、美馬信次、工藤嘉見など、その後、競馬史に残るファミリーを形成している。走る馬がいるところに、優れた人材が集まり、お互いに切磋琢磨しながら育って行ったのだろう。馬と人が厳しさの中で育ったからこそ、これだけの偉業を成し遂げたともいえる。

それでも、祐ちゃん先生は敢えて主張する。強い馬が出てきたら、たとえ弟子が技術的にも人間的にも未熟であっても、乗せて経験させるべきだと。出来るだけ若いうちに走る馬に乗ることで、ジョッキーとしての成長は早くなるのだ。競争の中に放り込むのもひとつの育成方法だが、強い馬に乗せ続けることには敵わない。特にこれだけジョッキーの世界が市場原理で動いている今、人を育てなければ、中央競馬もしくは日本の競馬の将来は暗い。ポンと来日した外国人ジョッキーに簡単に大きなレースを勝たれてしまう現状を見て、祐ちゃん先生は何とおっしゃるだろうか。


この年のG1レースは今から観ても鳥肌が立つ。
もう10年前になってしまったのですね…

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高知競馬の廃止は許されない

私がなぜ高知競馬に対してこれだけ関心を寄せているかを説明する必要があるだろう。はっきり言えば、日本の競馬全体を思ってのことである。これは高知競馬ひとつの問題ではなく、日本の競馬全体に影響する大きな問題としてとらえているのだ。

存続の危機に立たされているのは、いまのところ高知競馬だけだが、それと同じような状況にいつなってもおかしくないとおもわれる、危ない競馬場はほかにもある。

たとえば、ホッカイドウ競馬の累積赤字は高知競馬を上回っている(私の実感では、北海道の関係者にはその危機感はないようだが)。高知の廃止が決まれば、他の地方競馬場に連鎖的に波及する危惧があるのだ。

日本の競馬場がひとつ減ることは、競走馬の流通経路がひとつなくなることを意味する。流通がなくなれば競走馬生産土壌にも影響してくるのは必至だろう。そのなかで最も大きな影響を受けるのが中小の生産者たちである。

競馬の歴史を見てもわかるように、強い馬は大牧場だけから出てくるわけでもないし、良血とされる血統だけから出るわけでもない。

思いもかけない血統からも、素晴らしい馬が出てくる。それがサレブレッド血統の神秘であって、競馬の面白さだろう。

ところが、地方競馬がひとつ減るだけで、生産した馬が競走馬としてデビューするチャンスすら与えられない牧場が増えることになる。いまでも苦しい状況にある、良血を持たない中小生産者の立場はさらに悪くなり、購入される馬が減り続けていけば、牧場経営をやめていく人たちの数は、いまよりも増えるだろう。

地方競馬がひとつなくなるだけで、少数の大牧場にいい馬が集中する傾向がさらに加速していくことは、容易に想像がつく。血統、出自などバラエティに富んだ馬たちによる競走が競馬の理想であり、特定の大牧場だけによる競馬では面白みが半減してしまう、と思っているのは私だけではないはず。

競馬場で走ることさえできれば、もしかすると素晴らしい走りをするかもしれない中小牧場の生産馬が、そのチャンスさえ与えられず、人知れず消えていく。

競馬場がひとつ消えることで、こうした現実がさらに増えていく。

私は日本の競馬を愛していることにかけては、誰にも負けないつもりだ。それだけに、こうした現実を、これからさらに見続けねばならないとしたら、寂しく、悲しくてしようがない。

日本競馬の将来を考えるなら、高知競馬がなくなっては困る。

そのために私の経験を生かすことができるのなら、できる限りお手伝いしたい。日本競馬全体のためにも、「高知競馬ひとつくらい廃止してもいいんだ」では絶対にダメなのだ。
(「口笛吹きながら」より)

Nohirayuuji

正直に言うと、かつて私は「競馬場ひとつくらい廃止してもいいのでは」と思っていた。利益を生まず、赤字を垂れ流しているのであれば、存続が危ぶまれるのは当然であり、主催者側(行政)のあらゆる癒着構造を断ち切らなければさらなる負の連鎖が生まれるに違いない。利益の出ないビジネスは、むしろ廃止すべきではないかとさえ考えていた。今から思えば、なんと単純な、派遣社員を簡単にリストラする企業の経営者たちのような発想であった。

日本の競馬のことを考えるのならば、高知競馬だけではなく、ばんえい競馬も岩手競馬も、なくなっては困るのだ。日本の競馬場がひとつ減ることは、競走馬の流通経路がひとつなくなることを意味する。地方競馬がひとつ減るだけで、生産した馬が競走馬としてデビューするチャンスすら与えられない牧場が増えることになる。競馬場で走ることさえできれば、もしかすると素晴らしい走りをするかもしれない中小牧場の生産馬が、そのチャンスさえ与えられず、人知れず消えていくのだ。まさに祐ちゃん先生の言うとおりで、私はそんな当たり前のことさえ分からずにいた。

たとえば、古いところでいうと、オグリキャップという馬は笠松という小さな競馬場でデビューした。笠松競馬場がなければ、もしかするとオグリキャップは競走馬としてデビューしていなかったかもしれない。そうなると、オグリキャップが演じた数々の感動のレースを私たちは味わうこともなく、オグリブームなどあるはずもなく、日本の競馬は今日のような陽の目を見ていなかったかもしれない。オグリキャップの感動のラストランを見て競馬にのめり込んだ私が、「ガラスの競馬場」を始めることもなかったかもしれない。もちろんオグリキャップだけではなく、テイエムオペラオーやメイショウサムソンなど、数々の名馬たちが中小牧場から生まれ、日本の競馬を盛り上げた。

さらに言うと、競馬場で働く人々や馬たちはどうなるのか。ひとつの競馬場にはおよそ1000人以上の関係者らが働いている。調教師、厩務員、騎手、装蹄師など、馬を速く走らせることに情熱を注いで生きてきた人々は、どこに行けば良いのだろうか。他の競馬場に移籍して、今までどおりの生活を送れるのはごく僅かな人たちだけである。かつて新潟競馬場が廃止されてしまった時にも、その関係者らは家族と共に全国各地に散り散りにならざるを得なかった。ジョッキーを続けられたのは、およそ半分にしかすぎなかったという。走る場所を失ったサラブレッドたちは食肉処分にされた。

今週の金曜日(祝日)に高知競馬場で黒船賞が行われる。昨年は開催中止となってしまったが、1年越しの開催の知らせを聞いた時は嬉しかった。一昨年の黒船賞には私も実際に足を運び、高知競馬の魅力を堪能させてもらった。高知の知己にも大変お世話になった。福永洋一騎手の出身地でもあり、高知の競馬ファンはそのことを大変誇りに思っている。息子の祐一騎手にも熱い声援が送られていて、胸が熱くなった。高知は気候だけではなく、人の心も温かい。こんな素晴らしい場所がなくなってしまうなんて、私には考えられない。

競馬場の廃止は絶対に許されないのである。


関連リンク
高知新聞HP:「高知競馬という仕事」
ガラスの競馬場:「岩手競馬廃止とかいばおけ支援金と」

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夢、そして競馬の理想の姿

実は、2月27日の引退記念パーティの前日まで豪州にいた。1ヶ月ほど滞在していたのだが、それは自分の体のケアのためだった。

以前、豪州で受けたある治療で体や頭が驚くほど軽くなったので、再びそれを受けにいったわけ。これで引退後もかくしゃくとして競馬を楽しむことが出来るので、みなさんご安心を。

もちろん、その間も競馬を忘れていたわけではない。オセアニア競馬に肌で触れ、以前の渡豪時にもまして、競馬の世界地図は縮小したと感じた。そのきっかけは、豪州でフジキセキの産駒をじかに見たからだった。

圧倒的な強さを見せつけながらクラシック直前に脚部不安で引退したため、「幻のダービー馬」と呼ばれているフジキセキ。

このサンデーサイレンス直仔は、数年前からシャトル種牡馬として、日本の種付けシーズン終了後に豪州へ渡っている。

すでに南半球産フジキセキ産駒は産声をあげている。その馬体が実に素晴らしい。当歳の仔にしては良すぎるくらいの体で、すでに引退したこの私が手掛けられないのはわかっていながら、欲しくなるような馬だった。

豪州ではいま、サンデーサイレンスの血を切実に求めている。日本からのシャトル種牡馬ではカーネギーも大人気なのだが、それと肩を並べるほどSSの血統が求められているのだ。

豪州の大手生産者、アローフィールド・スタッドは社台グループと契約を交わして南半球の種付けシーズン中に日本へ繁殖牝馬を送り込み、本家・サンデーサイレンスの種付けに来ているほどである。

かつて日本の競馬が欧州からの「名馬の墓場」と揶揄された。

私自身も、昭和50年に初訪日したエリザベス女王から、「ミスター・ノヒラがアスコットでスピードシンボリに乗ったレースを私は見ていますよ」と晩餐会で声を掛けられた際、続けてこう言われた。「たくさんの名馬が英国から来ていますが、(その馬たちを日本の競馬関係者は)どうなさるんでしょうね」

欧米から、どんなに名血が日本に集まったとしても、その血は世界の競馬に還流されることなく袋小路に入って日本で消えてしまう。それを関係者から聞いたエリザベス女王は悲しみ、危惧されていたようだ。

それがいまや、日本で育まれた血が、欧米や豪州で花開こうとしている。数頭の日本産サンデーサイレンス産駒がモハメド殿下らに購入されて欧米へ渡り、SSの血を求める豪州でも、フジキセキら日本産種牡馬が大きな影響を及ぼし始めている。

日本で生まれたヘクタープロテクターの仔(シーヴァ)も去年、アイルランドのG1を制した。日本のG1を制した日本産サラブレッドが欧米の重賞を勝つだけでなく、欧米で種牡馬になる。欧米の名血が日本を経由して再び欧米へ帰る。それが私の夢だ。

血統の交流が支える国際的スポーツという競馬の理想の姿が、日本でも徐々にではあるが見えてきた。

(「口笛吹きながら」より引用)

かつて日本の競馬が「名馬の墓場」と呼ばれた時代があった。グランディ、ジェネラス、クリスタルパレス、ファーディナンドなどなど、欧米の大レースを制し、鳴り物入りで日本に輸入されたものの、全くと言ってよいほど血を残すことなく、ひっそりとその生涯を閉じた名馬たちは枚挙に暇がない。最後は食肉にされてしまったファーディナンド事件などを見ても、欧米の競馬人にとって、ジャパンマネーで名馬を消費する日本の競馬が眉をひそめられる存在であったことは否めない。エリザベス女王の問いに対し、答えに窮してしまった祐ちゃん先生のお気持ちは察して余りある。

そういう経緯があったからこそ、祐ちゃん先生がオーストラリアでフジキセキの産駒を見たときの感慨はさぞ大きかったろう。療養中の異国で、自分の孫やひ孫にバッタリと出会ったような喜びがあったに違いない。「幻のダービー馬」と呼ばれたフジキセキが、日本初のシャトル種牡馬として、その偉大な血を豪州の地に残さんとしている。そして、その産駒たちは、祐ちゃん先生が日本に連れて帰りたいほど、立派な馬体を誇っていたのだから。

結果から言うと、フジキセキの豪州での産駒はさほど振るわなかった。105頭の牝馬、しかも一流牝馬を集めてもらっていただけに、オーストラリアの競馬関係者らの失望は深かった。向こうの競馬は短距離が中心で、しかもスタートしてからすぐにトップスピードに乗り、どこまでバテずに走り続けられるかを問われる典型的なスプリント戦になりやすい。道中はスタミナを温存しながらゆったりと走り、最後の直線で瞬発力が問われる日本の競馬に適性を見せたフジキセキの産駒は、オーストラリアの競馬には合わなかったのである。さらに日本での初年度産駒も、勝ち星は挙げるものの伸び悩み、偉大な父サンデーサイレンスに比べると、早熟で大レースに弱い血統との評価は固まりつつあった。

しかし、フジキセキは死ななかった。祐ちゃん先生のお眼鏡どおりと言おうか、2006年にはフジサイレンス(東京新聞杯)、タマモホットプレイ(シルクロードS)、ドリームパスポート(きさらぎ賞)、コイウタ(クイーンS)、そしてカネヒキリがG1フェブラリーSを制して、フジキセキ産駒が4週連続の重賞制覇を成し遂げたのだ。マッチョなフジキセキに対し、スマートな仔を出しやすい繁殖牝馬を配合するようになったこと、また調教技術が進化したことで、脚元に不安の出やすいフジキセキ産駒を壊さないように仕上げることが出来るようになったことなど。理由はひとつではないが、確かにフジキセキの血が爆発したのである。

その勢いは世界的に進行していった。オーストラリア産のサンクラシークが、2007年に南アフリカのG1レースを勝利し、2008年3月にはドバイシーマクラシックを制した。そして、ちょうどその同日、ファイングレインとキンシャサノキセキが高松宮記念でワンツーフィニッシュを決めた。

フジキセキだけではない。同じくシャトル種牡馬としてオーストラリアに供用されたタヤスツヨシやバブルガムフェローも、現地でG1馬を見事に輩出した。ローゼンカバリーやディヴァインライトもフランスへと旅立った。フサイチゼノンはアメリカへ。今年に入っては、ハットトリックがアルゼンチンに渡り、新たなゴールを決めようとしている。アメリカからやってきて日本で花開いたサンデーサイレンスの血は、再び海を越えて、世界へと血を還元されてゆく。そういう意味では、アドマイヤムーンがゴドルフィンに買われてしまったことも、むしろ喜ばしいことと考えるべきなのだろう。サンデーサイレンスの血だけではなく、フォーティナイナーの血を引くユートピアのトレードも同じだ。

欧米の名血が日本を経由して再び欧米へ帰る、という祐ちゃん先生の夢は、たとえビジネスという形を取ったとしても、少しずつではあるが実現している。少しずつではあるが。血統の交流が支える国際的スポーツ、これこそ競馬の理想の姿なのだ。

Nohirayuuji
この表紙の写真を撮影された今井寿恵さんがお亡くなりになったそうです。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

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競馬は文化であり、スポーツである。

Nohirayuuji

2000年2月29日。400年に一度という特異な「うるう日」に私はJRA調教師を定年引退した。自宅に贈られてきた多数の美しい花たちを見るにつけ、なぜか涙ぐんでしまう。愛してやまない競馬に、現役という立場ではもう二度と戻れないんだ、という事実が私をセンチメンタルにさせる。

愛する競馬のために尽くしてきた。昭和17年、中学2年で中退して競馬の世界に飛び込み、騎手そして調教師として歩んできたこれまでの58年間を、私は胸を張ってそう言える。

競馬は文化であり、スポーツである。単なるギャンブルではない。「競馬とばく」と呼ばれていた時代から「ギャンブル一辺倒からの脱却」、その実現のために苦しんできた。ギャンブルだけでは競馬は滅びてしまう。そういう恐怖におびえていたからだった。

愛すべき競馬を滅びさせないためにはどうしたらいいか。若手騎手だった私は真剣に考えた。その答えが「ファンに見せる競馬、ファンを魅せる競馬」をモットーに騎乗することだった。

騎手にファンの焦点が合えば、競馬のスポーツ性にも目が向くはず。私が「演技力」というところの騎乗法が注目を浴びればしめたもの。競馬は、単に数字が走っているというものから、騎手が操る馬たちが競い合うスポーツに昇華するはずだ。

だからこそ、私はパドックで騎乗し、馬場に入り、レースに臨み、馬を止めて下馬するまで、常にファンの視線を意識しながら乗ってきた。フェアに華麗に勝つ。いつもファンのために騎乗してきた。

職人ばかりの当時の競馬サークル内から、「キザ」「格好つけ」などと、冷ややかな視線を投げかけられた。しかし、そのなかでも、私のやっていることを許してくれる人たちがいたから、ファンのための競馬を続けることができた。

私に対するファンの視線が変わってきた、と感じ始めたのは昭和20年代後半から30年代前半にかけてだった。

レースを終えた私への罵声がだんだん少なくなってきたのだ。勝負師にはなれなかったが、ファンのための競馬をしようという、競馬場で見せる私の姿勢が、ファンに伝わってきたのだろう。競馬をスポーツとしてとらえるファンが生まれてきたことに大きな喜びを感じた。

調教師として最後の競馬となった27日の夜、引退記念パーティの壇上で、溢れんばかりに込み上げてくるものがあった。

足を運んでくれた400人ものファンのすべてが、競馬を文化、スポーツとして楽しんでいることを肌で感じることができたからだ。

「ファンのためにやってきた自分は間違っていなかった。いま目の前にいる彼らこそ、競馬の人気を支えてくれる人たちだ」

さんざん苦労をかけた妻、嘉代子の横でそう思うと、不覚にもみんなの顔が涙でぼやけてしまった。

私が去っても競馬は続く。それが永遠であってほしい。これからも、競馬に対して私が力を尽くせるものがあるならば、日本の競馬のためにバックアップしていきたい。

口笛を吹きながら…。

これを競馬界での第3の人生を歩み始めるにあたっての所信表明としたい。

「58年間の競馬人生を改めて思う」より


この所信表明を読むだけで、私も涙ぐんでしまう。祐ちゃん先生が中学校を中退して飛び込んだ当時、競馬はセピア色の世界だった。生活費までを賭さんとする男たちが集まる賭博場であり、サラブレッドやジョッキーはギャンブルの駒であり、レースが終われば怒声や罵声が飛び交った。そこには文化やスポーツとしての感動や華やかさはない。まさに祐ちゃん先生の言うギャンブル一辺倒の時代であった。

誤解しないで欲しいのは、祐ちゃん先生はただ単に競馬にロマンだけを求めたわけではないということだ。競馬にはギャンブルという側面がある、いや半分はギャンブルであるということを誰よりも痛感していた。馬券が売られなくなった時代に、競馬がどれほど急速に衰えていったかを身をもって知っているからだ。競馬からギャンブルがなくなれば滅びてしまう。しかし、ギャンブルだけでも滅びてしまう。ギャンブル一辺倒から脱却しなければならない。そう感じていたのだ。

私が競馬を始めたのはオグリキャップが引退した年だから、競馬がカラーの世界になっていた時代だ。祐ちゃん先生が競馬の世界に入った時とは比べようもないほど、感動やロマンや華やかさが溢れていた時代。競馬が滅びてしまうという恐怖感はさすがになかったが、私は競馬を楽しむことにある種の罪悪感を覚えざるを得なかった。罪悪感というよりも、恥ずかしさといった方が適切かもしれない。いわゆるギャンブルというものに手を染めている恥じらい。それは今でも続いている。

「好きなことはなんですか?」と初対面の人に尋ねられると、私はいつも「競馬が好きです」と答えるべきかどうか逡巡し、葛藤し、「野球です」「ビリヤードです」「映画です」などと決まってごまかす。その0.1秒の逡巡や葛藤を数え切れないほど積み重ねてきた。野球もビリヤードも映画も好きなのでウソではないのだが、どうしても「競馬」とは答えられない。おそらく、その後に続く、「えっ、競馬?で、儲かってるの?」という質問に私は耐えられないからだろう。儲かっていないからではない。私が儲かっていないと答えれば、「ほらね、やっぱり儲からないよね」と相手は納得してくれるかもしれないが、そうではなく、たとえ儲かっていたとしても、そのたったひとつの質問で私の大好きな競馬が、単なるギャンブルに帰せられてしまうことに傷つくである。

それでも私は競馬の魅力について語りたい。大切なのはバランスであって、ギャンブル一辺倒ではなく、もう半分の文化やスポーツとしての競馬についても語らねばならない。たとえ偏見や差別があったとしても、私は語り続けなければならない。いや、偏見や差別があるからこそ、私は語るのをやめない。これが私の原動力でもある。もちろんそれだけではなく、競馬を愛してやまない人たちに、私の大好きな競馬についてもっと深く語りたい。祐ちゃん先生が筆を置いてから7年が経った。その間、私は「ガラスの競馬場」を立ち上げ、こうして駄文を書き連ねてきた。そしてこれからも、誰に何と言われようと、私の命の続く限り、大好きな競馬について語り続けるだろう。あなたと競馬が、100年続くことを願って。

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野平祐二の競馬観、私の競馬観

会ったことも話したこともないのに、敬愛してやまない人が誰にでも一人や二人はいるだろう。私にとって野平祐二氏はその一人である。お会いする前にお亡くなりになった。いつかどこかで必ずや巡り会う運命にあった。そう私は信じている。だからこそ、私は野平祐二氏を“祐ちゃん先生”と心の中で呼び、敬愛してやまない。

競馬を始めた頃の私の月曜日は、祐ちゃん先生の観戦記を読むことから始まった。レースの全体像から各馬の走り、各ジョッキーのわずかな動きに至るまで、祐ちゃん先生の観戦記には競馬に対するありとあらゆる見識が埋め込まれていて、示唆に富んでいた。自分の抱いた見解(当時は感想にすぎなかったが)と祐ちゃん先生のそれが一致していれば秘かに喜び、ズレていればその溝を埋めようと幾度も再読した。そんなやりとりを何年も繰り返すうちに、祐ちゃん先生のひと言ひと言が私の血となり骨となっていった。

余談になるが、競馬をどれぐらい知っているかは、その人の書く観戦記を読めばおよそ分かる(と私は思う)。競馬は未来を占う要素がどうしても前面に押し出されてしまいがちだが、知れば知るほど、現実をどう解釈するかの方が大切だと知るようになる。どの馬が勝つのかという予想はうちの家内でも出来るが、さすがに観戦記は書けない。しかも真っ当な観戦記ともなると、競馬を少しかじっているぐらいの人では書けない。あの祐ちゃん先生の観戦記を精読できた経験は、私にとって貴重な財産である。

祐ちゃん先生の観戦記が読めなくなった年の秋、私は「ガラスの競馬場」を立ち上げた。競馬を教わる人がいなくなったという喪失感を乗り越え、今度は自分が競馬について書いていこうと思った。観戦記が読めなくなったのならば、自分で書けばいい(到底及ばないにしても)。祐ちゃん先生に競馬について書くことを許されたような気もした。それが祐ちゃん先生に対する、私にできる唯一の恩返しであった。

あれから7年間、競馬についてありとあらゆることを書いてきたつもりだが、ひとつ大切なことを忘れていたことに最近気が付いた。祐ちゃん先生から教えてもらった競馬観をひとりでも多くの競馬ファンに伝えるということ。これは競馬の神様から私に与えられた使命だろう。残念ながら観戦記ではないが、私がバイブルとして愛読している「口笛吹きながら」が幸いにして今手元にある。その中の言葉を引用しながら、私なりの解釈も加えて、今年ここに復刻させてみたい。

Nohirayuuji


関連エントリ
「ガラスの競馬場」:君は野平祐二を見たか?
「ガラスの競馬場」:口笛吹きながら


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